(5) 酒場



 「ううっ、困ったなあ…。これじゃ、一軒ずつ見て回るしかないってことか…」
 「とにかく、ピアノバー言うなんを探してみたらどうじゃ。で、どうなんじゃろうか、これで、外から見て、ピアノバーいうなんが分からんのかいな?」
 「そうですねえ、看板にでも書いてあればいいんですが」
 「ま、ここがわしらの瞑想空間であったとしても、あんたの記憶の闇であったとしてもじゃ、この辺りで探すしか、わしらには手掛かりいうてないんじゃから、どこでもええから、覗いてみたらどうなんじゃ?」
 「はい。それじゃリストさん、かなり歩いてお疲れでしょうから、私がちょっと回ってみますので、どこか、この辺りの店にでも入って、お待ちいただけますか?」
 「おおっ、ほうで、そりゃ悪いなあ…。あんたには申し訳けないが、わしゃちょっと疲れたから、そうさせて貰うかなあ…」
 「ええ、どうぞ。それじゃ、どの店にしましょうか?」
 「ふむ、じゃ、その小さな店で、ぼちぼちやっとるよ…」
 気取りもてらいもない、それ故にと言うべきか張り子文化の見え透いた悍しさもない、つまりは丈夫なだけが取りえのドアーひとつの店は、左側に小さなスポットに浮かび上がったカウンターがあるだけの、古びた細長い小さな酒場なのだ。
 ちょっと気のよさそうな静かなバーテンが一人いて、所在無い顔でグラスを磨いている。
 「あの、バーテンさん、こちらに何か…、リストさん、ビールではどうですか?」
 「ああ、なんでもええよ」
 「じゃ、ビールをお願いします。私は、ちょっと用事がありますので…、いや、すぐ戻ります。ええっと、リストさん、このレコード置いていきますので、よろしく…」
 行者はバッグを下げたままで店を出た。店に取り残されたリスト老人は、バーテンの注いだビールを一気に飲み干して一息ついた。
 バーテンがすかさずビールを注ぐ。タバコの煙が抜け切らぬ緩慢な空気にオイルヒーターの微かな灯油の臭いが漂って、グラスを少し曇らせるけだるい時の流れを慈しむかのように、ダウンタウン・ブギウギ・バンドのスローバラードが擦り切れた音で鳴っている。
 「今は、こういうなんがはやっとるんですか?」
 「はい? ああ、ダウンタウン・ブギウギ・バンドですか?」
 「ほう、そういう曲ですか」
 「いえ、歌っているグループの名前です。曲名は僕も知らないんです。このテープは、彼女が持ってきたんですよ。ねえ、Tちゃん、この曲はなんて言うの?」
 「あたしも、借り物だから知らない…」
 「おおっ、わしだけかと思っとったら、誰かおったんですか? んん!? ありゃ、あんたら、ここにおったんか…」
 「ええっ? あなた誰?」
 「だっ誰いうて、言われても困るんじゃが、いま出ていきよった者が、あんたらを探しとったんじゃ。ん? 待てよ、人違いじゃろうか…。
 ふむ、これはどういうことなんじゃろうか、いまさっき擦れ違ったときは、二〇歳そこそこの娘のように思えたんじゃが」
 「なによ、ババアで悪かったわねえ」
 「いやいや、これは失礼。そういうわけじゃないんじゃ、ハハ」
 「へえ、でも気が付かなかったなあ…。誰だったんだろう…」
 「わしらも、あんたらには気が付かんかったなあ…。こんな小さな店じゃいうのに、おかしなこともあるもんじゃ」
 そのとき、カウンターの一番奥から声が掛かった。
 「へへへ、あたしは気が付いてたわよ。ただ、ちょっと、声かけそびれちゃってね…」
 「ええっ、何よ、Y子。誰だったの?」
 「Nちゃんよ。ちょっと、様子が変わってたけどね…」
 「なんだ、そうだったの。何年になるんだっけ?」
 「ええっと、六年かな…。お互いに、いい年になるわけね」
 「そうか、もう、そんなにたってんだ…」
 「今に、戻ってくるじゃろう。あんたら探して、そこいらの店を覗いて回っとるよ。しかし、なんじゃなあ…、あんたらは、実によく似とるなあ…」
 「へえ、あたしたちに似た人がいるの? ああ、そっか、その擦れ違ったとかいう若い娘でしょ?」
 「いや、擦れ違ったんは、たぶん、あんたらだったんじゃろう。そうじゃなくて、わしらはな、実は、あんたらによう似た娘らとな、んん?」
 「女の娘は一人じゃなかったの?」
 「おお、二人じゃ。それでピアノバーへ行く途中じゃったんじゃよ。それが途中ではぐれてしもうてな…」
 「相手が若い娘じゃあ、スッポかされたのよ?」
 「こんなオバサンたちでよかったら、付き合ってあげてもいいわよ、ねえ、T子?」
 「ふうん、そうか。あなた、Nちゃんと積もる話があるってわけ?」
 「ううん、そういうわけでもないけど…。でも、やっぱり気まずいかなあ…」
 「ほう、そういうもんかのう…。それとも、気まずい別れ方をしてしもうたいうことかな…」
 「ねえ、そんな話は、もういいわよ。ところで、その逃げられた娘たちに、まだ未練があるの?」
 「いやいや、逃げられたんじゃなしに…、どう言うたらええのか、まあ、簡単に言うたらさらわれてしもうたようなもんなんじゃ」
 「さらわれたの?」
 「さらわれたって、何よ? それじゃ大変じゃない? それで犯人は?」
 「犯人いうてもなあ…。そうか、それじゃ、迷子になったとでも言うたらええのかなあ…」
 「なによ、迷子になるような子供なの?」
 「いや、迷子言うても…」
 その時、小さな店の緩慢な空気が唐突に吸い出されるようにドアーが開き、そんな緊張がプツンと切れて行者が冷気を纏って入ってきた。
 「あっ、あれ!? 君たち、ここにいたのか?」
 「おおっ、帰ってきよった。ご苦労さんじゃったのう。実は、わしらが気がつかなかったんじゃが、さっきから、ここにおったんじゃそうな…」
 「ええっ? そんな…。そうすると、どういうことなの? あの消滅してしまった空間から、ここへ直接ワープしたってわけ?」
 「あんた、何を言っとるんじゃ。ここにおるのは、さっき擦れ違った二人連れじゃよ。あんたとは、いわく因縁のある…、なんじゃったかな、その…、名前は?」
 「Yちゃんですか?」
 「おお、そうじゃないか」
 「リストさんこそ何を言ってるんですか。そこにいるのは<太モモ>さんたちじゃないですか?」
 「んん? あんたは、六年もたっとるいうから、忘れてしまいよったんじゃないか?」
 「リストさん、よく見てくださいよ。ほら…」
 「ありゃりゃ!?」
 「あたしたちも、どうなったのか、さっぱり分からないのよ…。気が付いたら、いつものこのお店にいるんだもん…。それにリストさんまでいて…」
 「どうやら、ピアノバーってわけには、いかなかったわね」
 「そう、日曜日のこの時間じゃ、もう締まってるかもね…」
 「ふむ、おかしいなあ、わしも、あんたの記憶の中で、迷子になってしまっとったんじゃろうか…。しかし、おかしいなあ、六年前に別れた言うとったんじゃから、その後のことなぞ、あんたの記憶にあるわけもないしなあ…」
 「リストさん、どうしたんですか、ここにYちゃんがいたんですか?」
 「ああ、さっき擦れ違った時は、まだ二〇歳そこそこの娘じゃと思っとったのに、ここで会うたら、若いいうても、もう三〇くらいには見えたがなあ…」
 「どうやら、さっきのニワトリ体験以来、作者の何んらかの企みか、作為がかなり介入しているってことじゃないんでしょうか?」
 「ふむ、そうかもしらんなあ…」
 「いやあ、しかし、無事でなによりでした」
 「お客さま、何にいたしましょうか?」
 「ん? ああ、そうですねえ、私は…」
 「ああ、マスターっ、グラスだけ出して、あたしたちのボトルでやるから…」
 「ほう、ここはあなたたちのなじみの場所だったんですか?」
 「うん、まあね…。それにしても、どうしてここが分かったの?」
 「いやあ、まったくの偶然なんです。いまもリストさんの言われた、私の六年前に別れた彼女を探して、この近所の店を回ってきたところなんです。いえ、それというのも、実は、それが皆さんを探す唯一の手掛かりだったというわけなんです」
 「何いってんだかよく分からないけど、行者さんの昔の彼女があたしたちと何か関係があるわけ?」
 「というよりも、あのニワトリの神秘体験が皆さんと共に消滅してしまって、とんでもないことになってしまったと思ったんですよ。しかし、末広町の交差点に取り残された私たちに、皆さんを救い出す手掛かりがなかったんです。
 それでいろいろと試行錯誤はしてみたんですが、結局、いかなる神秘体験も、その原因を探ってみると自分の記憶に辿り着くんじゃないかと思いましてね。ま、とりあえずは私の記憶を辿るしかないと考えたわけなんです。それで、あっちこっちと迷っていたもんですから…。たまたま擦れ違ったのが…」
 「昔の彼女だったってわけね。でも、ひょっとすると、行者さんとしては、その彼女の方が良かったんじゃないの?」
 「いやいや、そんな冷やかしはよしてくださいよ。私は、自分の瞑想的手法における不手際で、皆さんを見失ってしまったことを、ほんとうに申し訳なく思って心配していたんですから…」
 「ふうん、まあ、いいけどさ。だけど、あのニワトリは凄かったわねえ…」
 「そう、まさか、あんなのが出てくるとは思ってもみなかったから…」
 「しかし、おかしいなあ…。なんであんたらが、ここにおるんかなあ…。いま、わしは、Yちゃんいうなんと、それに、ええっと、ああそう、Tちゃんいうなんに会って、ここで話をしとったのになあ…。なんじゃか、すっかりボケてしまいよったんじゃろうか?」
 「リストさん、そんなに思い悩むことはありません。これは、いまも言ったように、私の記憶の混乱に乗じて、あの作者が何等かの企みを持って介入してきているってことなんですよ。この混乱に取り付かれてしまったら、作者の思う壷になってしまいますよ」
 「ふむ、そうじゃろうか…。まあ、あんたがそう言うなら、そうかもしらんな…」
 <かたぶとりの太モモ>たちは、まるで遊び慣れた性分を若さの特権とばかり見なして、ほとんど地母神の無言の欲求には無自覚なまま翻弄されて悔いるところがない様子だけど、それも日々のささやかなる不成就性の青春が欲求不満によってのみ凍てつかせた高原に、半日待つことさえ苦汁に満ちた遅い春が夜になって到来し、性能なんかは問う必要のない何はともあれブランド品のフォードやフィアットのトラクターが、闇雲な快楽に向けて性急な期待を担って掘り起こす母性の大地に、怠惰な主体性を貧っていた凍土の苦笑いが垣間見えるようなものだから、はたして酒場という欝屈した自己愛の吹き溜まりから行者が語り起こそうとする神秘体験を、どれほどの反省的知見として再確認しうるものなのか。
 「ねえ、今日は、あたしたちのおごりってことにして…」
 「とにかく、無事に再会できたお祝いに乾杯しましょ!!」
 「いやあ、私としては、まさか、こんなことで再会できるとは思ってもいませんでしたよ。なんせ、とんでもない神秘体験の真っ只中で突然さらわれてしまったようなものでしたからねえ…」
 「ああ、わしゃ、度肝を抜かれたよ。しかし、この辺には、すごいなんが出るんじゃなあ…」
 「ねえ、その神秘体験の中で突然さらわれたって、どういうこと?」
 「ええっ、きっ君たち、覚えてないの?」
 「なに、それ?」
 「なに言ってるんだよ。再会することになったそもそもの原因が、あの神秘体験じゃないか?」
 「なによ、Nちゃんと別れたことが神秘体験だっていうの? それともあの別れ方が神秘的だったとでもいう気なの?」
 「んん? 君っ、なんで僕の名前を知ってるの?」
 「どうしたのよ? あたしが、六年前のままだからって、なにもそんな言い方はないでしょう? Nちゃんは勝手に年とっちゃっておじさんになったからって、Nちゃんであることには変わりないじゃないの、そうでしょう?」
 「ああっ、君は、Yちゃん!! そういえば、ちっとも変わってないね…」
 「だって、六年前のままだもん」
 「ちょっと待った!! どうしてこの僕が、六年後の姿だってことが分かるの?」
 「なによ、それはNちゃんが決めた条件じゃないの?」
 「ちょっと待った。それ、本当に僕が決めた条件なの?」
 「いやあねえ、それじゃ誰が決めるっていうの? だってこれはNちゃんの記憶物語なんでしょ?」
 「ええっ、君たちは、自分が僕の記憶の中の存在だと知ってるってことかい?」
 「いやあねえ、でなきゃ、今頃になって、のこのことこんな所へ出てくるはずないでしょう?」
 「そっ、そりゃそうだけど…。そうすると、いま再会したはずの<太モモ>さんたちが、作者の仕組んだ幻想だったってことか…」
 「なに? そのフトモモさんって?」
 「いっ、いやあ、実は、君たちに辿り着かせてくれた…、んん? そうじゃない、その後の君たちが生きたであろう可能性の中から、その行方を探そうと思っていたところの女の娘たちなんだ」
 「なによ? それ、どういうこと? あれから六年たったあたしたちに、いったい何を語らせようっていうの?」
 「ああっ、そうか…。もう六年もたってしまったのか…」
 「もう、Nちゃんが話し始めると、いつも何が言いたいのか分かんなくなっちゃうんだから…。ねえ、あなた、いつまでもあたしたちを記憶の中で弄んでないで、何を聞きたいのかはっきり言ってみて?」
 「ありゃりゃ、あんたらどこへ行っとったんじゃ。なんじゃか、あんたらも腰が落ち着かんのじゃなあ…。
 んん? いや、そうじゃなくて、あんたが混乱しとるのか? とにかく、今はあんたがこの瞑想を仕切っとるんじゃから、行者らしくしっかりしてもらわなんだら困るぞ」
 「ええっ、行者って何? Nちゃん、いま何やってんのよ?」
 「そういえば、ふたりともなんか変なかっこしてるわねえ…」
 「うっ、うん。実は、いま宗教やってるんだ」
 「宗教って、どういうこと? お店はやめちゃったの?」
 「ああ、店の方は、手を引いてから一年ちょっとになるかな…。宗教の方はまだ二年ほどだけどね」
 「ふうん、やっぱり。お店はやめたらしいって噂は聞いてたけど、宗教とはねえ…。それでお坊さんになったってわけ?」
 「そういえば、なんていうのかしら、Nちゃんには、何かそんな気があったわよね」
 「そう、確かに、今のその頭からすれば、まだまだその毛はあったみたいね、ハハハ」
 「フフフ。いやあねえ、あたしは、そんなこと言ってないでしょう…」
 「ハハハ。まあ、この髪の毛も、あの八年に渡る地下暮らしからの当然の帰結ってわけです。ところで、僕の行者としての立場っていうのは、職業としての坊さんとはちょっと違うけどね。ま、自分の目的とする修行を抱えた宗教者とでも言うところかな…」
 「なんだか、こまかいことは分かんないけど、じゃ、もう絵を描いてるわけじゃないんだ?」
 「いや、修行の方法論としては、以前にも増して絵は描き続けているけどね…」
 「ふうん、そうすると、結局は、自分のしたいことを始めたってわけね」
 「まあ、そういうことになるね」
 「ねえ、だけど、それで食べていけるの?」
 「うん、たまにアルバイトする程度だけどね。まあ、一人になれば、したいことをしたって、そこそこ生きていけるもんだよ」
 「だけど、よくそんな生活をする気になったもんねえ…」
 「まあね。それより君こそいま何やってんの?」
 「ううん、相変わらずよ。ま、適当に勤めて、遊んで…。別にどおってこともないわ…」
 「そうねえ、あたしたちって、ただ年を取るだけみたい…。Nちゃんみたいに、何かやりたいことがあるわけじゃないしねえ…」
 「だけど、そんなことが聞きたくて、あたしたちを呼んだわけじゃないんでしょ?」
 「ん? ああ、そうなんだ。実は、今日はたまたま連れの女の娘がふたりほどいたんだけど…」
 「さらわれたとか言うんでしょ?」
 「あれ、どうして知ってんの?」
 「だって、さっき、そのおじいちゃんに聞いたもん。だけど、それとあたしたちが、何か関係があるわけ?」
 「そう言われると言葉に詰まってしまうんだけど、その見失ってしまったふたりが、これから語っていくつもりの物語にとって、欠くべからざる人材だったってことなんだ。それで、そのふたりが、どういうわけか、君たちの一〇年くらい前によく似ていたってことがあってね…」
 「だからって、今になってあたしたちのところへ来たって、どうなるわけでもないじゃない? だいいち、そのNちゃんの物語って、いったい何んなの?」
 「ん、まあ、この物語っていうのが、とりあえずの修行ってところかな…。
 ま、この物語のことは、いずれ説明するけどね、とにかくは、見失った彼女たちに辿り着ける手掛かりっていうのが、どうやら君たちへの記憶に帰ることによってしか辿れないと感じられたってわけだね。
 そこで、彼女たちと語るはずの未来について語るには、一〇年前の君たちから、願わくばいまここで立ち会うことになる現在の君たちに、今日に至るまでの情況を語ってもらうことで、何等かの手掛かりを発見できるんではないかと思ったわけなんだ」
 「なんだか、よく分からないわねえ。でも、そうすると、あたしたちって、六年前の姿じゃなくて、こんな感じのオバサンでなくちゃ駄目なんでしょ?」
 「ああっ、そういうことになっちゃうのか…」
 「なによ、そんな言い方ってないわよ。すっかりオバサンで悪かったわね。
 でもねえ、この情況は、Nちゃんが自分で辿り、語り始めた物語であるはずなんだから…。結局、現在のこの美貌にしたって、Nちゃんがどう思っているのかってことの証にすぎないのよ」
 「あんまり、失礼なこと想像しないでね、ハハ」
 「いや、君たちは、まだまだ十分に若いですよ。ほんと。ほんとだよ。でも、いまここでは、それが問題になっているわけじゃないんだ。実は、彼女たちを見失ってしまった事件というのが、われわれの、いや僕の記憶に起因する神秘的な体験の真っ只中だったってことがあってね…」
 「ふうん…。で、その神秘的な事件って、いったいどんなことだったの?」
 「待って待って、そんなに先をいそがなくたっていいじゃないの。久し振りに会ったんだから、まずは、一杯飲んでからにしたら…。Nちゃん、宗教始めたからって、お酒まで止めちゃったわけじゃないんでしょ?」
 「ううっ、まあね。でも、飲み方は変わったかな…」
 どうやらリスト老人も、行者にしても、世俗的欲望にたいする禁欲とは無縁の様子であるが、しかしリスト老人はといえば、軽く取り上げたグラスに何か有り得ぬものを見詰める諦観を漂わせながらも、その行為の究境において目的するものを聖体拝領として確信させるほどの観想を示し、行者に至っては、すばやく<大虚空蔵菩薩普供養>の印を結び、再びドーナッツのとき以来の真言を唱え、いわく三世十方法界に群生の諸仏、諸菩薩並びに先祖代々の諸精霊を供養するという観想に入っている。
 それも、せいぜい二〇秒そこそこのことで終わり、四人は改めてグラスを合わせた。
 「ふうん、確かに、飲み方は変わったみたいね」
 「ほんと。で、その神秘的な事件ってなんだったの?」
 「実は、そこの末広町の交差点辺りだったんだけど、とてつもなく巨大にして荘厳なるニワトリが転ぶのを見てしまったんだ」
 「また? いくら宗教を始めたからって、そりゃないわよ…」
 「でも、何? その巨大なニワトリって?」
 「うん、だから、想像を絶するほどの大きさなんだ。ちょっとおかしな言い方なんだけど、ひょっとすると宇宙的規模の大きさでね…。それが、どうしたわけか、納まるはずのない中央通りという空間で、ものの見事に転んだわけさ。それがまた荘厳な光景でね」
 「ああ、こりゃだめだ。そんな訳の分からないもの見るようになっちゃったら、駄目ね。いい人だったのにねえ、ハハハ」
 「だけど、それと、その女の娘たちと、どんな関係があるの?」
 「うん。そのニワトリがね、何を思ったのか、彼女たちをくわえて逃げようとしてね。それを逃がしちゃならないと思った僕が、必死で呪文を掛けたわけさ。
 それが効を奏したってことでもあるんだけど、ニワトリを転がしたところまではよかったんだ。ところが、それと同時に、その神秘的な瞑想空間までもが崩壊を始めてしまったんだ。その時、ニワトリが荘厳な苦悶の中で、彼女たちを消滅する直前の瞑想空間へと放り込んでしまったってわけさ」
 「そして、すべてか消えてしまったってわけね」
 「まあね…」
 「それで、そのさらわれた彼女たちがあたしたちに似ていたっていうのは分かったとしてもよ、そのニワトリとやらと、あたしたちとはどんな関係なの?」
 「ふむ、それは分からない。ただ、そのニワトリが出現した神秘体験っていうのが、そのときのわれわれの共通の無意識といったものによって支えられていたってことなんだ。
 そもそも荘厳なるニワトリっていうのは、われわれの瞑想で唐突に遭遇することになった神秘体験なんだけど、その瞑想のキーワードというのが<辿りつけない問題>ということだったんだ」
 「辿りつけない問題? それがキーワードなの?」
 「そうなんだ。ところが、問題は与えられていないのに回答としての<感動>という言葉だけはすでに分かっている。つまり<感動>に辿りつくための問題だけがいつまでも与えられないままになっているってこと。
 言い換えると<問うこと>が<無限の戯れ>になっているような<感動>として、ニワトリが出現したってことかな…」
 「なんだか、相変わらず分かったような分からないような話だけど、そうすると、その<辿りつけない問題>とやらは置いておくとして、回答としての感動が荘厳なるニワトリの出現だったっていうこと、そしてそれがみんなの共通の無意識の産物だってわけね?」
 「ま、そういうこと。そして、この無意識ってものは、どうやら記憶を辿ることによってしか意識化できないのではないかってことだね」
 「すると、やはり、行方不明の彼女たちと同じで、その記憶の関係であたしたちってわけね?」
 「多分、そうだと思うね。だけど、その記憶ってやつが、共通の無意識といいうるものに通じていればこそのことだから、僕ら一人ひとりが自分の記憶に留まっていたならば、あのニワトリは出現しなかったってことだね。それで、このニワトリ体験に遭遇したのが、僕とこちらのリストさんと、それに消滅してしまった二人の彼女たちの合計四人だったってわけさ」
 「それじゃ、あたしたちに関係あるのはNちゃんだけってこと?」
 「まあ、直接的には、そうだね。そこで、僕としても、君たちとの再会が、はたしてわれわれの共通の無意識にどのように繋がっていくのか考えているところなんだ」
 「ふむ。行者さんよ、どうやら、あんたの再会から探ったんでは、その共通の無意識いうなんは、見えてこんのとちゃうか。
 つまり、わしら四人の神秘体験を繋ぐ共通の無意識の方から探ることでなきゃいかんのじゃないか? わしゃそう思うがのう」
 「ふむ、確かにそうですね」
 「そうじゃろう。とすれば、当然に見えてくるのが…」
 「そう!! あの神的作者ってわけか!!」
 「わしゃ、そう思うな」
 「ねえ、それ何?」
 「うん、実は、ここで君たちと再会できた僕の記憶物語が存在する以前に、どうやらわれわれすべてが、自分の物語の登場人物にすぎないと主張する作者って奴がいてね、それがまるで神のように君臨しているってことなんだ」
 「ほらほら、Yちゃん、気をつけたほうがいいわよ。いよいよ神憑ってきたみたいだから…」
 「ほんと、どこまで本気なんだか…」
 「いや、いつも本気さ。いくら遊んでも遊びにならない本気の体質は、十分に承知のはずでしょ?」
 「ああ、そういえばそうか…。本気ゆえの神憑りってわけね。すると、もう、救いようがないってことかな」
 「いや、まいったなあ。確かに、神憑りが宗教患者なら、もう、救いようはないかも知れないけれどね、でも、今僕らがやっていることは、神憑りになっている作者を糾弾し、追放することなんだ」
 「ふうん、そんなかっこしてるのに、そんなこと言ってていいの?」
 「まあね。いや、むしろこれが僕の仕事ってところかな」
 「へえ、どういうことなんだか、その辺の事情は、あたしには分からないけど、だけど、その神的作者って、いったい何者なの?」
 「うん、そうだねえ、小説とか物語を一つの世界と考えたときに、それを書いた作者っていうのは、物語世界を超越した神的存在にあたるってこと、この辺の了解はいいね?」
 「うん。ってことは、あたしたちの再会を仕組んだ奴がいるってことね」
 「まあ、そういうことだね。と同時に、多分君たちとわれわれ四人は、この神的作者との関係によって繋がっているってことだね」
 「しかし、なんじゃなあ、あんたが、ここで、この再会に拘泥してしまうと、やはり作者にからめ捕られる結果になりゃせんのかなあ…。
 わしゃ思うんじゃが、あんたが言うところの解脱いうなんを考えたら、作者と共有しているはずの無意識にもエアーポケットとでもいうもんがあってもええんじゃないか? それがあんたの再会じゃ」
 「ということは、YちゃんとTちゃんを、あくまでも僕の記憶に留どめておいたほうが得策だっていうことですか?」
 「ふむ。どうなんじゃろうか…」
 「そうですねえ…。んん? ちょっと待って下さい。いまリストさんの言われた逆説を考えてみると、こういうことになりませんか?
 いいですか、僕のいたって個人的な記憶であるはずのYちゃんとTちゃんが、神的作者というわれわれの共通の無意識で繋がりうるってことは、誰よりもあの作者という存在自体が、僕と不離不則の関係にあるってことですよ。
 それは、あの作者の正体を考えてみたときに、僕の修行が何等かの自己統一を形成する過程で意識的に摘出したり、あるいは無意識のうちにも分裂させて異化している悍しき何かが、実はわれわれの無意識によって人格化して存在させてしまったのではないかってこと。しかもそれは、その自己統一と自己分裂が同時に共存しうるというあの<辿りつけない無限の戯れ>の中で、まことに逆説的ながら、ことごとくの自己統一的な臆断を斥けた分裂情況に、<見定め続ける知見>を確保しようとする僕の解脱に対して、自己統一的臆断の残影として出現しているのではないかってことですよ」
 「ん? ということはじゃ、あんたにとって、あの作者いうなんは、どういうことになるんじゃ? もっと分かりやすく言うてくれんかな…」
 「はい。修行による自己統一的目的を<成仏>とすれば、神的作者とは成仏しえぬ分裂した自己愛である煩悩の人格化であるということ。そして同時に、修行が<解脱>という自己分裂的方法論によってしか成り立たない浄化法だとすれば、脱ぎ捨てられた自己愛が、幻想に化した自己統一を回復するために人格化したものが神的作者であるともいえるってことです。
 つまり、自己統一的所産でなければならないと思念されている自己愛を、自らありとあらゆる不成就性の欲望で分裂させておきながら、自己分裂的所産である物語を閉鎖することによって、かろうじて自己統一的欲望を取り繕うとする強欲なエエカッコシイで苦悶する姿が神であり作者であるってことです」
 「ああ、駄目。まったく分からないわよ」
 「分かっても分からなくても、そんなことはどうでもいいんだけど、要するにあたしたちって、その作者とやらによって関係が有るの、無いの?」
 「リストさんは、無しのままでやっていく方法論もあるのではないかと言われるわけですよ。しかし僕としては、同じ物語に存在している以上この関係を尊重してやっていきたいと思っているわけ。いや、むしろ君たちの出現こそが、われわれの目的に好都合だってことですよ」
 「何? あたしたちを何んのために利用しようっての?」
 「いやいや、そういうつもりじゃないんだ。実は、僕たちにとって、神的作者ってのが、いささか不都合きわまりない抑圧的な存在だったもんだからね…。それで、奴の企みを瓦解させることを画策してたってわけさ」
 「それ、どういうこと? 神の野望を打ち砕くってこと…」
 「おお、神をも恐れぬ暴挙ってわけね。いいわ、刺激的で」
 「ひょっとすると、それ、退廃的だったりもする? フフフ」
 「いや、そのへんはご期待に沿えるかどうか分からないなあ。ま、僕の発想としては、非常に健全な解脱論ってわけだからね」
 「しかし、あんたは、ほれ、なんと言うたかな…、ああ、性器崇拝の行者とか言うたじゃないか。そんな訳の分からん役柄しとって、どこまで健全なんだか、分からんのじゃないか、ハハハ」
 「なになに、結構、楽しそうな役回りやってんじゃないの?」
 「ただのスケベおじさんってことじゃないの? ハハ」
 「待った待った。僕はいたって真面目なんですよ、まったくの大真面目。性器崇拝の行者なんて役柄は、作者が勝手につけただけなんだから」
 「あれ、それだけなの? やっぱ、スケベの素養なくして演じ切れる役柄じゃないて思うけど? いかが」
 「要するに、スケベについいても大真面目だってこと、そうでしょ?」
 「ふむ、ま、そういうこと。だけど、問題はそんなことじゃないの。
 いいですか、僕のこの物語における目的というのは、作者の運命論である性器崇拝の行者という決定を、いかにして克服し解脱するかってことなんですよ。それが取りも直さず、この物語に取り込まれたヒトビトの解放となり、自由の獲得になるであろうということなんですよ」
 「分かった分かった。Nちゃんのご高説は承りました。ご協力いたしましょう。それでどうなの、Nちゃんは、あたしたちに一体何をして欲しいっていうの?」
 「あなたって、相変わらず、そういう開き直った言い方するのね」
 「なによっ、いいでしょ。Nちゃんは、それで良かったんだから…」
 「バカね、だからこそ別れるはめになったんじゃないの?」
 「あっ、そういうことか…」
 「ま、古傷に触るような、お互いの了解事項を掘り起こすのはよしましょう、ハハハ。それより未来です。肝心なのは解脱の方法論なのです。
 そこで、僕の希望としては、YちゃんとTちゃんが、ひょっとすると無意識のうちにかかわっているはずの神的作者について、何か思い当たることがないかどうか、まずは、それを聞きたいと思ってね」
 「さあて、さて…、そんなものがあるかしら…」
 「ふむ、考えるヒントとしてはね、確かに、君たちに巡り会うきっかけは僕の記憶物語ではあるけれど、当然ながらそれは神的作者の欲望を、何等かの形で満足させるものであるはずだってこと。だから、たとえ君たちが、ここは僕の記憶物語だと知っていても、ここに存在するためには、僕の欲求とは次元の違うところで、それなりの納得なり了解というようなものがあったのではないか?」
 「んん? どういうこと、そんなものがあったかしら?」
 「そうねえ、強いて言うなら、あたしたちが、ここにいる動機になっているものは、この小さな店が好きだってことぐらいかな…」
 「うん、そう。それね。それだけ!!
 だって、ここで飲んでたら、たまたまNちゃんが現れたってことだもんね」
 「ふむ。すると、この店に、作者と君たちを繋ぐ鍵があるってことだね…」
 「でも、この店の特徴って言ったら、せいぜいこのマスターぐらいかしら? ねえマスター?」
 「またあ、Y子さん、僕をからかわないで下さいよ。こちらのお客さん、昔の彼なんでしょ?」
 「うん、結構長かったの。この人ね、これでけっこう情熱的なんだ。それにほだされたってことかな。ま、若かったってこともあるけれど、良くも悪くも、あんなにのめってたっていうのは、あれが最初で最後かな…」
 「いや、こちらはいまでも情熱的ですよ。ちょっとお話しを伺っているだけで、僕はそう思いますよ。ひょっとすると、Y子さん、男の無駄遣いしてたんじゃないの?」
 「駄目駄目。そういうこと言うと、この人、付け上がるから…」
 「そんなことないでしょう…」
 「ねえ、Nちゃん、というわけよ。この店は、こういう当たり障りのないことしか言わないマスターが取りえなの」
 「いやあ、マスターも散々ですね」
 「いえ、話題にしていただけるだけで幸せです」
 「ほら、これだもんねえ、この顔してさ…」
 「どれほどの顔でもないですから…。もっとも、この顔じゃ、どれほどの酒の肴にもならないでしょうけど…、ハハハ」
 「何よ、その陳腐な言い方は…。その顔が肴にならなかったら、この店に何があるっていうの? でしょ、Nちゃん?」
 「あれ、Yちゃん、今日は、珍しく酔ってるんじゃないの?」
 「ううん、Nちゃん、このごろYったら、いつもこんな調子なの。ちょっと荒んでるかなあ…」
 「ふうん。そういうことか…」
 「何よ、何が、そういうことなのよ? いつだってNちゃんは、そういうふうに分かったふうなのよ。それで、一体なにが分かってたのよ? 何が分かったっていうの? 答えてご覧なさいよ」
 そう、酒場の酒場たる所以は、分かっているはずのことが分からなくなり、分かるはずのないことが分かったふうに思えるというわけで、矛盾の幻想が幻想ゆえに矛盾を克服しうる戯れの場なのだ。ムハハ。
 そもそもは発育不全と言わないまでも、ちょっとばかりは世をすねた感傷にとって、酒で重い日々と荒んだ心を飲み下す辛い身体のやり場の無さを、とめどなく支えて揺れているのがカウンターだとばかり、ちょっとは気取った言葉を使ってみれば、思わず力んで元まで吸っちまったタバコにむせび、あるいは火をつけたばかりのタバコを切れ切れの憂さとともに忘れ、そのまま闇雲な何本かを哀しい灰にしてしまうときに、それが所詮は荒れた喉からただれた臓器をいたぶる酒に胃癌や肺癌を夢想せずにいられない自虐的な肝硬変的快感を弄ぶ程度のことだとしても、ことごとくの不調が未だ苦悩目的の自己逃避にすぎなくて逃避しきれぬ苦痛にさいなまれているわけでもなく、ただ自己愛に拘泥せずにいられない貧しい安堵の罪人に自堕落な懴悔を迫るだけの酩酊の聖域が拓かれて、カウンターはいまさら酒の形而上学を問い正したところでなんの救いにもならないという、そんな不毛がまどろむ心の地平なのだ。
 だから、そんな酩酊の聖域で人の憂さを食って生き延びる和服のホステスが、毅然と下腹突っ張って、おまけに背筋を延ばしたその挙げ句、勢い余って鼻から二筋の煙りを吐き出すヘビースモーカーだとしても、それはそれとして、どうせそれとても、どれほどの手間暇を掛けるまでもなく、うんざり顔のマスターの前で、今日も売りそこなった薄幸に、不手際の言い訳けばかりをしなだれて見せるだけのことにすぎなくて、もはや支えのない自作自演の哀しみだけが赤くたわわに実った柿の木ほどに、重いものが渋いまま熟れては落ちていくベッチャリと潰れる快感さえも、たまたま通り掛かった人々にうんざり顔の溜め息を誘うだけのおかしさだと気付いてみれば、たとえそれが、女の自立を弄ぶ男社会の構造的悪習の含み笑いと言われようとも、一度落ちて潰れた見栄こそが腹に抱えた種の糧になるように、そこで一歩たりとも生命の尊厳から身を引くことのない豊饒、多産の本性を振りかざした女の計算は、いかなる欲望も金に換算しうるしたたかさで生き返り、どうしても「かわいいよ」と言えぬ男の胸倉つかみ、大股開きの女陰に男の堕落を押し付けてさえ明日の糧を産み落とし続けて凝りもせず、そのくせ人類滅亡の現前で人口爆発の大いびきなのだから、哀しき男たちよ、男ひとりで飲む酒ならいざしらず、夜更けになって愛欲の荒野に群れて咲く白いブヨブヨの太ももの虚花がカウンターに咲くときに、熟れたバギナが口ずさむ淫靡な唄に心許してしまうなら、女の生理的思考など端っから問題にもしたことのない発育不全の男たちの繊細さだけで勃起した純情さえも、もはや純情なんかでは生きられなくなった男たちの「バカ」の一言で瓦解させるだけのことだから、己の屈辱を人になすり付けてさえ生き延びる男たちを、情熱のない空しい射精でのさばらせるいやらしささえ了解済みのこととして、カウンターは、浅い溜め息ひとつの酒にも沸々と上がる憂さを流して知らんぷりの救済のない自己回復装置なのだ。
 ましてこの小さな酒場では、行者が作者たる私の面影を探るまでもなく、せいぜい白熱球のスポット三つが照らし出す心の垢を塗り込めたカウンターひとつ見定めれば、わざわざ加藤登紀子に唄ってもらうまでもなく、どんな街にも不似合いの時代遅れの酒場というわけで、たとえ行者のみならず僧衣のリスト老人さえ、「こんなところにいてはいけない」と、思わずにいられぬ手垢のついた哀しみひとつを背負っていることで、後は言葉もないままなじんでしまう<時>の安らぎが浮き上がっているはずだから、今さら誰の記憶をまさぐるまでもなく、ここには中年男の不成就性の欲望が、諦めに保証されて息づいているのが見えてくるはずなのだ。


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 奇しくも音のこもった有線放送が『時間よとまれ』を唄っている。
 「むむ、リストさん、われわれの<辿り着けない問題>も、結局は<時間よとまれ>ってことなんでしょうかねえ? つまり<感動>の脱時間性ってものに立ち会うってわけですよ、いかがでしょう?」
 「ほほう、これはまた唐突に<時間よとまれ>ですか…。ふむ、確かに、時間いうなんは、どうしたって止められんからなあ…。そんなとまらんもんの中で、唯一、時間性を克服しうるもんいうたら感動の真っ只中に<いる>いうことかもしらんなあ…」
 「ん? ちょっと待ってください。それかもしれないなあ…。
 いま気付いたことなんですが、所詮は止まらない時間の中で、その時間が止まったと感じられることがあるとすれば、それは時間とともに流されている時ってわけですよ。どうですか?
 言い換えれば、時間が流れていると感じられるときは、自分の流れが時間とずれているってことですよ。そんな<ずれ>の極みが<時間よとまれ>的欲求ということになる。しかし、われわれが時間を止められるのは、正に時間とともに流されいるときでしかないってことです。
 要するに、地球と同じ速度で回る人工衛星が静止衛星になるのと同じ理屈です。その意味でいうならば、無念無想あるいは無我とは、<時間そのものとして在る>ことにすぎない」
 「ほほう。言われてみれば、そうじゃなあ。すると、感動いうなんは、時間性の体得いうわけじゃな」
 「正に、おっしゃる通りです。そこで、われわれの神秘体験は、追い付きあるいは追い越されかねない記憶の前にたたずんで、<いま>が記憶へと送られていくその真っ只中で、そう、私の言葉でいうならば、行為が経験として対自化されるその狭間で時間性を体得することだったってわけです。
 多分、時間と同じ方向へと流されていたのでは、時間の流れを見極めることが容易ではないということです。まして、その流れに乗ろうとするならば、一度記憶に向かって立ち止まったほうが、時の流れを肌で感じられるということがあるのかもしれません」
 「ねえねえ、あなたたち、何をごちゃごちゃ言ってんのよ…」
 「おおっと、これは失礼!! 実は、見失った彼女たちの手掛かりが見付かりそうだったもんですから…」
 「ふうん、やっぱ、若い娘の方がいいってわけね」
 「いや、そういうことじゃないんだ。その話は、ちょっと待ってくれないか。いや、そんな話題は待って貰うほどのことじゃないんだ。とにかく、そんなことじゃないんだよ。いま、僕は結構燃えてるんだから、話の腰を折らないでよ」
 「ハハハ、そんなに向きにならないで…」
 「ええっと、なんだっけ?
 ああ、そうそう、時の流れですよ。そこで、リストさん、いま思い返してみると、あの神秘体験に至るまでの足取りを考えてみても、どうやらあれは時間への速度調整だったのではないかって気がするわけですよ。
 あそこで記憶への退行を進めていたときに、われわれは、いくら歩いても物語的時間の目的である上野に辿り着くことがなかった。私は、あれが作者の作為ではないかと勘ぐっていたわけですが、実は、あれこそが、作者の手から物語を取り返す手段に成りえていたってわけですよ。いかがですか?」
 「ほう…、そういわれてみると、そんな気がせんでもないなあ…。ふむ、するとじゃ、あんたの時間論でいけば、時間こそが神の鼓動ということになるんじゃろうか?」
 「うっ、それは、どうでしょうか、でも重要な問題です。
 時間を絶対的な基準として考えてしまうと、<時間内存在>としてのわれわれは、確かに神の体質そのものを超えられないものとして認めることになってしまいます。その意味において、<時間をとめる>ということは、神が自らの命を絶つことに外ならないというわけです。それは同時に、神のみが自分の時間を止めうるということです。
 ですから、虎穴に入らずんば虎子を得ずのことわざではありませんが、神の時間という懐に入らなければ時間を克服しえぬということが言えるのかもしれません。しかし、ここで<神の懐に入る>とか<神との一体化>を、神の時間という愛を<受肉>することと考えてしまうと、私の言わんとする<時間性の克服>が意味を掠め取られてしまうことになります。
 したがって、たとえ命懸けであれ時間という権能を手中に治めた<自己神格化>として成り上がることではないということなのです。それでなければ、神的作者の思い上がりと何等変わるところがありません。
 つまり、<時間性の体得>こそが<脱時間性の体得>であるという逆説を、<時間がすべてではない>という逆説の立場から語りうる開放系の論法を認めていただける限りにおいて、時間の神性を認めうるということになります」
 「ほほう、神に関しては相変わらず用心深いわけじゃ」
 「まあ、そういうわけです。もっとも、これは時間という概念に<普遍性>を賦与してのことですから、時間そのものがもともと<相対的>なものにすぎないとして考えてしまえば、神が絶対性を振りかざして纏わり付くこともないわけです」
 「ねえ、そんな話とあたしたちと、どんな関係があるっていうの?」
 「このお店との関係は、もう、いいってこと?」
 「ああ、悪い悪い。相変わらずこの体質が治らなくてね…」
 「ま、いいけどさ…。だけど、Nちゃんたちは、なんでこんなところまで来て、そんな話しなきゃいけないの?」
 「そう言われても困るんだ。僕たちは、こういう問題の延長でいまここにいるわけなんだから…」
 「あら、ということは、あたしたちの方が、厄介者ってわけ?」 
 「そんなことはないよ。むしろこの物語における重要人物として関わっているからこそ、その隠されているかもしれない関係についてまで、よく吟味し見定めておこうってわけさ」
 「なによ、今さら。あたしは何も隠しちゃいないわよ。でも、ちょっとぐらいなら見せてあげてもいいわよ、ほら、ハハハ。バーカねえ…。
 とにかくねえ、さっきから、しがらんだ男関係は、もう真っ平だって言ってるんだから、何も隠しごとはないの、でしょ、T子!?」
 「そうかしら…。あたしには、そうとは思えないけど。どちかって言うと、Nちゃん以来、男にしがらんむ悪い癖がついちゃったんじゃないかしら…」
 「何よ、T子までが、あたしを裏切る気なの?」 
 「そうじゃないけどさ…」
 「待った待った。このまま行くと、とんでもない泥沼に入り込んでしまいそうだから、話題を変えようか…」
 「ふうん、逃げる気なんだ…」
 「参ったなあ…。ねえ、マスター、彼女、いつもこんな調子なの?」 
 「ええっ、まあ…」 
 「こらっ、散々ひとにしがらんでるくせに、そんなことが言えるのか?」
 「これですから、参ってしまいます」
 「ねえ、Yちゃん、時間の話の続きなんだけどね、僕らがこの店に辿り着けたのは、僕の記憶を辿ってのことに違いはないはずなんだ。ところが、記憶の場であるはずなのに、どうもこの店に見覚えがない。それに別れたときのままだと思っていたYちゃんも、再会した記憶のない現在へ時間的修正がなされてしまった。ということは、ここは記憶というよりも、記憶から横滑りした夢物語のような気がしてならないんだ。
 だけど、僕にとっては、ここがたとえ夢物語であったとしても、記憶の場と同様に<時間をとめる>ことができるなら、何等問題はないんだ。むしろ、夢であることの自由な創造性というものに大いなる期待を掛けたい気もしてるわけさ」
 「何よ、さっきは、六歳は若いままでいられたのに、勝手に人の年を修正しておきながら、時間よ止まれもないもんじゃない…。出来るなら六年前だって一〇年前だっていいから、戻してみてよ」
 「行者さん、わしゃ、みなさんのお陰でここに出現でけたようなもんなんじゃが、一一〇年もの時間を隔てて蘇ってみて、今しみじみと感じることなんじゃが、結局、記憶を遡るいうなんは、記憶の追体験であるよりも記憶の再構築いうことになりはしないか言うことなんじゃ」
 「そうか、正におっしゃる通りですね。
 そういえば記憶そのものは、事件を現場のままで保存した<単なる事実>であり続けることは出来ない相談なんだから、そもそもは<私的物語>の所産であるし、言い方を変えれば、脳細胞の化学変化に置き換えられた情報にすぎないというわけですよね」
 「まあ、そういうことじゃろうな。ということは、わしがそもそも蘇った物語のみならず、あんたの記憶物語もまた、それなりの創造性いうなんを無視でけんいうことじゃ。そうしてみれば、わしゃ、あんたが、今更、記憶だとか夢物語だとかにこだわる理由はないと思うがのう…」
 「そうすると、ここで、もう一度、時間の問題について考えてみると、時間を止めうるもう一つの要素として<創造性>ということを付け加えてもいいということになりますね」
 「うむ、確かに」
 「あっ、あれ、君たち、もう六年前に戻っちゃったのかい!?」
 「いやあねえ、あたしたちだけでやったみたいに言わないでよ。Nちゃんだって、そう思ってくれたからこそ実現したんじゃないの…。Nちゃんって、意外と自分の思いなんてもんに無頓着なんじゃないの?」
 「そっ、そうかなあ…。
 そうすると、僕が、この店に戻ってくるまでの間、君たちが、実は見失った<かたぶとりの太モモ>さんたちだったってことにも、回帰しうるってわけか…」
 「行者さん、さっきから、なに、ぶつぶつ言ってんの? 今日は、あたしたちのおごりだって言ってるんだから、ジャンジャン飲んで…」
 「ええっ…、ああ、そうか!! そういうことか…」
 「何がそういうことなの? せっかく再会できたんだから、なにはともあれお祝いよ」
 「いや、まったく、こんな形で再会できるとは、思ってもみませんでしたよ。ねえ、リストさん?」
 「ああ、まったくじゃ。しかし行者さん、わしゃ、あんたのお陰で、いろいろと経験でけて嬉しいんじゃが、あんたの好奇心であっちこっちへ振り回されるのは、ちょっと難儀じゃな。わしゃ、年も年なんじゃから、もうちょっとじっくりと、腰を据えてやって貰ったほうがええなあ…」
 「いやあ、まったく申し訳ございません」
 「行者さん、何を謝ってんの?」
 「実は、リストさんを引っ張り回して、記憶の中を行ったり来たりしてしまったもんですから…。どういうことかと言いますと、いまこの店で、あなた方が、以前、私が付き合っていた女性に擦り替わってしまいまして、それも別れた六年前の姿だったり、さもありなんと思われる現在であったりで、行き先定まらずということだったのです」
 「へえ、行者さん、あたしたちって、行者さんの昔の彼女に似てるんだ!?」
 「へえ…。行者さんって、結構好い趣味してるわよ、ハハハ」
 「おじさんを、冷やかさないでくださいよ。それより、ここでちょっと気になるのは、その彼女たちと君たちの関係なんですよ」
 「だから、似てるんでしょ?」
 「それとも、まさかあたしたちのお母さんが、行者さんのいい人だったなんて言うんじゃないでしょうねえ?」
 「そっ、そんなびっくりするようなこと言わないでくださいよ」
 「どうして? 在りえないことでもないんでしょ?」
 「あなた、すごい発想してるわねえ…。じゃ、ひょっとすると、実の父親は行者さんだったなんてことになったりして? ヒェーッ!!」
 「行者さん、冷や汗なんか流しちゃって、どうしたの? ハハハ」
 「いや、まったく、人を驚かすようなことは言わないでくださいよ。身に覚えがないわけじゃないんだから…。ああっ、そんなことはないんです。いや、覚えはあるんだけど、そんなはずはないんです」
 「何、慌てちゃってんの? この際だから、あたしたちに懴悔したら? きっと楽になれるわよ、ハハハ」
 「そんな恐ろしいことは言わないでくださいよ、まったく…」
 「あれれっ、やっぱ、何かやましいことがあるんだ!! 今になって、新しいオヤジが現れたって、別に驚きゃしないわよ」
 「そう、この際よ、行者さん?」
 「いやいや、ほんと。私と、君たちとは親子なんでは在りえないのですよ」
 「じゃ、どうして、そんなに慌ててんの?」
 「いや…、もしもですよ、もしも私が君たちの父親で在りうるとしますとね、いま私たちのいるこの物語ってものが、どうやら不成就性の霊的世界にまで横滑りしているのではないかってことを感じたもんですから…」
 「どういうこと?」
 「やっぱ、可能性ありってこと?」
 「いや、可能性なんかありっこないんですよ。それなのにその可能性ありってことは…」
 「また…、何が言いたい?」
 「実は、確かに子供が出来たっていう過去はあったんです。だけど、いずれも生まれてくるまでに処分してしまったもんですから…。お分かりでしょ、そういうことなんです」
 「ふうん、そういうことか。ん? すると、行者さんのいう不成就性の霊的世界ってことは、なに!? あたしたちが、その水子の亡霊じゃないかと思ったってわけね?」
 「あたしたち、亡霊なの?」
 「そんなことは、ありませんよ」
 「あら、そうかしら、あたしが亡霊じゃないって、行者さんが保証してくれるっていうの? でなきゃ、ひょっとすると、あたしたちが自分でも知らなかった本性が、亡霊だったなんてことがありうるわけよ。なんせ物語が物語なんだもん…」
 「また、そうやって、私を脅かさないでくださいよ。そんな過去を懴悔してこその行者なんですから…。ほんと、自分の行為の責任に対する傲慢な判断を悔い改めた結果の姿なんですから…」
 「そうか…、それにしても、もしもあたしたちが亡霊だとしても、なんていうのか水子って感じじゃないなあ…。だって、生まれて来られなかった恨み辛みなんてもん全然感じないもんね」
 「そう、そんなものは、感じなくていいんですよ。たとえ水子の霊が何等かの関係で、君たちにメッセージを送ってくるとするなら、それは私の懴悔という浄化力による<可能性の幸せ>として、無意識の内に享受すべきものであるはずなんですから…。
 私としては、むしろ、君たちに描いていた幻想というのは、すでに別れた彼女たちの、私の知らない青春期ではないかということだったんです」
 「ちょっと待って、可能性の幸せって何?」
 「ふむ、もしも水子が生まれていたときに享受したであろう幸せってこと。それは生まれてきたときに遭遇したかもしれない不幸を浄化されたことによる可能ってことだね」
 「そんなことってあるの?」
 「あっても、別におかしくはないんです。そもそも宗教による救済とは、救われたいと願った数の不幸分だけあるはずなんですから…。それが救済の損益計算というものです」
 「それよりなあに? ひょっとすると、あたしたちが、いずれ、そう、これから七〜八年後には、行者さんと別れることになる彼女たちの再来だっていうの?」
 「そっ、そういうのって、ありなの?」
 「物語の可能性としては、ありうるわけです。でも、改めて考えてみると、亡霊であることの可能性とそれほど掛け離れた発想というわけでもないですよね…」
 「でもさあ、もしも、あたしたちが、これから七〜八年後に行者さんと別れるとすると、あたしたちにとって、行者さんっていうのは、もっと若くなきゃいけないんじゃないの?」
 「そうよ、その年じゃ、ちょっと離れすぎてるわよ。でも、そういうのもいいか、なんちゃって…」
 「そうですね、私はいま三二歳ですが、別れたのは確か二六歳のころです。ですからもうすこし若いってことになります。ところが、私の感覚では、六年前の彼女たちに会ったときも、さらに六年後の彼女たちに会ったときも、この行者という姿、年格好にはなんの変化もなかったように感じてました。ということは、それが私の記憶物語であることの証になっているということかもしれません。
 つまり、ここが重要なところです。いいですか、この私の記憶物語で埋めることのできない部分、つまり、君たちが、あの神秘的なニワトリ体験以来、どこをどう巡ってこの店に現れたのかってことです。ここを君たちが語ってくれるならば、多分君たちと、かつて私が別れた彼女たちとの関係までもが明らかになるだろうってことです」
 「どういうこと? あたしたちが、自分の体験を語るときは、自分の自己同一性っていうの、それが保証されているはずだってこと?」
 「そうですね。ただ、夢物語なんかでは、自分が子供になっていたり、場合によっては、他人になっているなんてことがあるかもしれませんが、それは役柄の変更ということで自分としての同一性は保証されているわけですから、他人である自分とは、無意識の可能性であるにすぎないのです。
 つまり、あなたがたの体験が、私の時間を自由に横滑りしうるものであるならば、それはこの物語があなたがた自身の物語である証になるというわけです」
 「ちょっと待って、あのニワトリ体験からここまでの記憶ってことね…」
 「そうなのよ、どうしたわけか、あたしの場合、その部分がまったく記憶喪失になってるのよ」
 「そう、あたしも…。どういうことになるの? あたしたちって、自分の物語を語ってなかったってことになるの?」
 「ううっ、記憶喪失か…。そういうことがあるわけか…」
 「ねえ、どういうこと?
 あたしたちって、行者さんの幻想にすぎないってことなの?」
 「うむ、なんとも言えないなあ…。もしもそうだとすれば、その時は、君たちにとっても私が幻想にすぎないってことになるわけだ…。
 どう? そんな感じがしてるかい?」
 「ううん、そんなことはないわよ。ねえ?」
 「うん。あたし、自分を幻想や亡霊だなんて思ってもみたことないし、行者さんが幻想だなんてことも思えないなあ…」
 「ハハハ。そういうことですよ。ま、この際、君たちの記憶喪失は置いておくとして、われわれは、共にこの物語を<現実>として受け止め生きているってことですよ。この<事実>を共有しあっている以上、この物語において、共通の<真実>なるものを導き出す可能性を担っているというわけです。
 しかし、まあ、この物語で共に<事件の現場>に立ち会うことができるなら、そんな<真実>にこだわることはないと思います。多分、われわれにとっては<真実>なんていうものこそが<幻想>であるかもしれないのですから…」
 「真実が幻想なの?」
 「そうです。真実とは、所詮自らの拠って立つ物語から語り起こされたフィクションにすぎないというわけです。物語が変われば、また真実も変わってしまうということです。つまり、真実が唯一絶対であるというのは、神学の臆断にすぎないのです」
 「ふうん、やっぱりその問題へいくんだ」
 「それでさあ、あたしたちの正体も、いまいち、不明を背負っているってことになるけど、結局、あたしたちって、どうなるわけ? 行者さんのいう記憶喪失を取り戻さなきゃ、始まらないってこと?」
 「ふむ、記憶喪失については、まだ分かりません。その記憶を取り戻すことが、私たちの目的成就に有効な手掛かりになるであろうことは予想されますが、それが不可欠であるのかどうかは分からないのです」
 「ねえ、あたしたちって、一体どうなるの?」 
 「ちょっと待ってください、それは、<どうなるの>ではなく<どうするか>です。皆さん、あの神的作者のことは覚えてますか?」 
 「ええっ、作者!?」
 「そうそう、そんなのがいたっけ!!」
 「思い出しましたか?」
 「そうだ!! あの変態作家に手込にされる前に、物語を脱出しようってことだったんだ。そうよね?」
 「まあ、そういうわけです」
 「それで行者さんが、ええっと、なんて言ったっけ、そうそう、性器崇拝の行者さんってこと…」
 「つまり、私たちは、作者の勝手なドーナッツ幻想につきあわされる屈辱に耐えるよりも、自分たちの物語を語ろうということだったわけです。そして<感動>に辿りつく問題が与えられていないと気付いたときに、<問うこと>が<無限の戯れ>になっているような<感動>としてニワトリの神秘体験に遭遇したわけです。どうですか、そのへんの事情は思い出しましたか?」
 「うんうん、そうだった…」
 「だけどさあ、あれ瞑想っていったっけ、あれがどうしてニワトリの出現になっちゃったの?」
 「それが私にも分からないんです。ただ言えることは、あの荘厳なるニワトリとは、われわれ四人の想像力のみならず、あの作者の創造力とか作為といったものが重要な要素として関わっていると思われるということです。
 つまり、あのニワトリこそが、この物語を象徴するにふさわしい存在であるということです。考えてもみて下さい、ニワトリとは、所詮人に食われたり卵を産むことが目的で飼われるだけの飛べない鳥というわけです。その意味においてニワトリとは、まったく人工的な不自然さとしてしか存在できないにも関わらず、もはやそれが唯一自然な存在理由であるという哀しい宿命なのです。
 どうですか、物語という庭で作者の勝手な目的のために飼われたわれわれを暗示するようには思いませんか?」
 「そっ、そうか!! そんな感じってあるかもね…」
 「だけど、そうするとあたしたち自身が、心の中でニワトリであることを望んでいたってことになるの?」
 「いや、むしろわれわれの目的がその逆であったからこそ、そんな哀しいニワトリが、想像を絶する巨大さで、物語を突き破るほどのものとして出現したってことじゃないんだろうか?」
 「それにしても、確か、あのニワトリは、なんて言ったらいいのかしら、悠々としていて、それで…、すっごく威厳があって、なんかそんな感じで歩いてたのよね、でしょ?」
 「そう、それが、なぜか、すっと止まったのよ。それでどれくらいたったのかなあ、気が付いたら、もうそのときは、あなたがあのニワトリにくわえられてたのよ。あたし、始め何が起こったのか分からなかったわよ…」
 「ええっ、そうだったの!? あなた、それ見てたの?」
 「そう、だけど、あんまりびっくりしたかしら、あまりよく覚えてないのよねえ。そのあと、どうなったのか、自分でも分からないんだもん」
 「そうか、ちょっと待ってください。
 私たちは、あなたがたがあのニワトリにさらわれたもんだとばかり思っていたんですが、ひょっとすると、あのニワトリが、最後のせめてもの慈悲心を起こして、あなたがただけにでも救済の何たるかを示してくれたってことは考えられないでしょうかねえ…。どうですか、そんな感じってありませんか?」
 「救済? どうなのかしら…。とにかく完全っていってもいいくらいの記憶喪失なのよねえ…」
 「でも、そうすると記憶喪失ってことが救済なの?」
 「ふむ、この物語がいまだあの作者の影を背負っていると感じられるにもかかわらず、一応はこの物語から断絶したところにいて、なおかつここで再会できたわけだから<涅槃寂静>とは言わないまでも、一時は何等かのしがらみを解脱していたということかもしれませんねえ。
 どうですか? その記憶喪失の部分が、何か傷みとか苦悩になっているということはないんですか?」
 「べつに…。そんなんじゃなくて、むしろ、なんか頭の中がスカッとした感じかしら…、ねえ、どう?」
 「うん、一〇〇年の二日酔いから覚めたってところかしら…、ハハハ」
 「そうですか、やはり、あの荘厳なるニワトリは、救済の暗示であったということは言えそうですね」
 「じゃ、もう一度、あのニワトリさんにご出現願ったらいいんじゃないの?」
 「そう、それが出来れば問題はないのですが、どうでしょうか、そううまくいくでしょうか?」
 「どうして?」
 「どう考えてみても、さっきは、作者自身が、まさかあんなニワトリが出現するとは思ってなかったんじゃないかってことですよ。つまり、ニワトリ体験が、われわれの救済になるものと知ってしまえば、作者がわれわれの瞑想に協力するとは思えません。もはや作者の創造力を充てにすることが出来ないというわけです。
 その意味においてわれわれは、いままで無意識のうちにも作者の創造性を当てにしていたってわけですよ。でなきゃ、あのわざとらしいほどの荘厳さなんてなかなか想像できるもんではないですよ。
 とにかく、あのニワトリは、作者の強烈な思い入れによってこそ出現しえた幻想だったというべきなんだ。ところが、どうしたわけか、あの巨大にして荘厳なるニワトリが、宇宙的規模の存在を暗示していながら、あの末広町あたりに納まってしまうという矛盾、いや、これこそが幻想たるものの曖昧さだと言うことは出来るのですが、どうも、それだけとは思えない。
 つまり、この曖昧さからくる矛盾、あるいは怪獣映画のキャラクター・ディテールの不統一を見る居心地の悪さに似たものを、どうやら、あのニワトリ自体が自らの存立の反省力として自覚していて、実はそれが、自らの出現の動機であるはずのわれわれの創造性と、そこに介在した作者の創造性という異次元の思惑が同居する居心地の悪さによるものであることを、われわれに暗示していたのではないだろうか、そう思えてしかたないってことなんです。
 そう考えてみれば、転んだニワトリなんていう多分いままでに誰もが見たことのない事件を、ニワトリは作者の強引な神性の誇示に対する批判として、起こりえぬことの発生による物語への揺さぶりとして演じてみせてくれたと理解することが出来るのです。どうでしょうか?
 そして当然のことながら、作者としては、この一連の事態をゆゆしきこととして自覚しているはずだと考える方が、いたって自然に思われるってことです」
 「そうか、行者さんが性器崇拝とかの役柄を全うするためなら、作者は協力するかもしれないけれど、あいつの損になるようなことに自分から手を貸すはずはないってわけね」
 「でもさあ、ちょっと待って。あたしとしてはねえ、みんなと、ここでこうやってお酒飲んだりしてることでも結構楽しいんだから、救済されているときが自覚できないような救済だったら、無理に救済されたいとは思わないなあ…」
 「そっ、それも、そうかもしれないわねえ。ねえ、行者さんのいう救済っていうのは、やはり記憶喪失みたいなもんしかないの?」
 「いや、そんなことはありませんよ。
 そもそも救済とは、それを望む人に応じたものとして与えられるはずのもんなんですよ。でなければ、その人にとっての救済になりませんからね。要するに、傍から苦悩者だとか救済されているとか言われたって、本人にその気がなければ、まったくの大きなお世話にすぎないというわけです。
 これは以前にも言ったことですが、仏教にいう救済を、私は<解脱−成仏−涅槃>という三段階として考えているわけですが、私の場合はそのように考えなければ納得できないものがあってのことですから、単に現世利益だけで救済の一切が納得できる人がいるなら、それはそれで結構なことなんです。
 そんなところから考えてみると、皆さんの体験した記憶喪失ってやつは、当面の問題であった<物語を出る>ということに関して、それがどういうことであるかを<とりあえず体験>させてくれたということだったのではないでしょうか。ですから、皆さんが、もっと切実な問題としての苦悩を抱えていたならば、それに対する回答としての救済が与えられていたのかも知れないという感じなんですがねえ」
 「そうか、そういわれてみれば、そんな気がしないでもないわねえ…」
 「それって、たとえばよ、自由になることだけが目的だっていうときに、予期せぬことで突然に自由が与えられてしまったら、そこで何をしたらいいのか分からなくなってしまったなんていうことと同じことかしら…」
 「ふむ、そういう感じかも知れませんね。その意味で自由とは孤独と背中合わせだったわけですね。しかし、救済がご同様に孤独であってはまずいわけです。それでは単なる苦悩の原因に成り下がってしまうだけのことですからね。そこで仏教でいう救済とは、常に<不空>、つまり空しくないということを大切にしているわけです」
 「そうすると、あたしたちが、もしもみんなで協力してこの物語から脱出できたとしたら、それが味気無いものだったなんてことにはならないってわけね?」
 「そういうわけです。
 私は、そういう空しくないものにしたいと願っているわけです。
 これは重要なことなんです。ただオールマイティーに好都合な救済が、たとえば無意識に享受される幸運として済まされてしまうのではなく、あくまでも自分の目的に見合ったものとして獲得できなければならないというわけです。
 それは<無意識の幸運>が悪いなどと言っているわけではないのです。
 実はこの<無意識の幸運>こそが、仏教では<陰徳>と言って非常に重要なものと考えているわけなんです。まして、日常的な自己浄化によってこそ与えられると考えている<無意識の幸運>とは、いかなる願望であれ、それを成就させる不可決の要素であるというわけなんです。
 言い換えるならば、<自己浄化=陰徳>あるいは<無意識の幸運>と<願望成就>とは背中合わせの関係ではあるけれど、それは<自己救済>と<他者救済>の関係と同様で、常に不離不則の関係にあるわけです。
 しかし、ここで私がいま重要だと言っていることは、この物語という情況からは、リストさんがその芸術活動の根拠とされたファウストの精神のように、積極的な自己救済の欲求に支えられた願望成就の精神がなければ、なかなか物語を克服することなど出来る相談ではないということなんです」
 「ふうん、激しく燃えたほうが、得られる結果が感動的だってわけね」
 「でもさあ、もはやニワトリの追体験にも望みがないという状態で、あたしたちって、どうしたらいいの?」
 「そんなに悲観することはありません。われわれにも、この物語の構造に関してかなりのことが理解できる情況になってきているのです。特に、あのニワトリの出現以来、<神秘体験>がこの物語においていかなる機能を持っているのかということについては、重要な手段に成りうるという確信を得ているのです。
 つまり、あの<神秘体験>こそが、<感動>によって<時間を止める>ことを可能にしていたわけですから、この<時間よ止まれ>こそが<辿り着けない問題>の回答でもあったということです。しかも<時間よ止まれ>とは、<時間性の体得>こそが<脱時間性の体得>になっているという逆説の構造になっていたということにも気付いたわけです。
 それは、言葉を換えれば、<表現行為>と<表現経験>の変換装置、すなわちスイッチボックスとしての<神秘体験>があるということなんです。
 そもそも<感動>とは、驚きという自己喪失の現前で、それまで闇雲に自己同一性を確信していた<私>という政治的な理性が、何はともあれ感性の名のもとに自己回復を取り繕うことだと考えているわけなんですが、その<取り繕い>が<スイッチボックス>になっているということなんです。
 ですから、ちょっと面倒な話になって恐縮なんですが、神秘体験における感動を、たとえば<芸術における神秘体験>として考えてみると、まずは<表現経験における神秘体験>では、反省的(受動的)な理性が自己喪失を取り繕って能動的な感性が行為性として覚醒することになり、一方<表現行為における神秘体験>では、反省以前的(能動的)な理性が自己喪失を取り繕って受動的な感性が経験性として覚醒するというわけです。
 さらに<宗教における神秘体験>として考えてみると、それは自己救済と他者救済の変換ということになるわけですが、<自己救済(の反省以前的表現行為)における神秘体験>とは、懴悔を要請する理性が自己喪失(解体)を取り繕って感性による帰依で蘇り他者救済へと覚醒することになり、<他者救済(の反省的表現経験)による神秘体験>では、帰依を要請する理性が自己喪失(解体)を取り繕って感性による懴悔で蘇り自己救済へと覚醒するというわけです。
 当然ながらこの関係は、自己救済の反省的表現経験と他者救済の反省以前的表現行為についても神秘体験を語ることが出来るわけです。
 したがって、芸術と宗教を結ぶスイッチボックスとしての神秘体験は、<芸術的立場>においては、芸術的理性が自己喪失を取り繕って宗教的感性として蘇り対他と対自の行為性と経験性による相乗的な弁証法の救済に覚醒することになり、<宗教的立場>からは、宗教的理性が自己喪失を取り繕って芸術的感性として蘇り対自と対他の経験性と行為性による相乗的な弁証法の美的感動に覚醒するというわけです。
 いずれにしても、神秘体験に遭遇する<理性>とは、自己崩壊の憂き目にあう知見の特性によって、自らが隠蔽している<感性>の性格を決定しつつそれを喚起して自己の再建を企るというわけです」
 「行者さんって、相変わらずそういうのが好きねえ…。悪いけど、あたしには、まるでお経を聞かされてるみたいに感じるだけ…」
 「ハハハ、そんな感じね。それで、どうなの? あたしたちが実行できるような方法論があるの?」
 「はい。方法論としては、いま申し上げたものがすべて有効だというわけです。
 しかし、ただ、ひとつ忘れてはならないことは、今度は、われわれが何をしようとしているのか、作者が承知だということです。つまり、作者の協力が得られないのみならず、場合によっては、作者の妨害もありうるということです。われわれは、これに打ち勝たなければならないのです」
 「そうすると、行者さんの性器崇拝の行者っていう役柄はどうなっちゃうの?」
 「そう、たぶん、この役柄によってこの物語からの解脱を達成できるのなら、それがベストといえるかもしれませんね。何んたって作者の公認の役柄ですからね。正にしてやったりというところです」

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 「そういえばさあ、行者さん、性器崇拝について、さっき、『ミスタードーナッツ』でなんとか言ってたじゃない?」
 「ええ、作者によれば、男根具有の女性と女陰具有の男性による冥想的な聖性行為によって、たとえば両性的感性の男と女が交接によって両性器具有の一人の超人になるか、あるいは無性的超越者として普遍的な快楽を享受することでなければ、性器崇拝の行者という役柄は克服できないだろうということだったわけです。
 しかし、私としては、密教にいう<即身成仏>がひとつの解決策になりうると確信していたわけです。ただ<即身成仏>が死の現前における瞑想として<涅槃寂静>による自己完結としてしか実現できないとすれば、それは、この物語からの解脱論としてはふさわしくないということになります。
 なぜなら、生命が死と背中合わせであるとは言うものの、未だ私が死と引き換えにしてもいいほどの生命観に到達していないからに他なりません。いま死ぬつもりはないということです。たぶん、その点は皆さんも同じことだと思います。
 ですから、即身成仏にいう成仏をあくまでも私の言う救済論の<解脱−成仏−涅槃>における成仏までで留どめておかなければならないと考えるわけです」
 「その成仏って、霊的な人格だって言ったっけ?」
 「そうですね、ここでいう仏は、霊的仏と言ってもいいですね」
 「そうすると、その性器崇拝の解脱論っていうのは、仏様のセックスってわけね、でしょ?」
 「まあ、そういうことになりますか…」
 「だけど、ほんとに、そんなの有りなの?」
 「ええ、密教には、それを保証するような経典があるのです。
 ちょうどいい機会ですから、ちょっと説明しましょう。
 「んん? ありゃりゃ、ああ…、ここはどこじゃ?」
 「えっ、リストさんどうかしましたか?」
 「おおっ? ああ、あんたか…。なんじゃなんじゃ、わしゃ居眠りしとったんじゃな、ハハハ。体があったまってきよったら、すっかり気持ち良くなってしもうて、ハハハ、いつの間にか寝とったんじゃな」
 「そういえば、いつの間にかお声がないと思ってたら、寝てらしたんですか…」
 「ふむ、きょうは、ちょっと余計に歩いたからな、疲れてしもうた」
 「どうですか、いまちょうど、性器崇拝の解脱論というところなんですが…」
 「ありゃりゃ、ほうで…。ええところなんじゃな。ほんじゃ、しっかりと目を覚まして聞かせて貰いましょうか」
 「ねえ、リストさん、もっと飲んで…」
 「おおっ、ほうで。じゃ、じゃ少し貰いましょうか…」
 「こんなもん?」
 「うんにゃあ、それじゃ少なすぎるじゃろうが、ハハハ」
 「じゃ、こんなもんでね。ねえ、行者さん、早く続きを始めて…」
 「それじゃ、続けますよ。いよいよ、性器崇拝の解脱論の論拠となる教典へのアプローチです。
 そもそも密教においては、人間の出生のみならず世界や宇宙の始源については<本不生>ということを言っているのです。これは世界の根本的な存在構造について語っていることにもなるのです。
 そこで<本不生>についてですが、これは、すべての始源について臆断や独断を抜きにして語ろうとしても、その現場に立ち会うことのできぬわれわれは、あえて沈黙の彼方にあるものを自分の論法で語り起こすしかないのだから、それをもって対象の実体とみなしてはならないというわけです。
 つまり、これを世界の存在構造に置き換えてみると、初めから語ろうとする領域を閉鎖的に限定してその中だけの整合性に拘泥したり、あるかないのか分からない唯一絶対的な真理とか統一的な原理を想定して、これによって説明可能だとごり押しするよりも、因果応報の関係性によって理解するほうが、論者の立場を明確に出来るということからも、事態を厳密に見定めるという立場においては妥当だというわけです。
 これは<空観>とも言い換えることが出来るわけですが、ここから導き出されるのが<無常性><無我性>あるいは<無自性>という否定的発想です。しかし、ここにいう<無>とは、あくまでも<絶対的無>を原理として標榜しているわけではありませんから、この否定性も<とりあえずの否定>にすぎなくて、論法上は再び否定仕返して肯定的発想に転換することが可能なのです。
 つまり、ことごとくの現実的な矛盾をそのまま包括しつつ、その矛盾の根拠そのものが実は善悪を問うことのできない<本不生>に起因するものであることを見定めて、矛盾自体は<無記>であるにすぎないというわけです。ですから、この矛盾が苦悩から解き放されたものであるならば、浄化された矛盾に立ち会うことは、最勝で究極の清浄(しょうじょう)なる悟りの境地に他ならないというわけです。
 それを説いたのが『大楽金剛不空真実三摩耶経』すなわち『理趣経』という経典なのです」
 「なんじゃなんじゃ、ずいぶん、前置きが長かったなあ。わしゃ、もうちょっとで寝るとこじゃったよ」
 「リストさん、そうやって話の腰を折らないで…。あたしたち、結構マジで仏教の勉強してんだから…」
 「ハハハ、すまんこって…」
 「じゃ、『理趣経』です。ちょうど、現代語に訳したものを持ってますので、お聞きかせしましょう。
 まずは<百字の偈>という部分です。(『大乗仏典/中村 元 編/P.397〜』)
 『ぼさつは勝れし恵(ちえ)をもち、なべて生死の尽きるまで、恒に衆生の利をはかり、たえてねはんに趣(おもむ)かず。
 世にあるもの[=方便]もその性(さが)[=般若]も、知慧の度(およ)ばぬものはなし。もののすがた[=有]もそのもと[=法]も、一切のものは皆清浄(きよ)し。
 欲が世間をととのえて、よく清らかになすゆえに、有頂(天)(すぐれしもの)もまた悪も、みなことごとくうちなびく。
 蓮(はちす)は泥に咲きいでて、花は垢(よごれ)に染(けが)されず。すべての欲もまたおなじ。そのままにして人を利す。
 大いなる欲は清浄(きよき)なり。大いなる楽に富み饒(さか)う。三界の自由身につきて、堅くゆるがぬ利を得たり。』というわけです。
 つまり、<大きな楽しみ>は金剛のようで空しくなく、真実の悟りの境地であると説くのです」
 「ちょっと待って、その大きな楽しみって何?」
 「実は、その<大きな楽しみ>とは何かということが、一番初めに書かれているのです。ところが経典としては、ちょっと刺激的にすぎるので、後回しにしたわけです。
 では『欲望は清らかなり<大楽の法門>』という部分です。
 『一.(男女交合の)妙適(たえ)なる恍惚境も、清浄(きよらか)なるぼさつの境地である。
 二.(欲望が)箭(や)の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なるぼさつの境地である。
 三.(男女の)触れあいも清浄なるぼさつの境地である。
 四.(異性を)愛し、かたくいだき縛(つな)ごうとするのも、清浄なるぼさつの境地である。
 五.(男女相抱いて満足し、世の)一切(すべて)に自由であり、すべての主であるような心地となることも、また清浄なるぼさつの境地である。
 六.(欲心をもって異性を)見ることもまた清浄なるぼさつの境地である。
 七.(男女交合して)適悦(こころよき)なる快感を味わうことも、また清浄なるぼさつの境地である。
 八.(男女の)愛もまた清浄なるぼさつの境地である。
 九.(これらのすべてを身に受けて生ずる)自慢の心もまた清浄なるぼさつの境地である。
 一〇.ものを荘厳(かざ)ることもまた清浄なるぼさつの境地である。
 一一.(すべて思うにまかせ)意滋沢(こころよろこ)ばしきこともまた、清浄なるぼさつの境地である。
 一二.(みちたりて)光明(ひかり)にかがやくことも、また清浄なるぼさつの境地である。
 一三.身(体の快)楽もまた清浄なるぼさつの境地である。
 一四.この世の色(もの)もまた清浄なるぼさつの境地である。
 一五.この世の声(ものおと)もまた清浄なるぼさつの境地である。
 一六.この世の香(かおり)もまた清浄なるぼさつの境地である。
 一七.この世のものの味もまた清浄なるぼさつの境地である。』というわけです。
 どうですか、感動的でしょう」
 「なんだなんだ、行者さん、こんなすばらしい大義名文があるんなら、これですべて解決じゃないの?」
 「そうよ、なんで、もっと早く言ってくれなかったの?」
 「ほう、あんたも、なかなかやりおるなあ。こんな切り札を持っとって、いつまでも知らんぷりしとったんじゃから…」
 「いや、べつに、そういう訳じゃないんですが…。やはり話には手順ってものがありますから。
 ところで、これがあれば問題はすべて解決というわけにはいきません。なぜなら、問題は<清浄観>の体得にあるからです。一度聞いて、ああそうか、で納得しただけでは<大いなる楽しみ>とは言えないということです。
 要するに、われわれ凡俗の快楽が<清浄なる菩薩の境地>になるには、<否定の否定>という論法上の手続きを生きることで実践しなければなりません。つまり、これが<修行>でもあるのです。
 いいですか、自分の抱えている<欲望ゆえの矛盾>を徹底的に問い詰め分析しつつ浄化して、一度、無力化してみなければ、それを清浄なるものとして体得することはできないのです」
 「なによ、せっかく光明が見えたっていうのに、また遠ざかっちゃったじゃないの…」
 「でも、ここでいう<清浄なるぼさつの境地>になれば、さっき行者さんがいった、ええっと、無性的超越者だったかしら…」
 「そうですね」
 「よかった。その無性的超越者ね、それになって普遍的な快楽を享受するってことになるんでしょ?」
 「そういうわけです。ここではセックスにおける快楽が、まずは男根具有の女性と女陰具有の男性という矛盾として設定されているわけです。言い換えると、女性の潜在的な男性性と男性の潜在的な女性性に目覚めるという矛盾への対峙が前提になっているというわけです」
 「だけど、それが修行だとしたら、どうすればいいの? その気になるってことかしら…」
 「そう、簡単に言えばその気になるってことです」
 「ほうか、じゃったら、わしゃ、もうすっかりその気になっとるぞ、ハハハ」
 「あれえ、リストさん、もう酔っぱらっちゃったんじゃないの?」
 「んん? ほうか、わしゃ酔っぱらっとるかな…。ハハハ、失礼失礼…
 しかし、なんだか、眠くなってしもうて…、こうして声でも張り上げとらんと、眠ってしまいそうじゃよ…」
 「リストさん、少し寝てらしたらいかがですか? 用事があったら起こしますから、どうぞ…」
 「ほうで、そりゃ、すまんが…、そうさせて貰おうかな…。とにかく、歳を取ると、待ったは利かないし、だらしなくなるしで、まったく困ったもんです。
 もう、起きとっても、酔っとるのか、寝とるのか…」
 「あっ、あれえ、もういびきかいてるわよ」
 「リストさんも、一一〇年ぶりのことだったので、かなり疲れたんですね…」
 「だけど、元気な年寄り!!」
 「じゃ、続きです。ええっと、なんでしたっけ?」
 「<その気>よ。しっかりして…」
 「ハハハ、そうでした。
 とにかく、<その気>になって思うことが、行為となり経験として具体化されなければなりません。ですから、場合によっては、精神的な力で物理的な現象を起こすという超常的な現象までも範疇に納めることになるのです」
 「そうすると、行者さんの場合は、その菩薩の境地に到達してるわけ?」
 「ふむ、どうでしょうか、厳密にいうと、そう感じるときがあるという程度のことです。それと、密教というのは、かなり良くできてましてね、<とりあえずの菩薩>になるための方法論というのがあるんです」
 「<とりあえず>ってどういうこと?」
 「これを<護身法>といいますが、これによって密教の祖である金剛手菩薩の化身といわれる<金剛薩タ身>という密教的な霊的人格になるのです。これも、言ってみれば、瞑想的手段によってその気になることに他なりません。しかし、その気になれるために、まずは己の不徳を懴悔して仏教に帰依していなければならないというわけです。
 この懴悔こそが初めの自己否定であり、さらに凡俗の仏教者であることを否定しえてこそ<金剛薩タ身>として大いなる肯定の場に立つことが出来るというわけです」
 「ああ、駄目駄目。快楽はどんどん遠ざかって行くわ…」
 「だけど、もっと簡単に済ます方法ってないの?」
 「そう、正に、それが問題なのです。そして、この問題に明確な回答を用意することが出来るなら、それはひょっとすると、宗教という方法をとることなく<清浄なる境地>に到達しうるものになるかもしれないというわけです」
 「なんだ、そういう可能性があるんだったら、先に言ってよ。希望を持たせたり絶望させたり、絶望したかと思ったら希望を持たせたりで、もう、どうしたらいいんだか、迷っちゃうじゃないの!?」
 「いや、まったく申し訳けない次第です。とにかく、問題はことごとくの苦悩を自己矛盾へと還元して、さらに浄化するための方法論なのです」
 「ねえ、行者さん、苦悩っていったって、なんていうのかなあ、人によって、みんな感じかたが違うんじゃないの?」
 「正におっしゃる通りです。苦悩も救済も、その種類は人の数だけあるわけです。ところが仏教では、その多種多様な苦悩も、そもそもの原因を探ってみると、これはいつも繰り返し言ってることですが、<想う><思う><念う>という心の営みにあると見定めざるをえないというわけです。
 そこで<思う>ということの情況を考えてみると、<しなければいけないと《思う》ことが出来ない>とか、<してはいけないと《思う》ことをしてしまう>なんてことがあるし、あるいは<したいと《思って》も出来ないことをしてみたいと《思う》>とか、<したくないと《思いつつ》してしまうことをやめたいと《思う》>なんてことがあって、<とかくこの世はままならない>というわけです。
 つまり、<あるがままではいられず><ありえぬままでもいられない>というように、現状をそのままでは納得しかねるという<思い>が、そもそもの自己矛盾の原因であり、それがさらに不成就性の壁に阻まれたときに、<思い>がより深刻な<苦悩>へと増幅されていくというわけです」
 「へえ、なんか、すっごく分かったような気がするけど、だけど、それと同時に、たったそれだけのことなのかなあなんて気にもなっちゃうのよねえ…」
 「そうねえ…。そうすると、苦悩をなくすには、なにも<思わない>ってことで解決しちゃうわけだもんね、そうでしょ?」
 「まったくその通りです。ところが、私たちは、残念ながら<何も思わない>とか<何もしない>ということが、出来ない相談なんだと知ることになるわけです。
 どういうことかと言いますと、<何かを思い>つつ<何かをしている>のが人間の常態であることを我々はよく知っているということです。現に、あなたは昨日何をしてましたかと聞かれて、平気で『何も<してなかった>よ、一日ポケーと<してた>』なんて言っているわけです。何もしていないはずなのに、立派にポケーとしているのです。
 要するに、何事かについて無意識であることはあっても、その間にも生理的存在としての自分は歴然として存在しているのです。それは他者との関係でも言えることですから、<すでに何かとしてある>ということが、人が人間であることの逃れられぬ条件だというわけです。
 そして、ここで思い出してほしいことは、たとえ無意識であれ<ある>ことを成立させているのがあの<愛>だということです。この<無意識のしがらみ>を、仏教では<無意識の苦悩>と見定めて<一切皆苦>といっているわけです。
 ですから、仏教のなかでも禅宗は、座禅という手段で<何も思わず><何もしない>姿を体得することが悟りの境地であり、仏の姿だといっているわけです。しかしまあ、ここに<とりあえずの無念無想>があるとしても、人間として生きている以上、<座る>というスタイルで立派な生命維持を<している>わけだし、そもそもが<座って無念無想になりたい>という立派すぎるほどの<思い>あってのことですから、あくまでも<限定付き>の悟りということになります。
 もっとも、いかなる<悟り>も<解脱>も<成仏>も、それが無条件のオールマイティーな特権として与えられるということは有り得ないのです。
 どういうことかと言いますと、つまり<悟り>はそれに至る<問い掛け>がなければなりませんし、<解脱>も克服すべき<因縁>が設定されていなければならないし、<成仏>にしたところで、もっぱらその人が<因縁解脱>してきた苦悩に対して与えられる境地であり、それゆえの苦悩に対する他者救済力を発動しうることによっての<成仏>であるにすぎないというわけだからです。
 ちょっと話がそれてしまいましたけれど、結局は<何も思わない>とか<何もしない>情況にはなれないというわけです。
 この矛盾を言い換えると、自己否定も究極においては否定者たる自己を肯定せざるをえないというわけです。これも蛇足ですが、この逆に自己肯定も究極においては肯定している自己の根拠を曖昧にしてしまうのが落ちで、結局は自己否定になりかねないというわけです。
 そこで、とにかくは、この<一切皆苦>という情況を、単なる<自己矛盾>へと浄化し還元することにより、それを<大いなる楽しみ>へと転換しようというわけです。そうすれば、この段階で<思い><想い><念う>ことが、ことごとく<仏の知恵>になっているというわけです」
 「やっぱ、何事も、そうは問屋が卸さないってわけか…」
 「ねえ行者さん、苦悩も救済も人の数ほどあるってわけでしょ、そうすると、その救済とか悟りの境地でなれる仏様っていうのも、ま、みんなが仏様になれるわけでもないでしょうけど、一応は可能性として人の数ほど用意されていなければならないわけでしょ?」
 「そういうわけです。それを<如来蔵>とか<仏性>といって、すべての人に仏になる可能性があると言っているわけです」
 「そうするとねえ、人によって苦悩が異なるように、仏様っていうのもその苦悩に見合った色々なタイプがなければならないんじゃないの?」
 「その通りです。それを密教ではマンダラという形で表しているわけです」
 「そうかっ、そうするとやっぱ、仏様も偉いのとあまり偉くないのがあるんだ…」
 「いや、そうじゃなくて、役柄の違いといったほうがいいでしょう。一応、密教ではすべての徳をそなえた仏様を大日如来といってますが、だからといってそれが偉いわけじゃないと思いますよ。
 つまり、苦悩に見合った救済の方法を多種多様な仏様の姿で表したのがマンダラですから、いかなる方向から悟りに至ろうとも、その本質的な知恵というものには相違がないと考えているわけです。言い換えれば、苦悩者にとっては、大日如来の徳が救済されたい姿の仏様になって現れるというわけです」
 「ねえ、そうすると、自分にとっての最重要課題っていうか、得意の分野っていうか、そういうものを一つに絞って悟ればいいってことになるの?」
 「そう、そういうわけです。自分の抱える問題を一つに絞り切れるとすれば、その段階ですでに悟りの輪郭は見えていることになるのです。つまり問題が見付かれば、解答ならずもすでに回答は与えられたも同然だというわけです。
 それを宗教的にいえば、自分の抱える苦悩が重くて大きいほど得られる救済もまた感動的なものになるというわけです。その意味において、悪人ほど救済の間近にいることになるのです」
 「なんだなんだ、行者さん、そうすると、あたしにとっての問題っていうのは、さっきの大義名文で決まりってわけね。当面、大楽とやらのセックスが可能ならそれがすべてってことかしら、ハハハ」
 「もう、露骨なんだから…。あなたねえ、愛ってことを考えたら、男と女の関係だってセックスだけってわけじゃないでしょう…」
 「ヘヘヘ、かもね。だけど、あたしはこれ一つに賭けて悔いはなしってところかしら!!」
 「ほほう、まことに実直で高潔な決意というわけですね。ま、それもまた結構でしょう。
 そこで話はついでということもありますので、若い女性を前にしていうのも気が引けるんですが、ま、この際、多少のぶしつけな表現もお許し頂くとして、とりあえずは性欲における自己矛盾なんてものを考えてみたいと思うんですが…、いいですか?」
 「うん、いいわよ。積極的にやってみて」
 「それじゃ、さっそくですが、性欲の重層的な構造ってやつを見てみましょう。
 まずは男性が能動的に<男根で女陰をしたい>という場合と、受動的に<女陰に男根をされたい>という場合を想定することが出来るというわけです。
 それと同様に、女性が能動的に<女陰で男根をしたい>という場合と、受動的に<男根に女陰をされたい>という場合を想定できるわけです。
 そこで自らの性欲を、この四つのタイプに照らして分析したときに、どこまでその性欲を簡潔な形で整理することが出来るかということが問題になります。
 どうですか、ここはひとつ、根性を据えて自己分析に取り組んでみてください」
 「ううっ、そんなこと、言葉にして考えてみたことなかったなあ…。あたしの場合、どういうことになるのかしら…。
 ふむ、確かにセックスしてみたいって思うけど、いま特定の相手がいるわけじゃないから、どういう形で欲情するのかなんて、ちょっと分かんないなあ…」
 「それは、かなり現実的で素直な回答といえるわけです。ということは、自分がその相手に支配されたいと<思う>か、または支配したいと<思う>かの条件が未定だからというわけです。
 ところが、支配されたいと思う心も同時に支配したいと思う欲望を否定することが出来ません。同様に、支配したいと思う心が同時に支配されたいと思う欲望を否定することも出来ないわけです。
 どうでしょうか、とりあえずはこの情況に性欲の自己矛盾なんてものが見えているとはお感じになりませんか。これは単に能動性を男性性として、受動性を女性性とすることとは違うのです。この点はお分かり頂けると思います。
 そこで、さらにこの情況に男性性と女性性という問題をスライドさせることが出来ないものかと考えてみるわけです。
 まず男性が男根で女陰を支配したいと思いつつ女陰に支配されたり、その逆に女陰に支配されつつ支配するというのは男性性の感覚ということになります。この情況で女性性を発掘しようとすると、とりあえずは男性でありながら男性とセックスをしたいという欲望を見定めて、男根を切断して女になった男とか、腔門に挿入されて勃起する男を想定することが出来ます。ただし、かわいい男の子とセックスをしたいと思う男の感覚は、挿入感覚という点から男性性の一部に含まれると考えます。
 同様に女性が女陰で男根を支配したいと思いつつ男根に支配されたり、その逆に男根に支配されつつ支配するというのが女性性の感覚ということになります。この情況で男性性を発掘しようとすると、とりあえずは女性でありながら女性とセックスしたいという欲望を見定めて、疑似的な男根を装着して男になった女とか、その疑似的男根をフェラチオされて感じる女を想定することが出来るわけです。
 これを単純化して言うならば、ご存じのようにホモとレズの感覚というわけです。ところが、ホモとかレズという感覚が倒錯的な性欲であるという一般的な常識に阻まれてしまっては、この崇高なる思考も停止しかねないのです。そこで何はともあれこれを解消して、男性の中のどこかに、誰もが男性に愛されたいというホモセクシャルな欲望を隠し持っているのではないかと考えてみるわけです。同様に、女性の中のどこかに、誰もが女性に愛されたいというレズビアン的な欲望を隠し持っているのではないかと考えてみるわけです。
 ここで、ちょっと戦略的な操作概念として<犯す>という言葉を使って言うならば、男性が女性を<犯す>ときには、男性の感覚の中に<犯される>ものの傷みを反省的に対自化しうるものがあるからこその妖しい快感がつきまとっているはずだといえるわけで、ここに自己移入しうる女性性があると考えるわけです。
 同様に女性が男性に<犯される>ときには、女性の感覚の中に<犯す>ものの暴力的な快感を反省的に対自化しうるものがあるはずだというわけで、ここに自己移入しうる男性性があると考えることが可能になるのです。
 これを<強姦>された女性の場合に当てはめてしまっては、不謹慎であるばかりでなく、女性蔑視にもなりかねない暴論ということになってしまいますから、これは、たとえば倦怠期に入った夫婦の戯れとして<犯す−犯される>という危機的性欲の演技が、その非日常性により刺激的な快感を享受しうる方法になりうるという程度のこととして了解して頂きたいわけです。
 ま、そんなわけで、性欲を極限的な情況に追い込んで考えてみると、ホモにしてもレズにしても、あるいは<犯す−犯される>関係にしても、普段は意識することのない隠された欲望を垣間見ることが出来るのではないかというわけです。
 いかがでしょうか、性欲の浄化という見地に立って自己矛盾を見定めようと考えた場合、こういうちょっと危険な分析が有効ではないかってわけです」
 「行者さんって、いつもそんなこと考えてセックスしてたの?」
 「いやいや、セックスの最中はただひたすらの無我夢中ですよ。それでなければ性欲を大楽にまで浄化することはできません。そもそも性欲とはただ性行為のためだけに全うすべきものなのです。
 しかし、残念ながら、実際には男と女の自己保身の打算と欲望のしがらみのなかでしかセックスも成り立たないという次第です。それゆえにこそとでも言いましょうか、セックスに関する考察とは、その目的と方法論を見誤らないためにも、自らの性欲がいかなる物語によって喚起され、いかなる快楽快感の可能性を拓きうるものかということぐらいは見定めておくべきかもしれません。
 つまりセックスすることによって、自愛的快楽でブヨブヨに肥満してしまうことのみならず、自己欺瞞を犯したり自己喪失に陥って生活が荒んだり人生観を空しくしてしまうようなことがあってはならないというわけです」
 「だけどさあ、さっき言ってた、性欲の重層的構造っていうのかな、行者さんの場合、ああいうのって実際に感じることあるの? たとえば男の人に抱かれたいなんて思ったことあるの?」
 「そうですねえ、幸か不幸か、いまだに実際に抱かれたいと思うような魅力的な男性に巡り会ったことはありませんねえ、ハハハ。
 それに私の場合、腔門に男根を入れられて、それが女陰と同様に肉体的生理的な感覚として気持ちいいとは思えないんですよ。ちょっと汚い話になりますが、それは排便のときに、確かに安堵感といってもいいような平安が用意されているとはいうものの、排便の最中にね、腔門が男根を刺激するのと同様の快感を感じたことがないってことが最大の要因かも知れません。ここでもしもオカマ諸氏が、そんなはずはないと言うのであれば、それは私の感覚が発育不全であるにすぎないのかもしれません。
 しかし、それが、誰かに何事かを<される−されたい>という自己否定性の受動的な感性を刺激して、場合によってはその非日常的な自虐的な快感が疼いて、精神的な屈折した喜びが得られるというのであれば、あえてそれを否定するつもりはありません。なぜなら、それは至って常識的なマゾヒスティックな快感にすぎないからです。
 まあ、だからといって、積極的に体験してみようとも思ってはいませんが、そういう感覚を、ただ単に倒錯的なものとして排除するつもりがないというだけのことです。
 それと、こんな場合もあるわけです。
 例えば、自分が美しいと思うものを自己同一性の糧にしなければ納まりがつかないという、繊細にして芳醇な感性が十分に発達していて、たまたま男が美少年に憧れたり、美形のオカマを抱きたいと思うことがあったとしても、それはごく自然なことだと思うわけです。ですから、その自然さが自分だけに通用する不自然な感覚だと自覚することがあったとしても、それは屈折したぶんだけ快感へと誘う情報量が多くなっただけのことですから、自分の自然感を取り下げる理由にはなりません。そのこと自体は、女性が宝塚で男装の麗人に憧れる場合と、たいした違いがないというわけです。
 とにかく、性欲においてヒトビトが変態とか退廃とか倒錯とか評価する根拠を探ってみると、その欲求が生殖という問題を希薄にしてしまったりあるいは去勢して、ことさら快楽ばかりを求めているという点にあると思われるわけです。
 しかし、性的な快感が生殖を伴うということは偶然の出来事にすぎないのであって、健康なヒトビトは生殖という結果が前提にされていなくたって毎日、一日中、所構わず発情し続けているというわけです。そうでしょう、発情するたびに子供が欲しいと思っているわけではないのです。まして、パイプカットしたって、生殖臓器を摘出したって、生理が上がったおばさんたって、みんな元気に発情し続けているのです。
 つまり、性的な快感を生殖という物語で拘束しようという企みこそが、不健康で不健全な抑圧的発想と言わなければなりません」
 「セックスはセックスのためにありってわけね。ということは、セックスというのは、快楽のためなら、どんな物語でそれを語ってもいいってわけね?」
 「そうです、その物語は自らの創造性に委ねられているわけです」
 「やっぱ、心身ともにセックストレーニングが必要なんだ。キャッハッハッ」
 「やあねえ、なんていう顔してんのよ…。それじゃただのスケベと変わらないんじゃないの?」
 「そうかなあ…。そうすると、行者さんもかなりのスケベってわけよね」
 「まあ、スケベ、好色も研究熱心の称号と考えてみれば、それも光栄の至りです。しかし、一個人としては一日中発情し続けているわけにもいきませんから、その限られたチャンスに集中してより豊かなセックスライフを創造するために、いま申し上げたような考察が必要だというわけです」
 「だけど、わき目もふらずにセックス、セックスだなんて、なんか、考えただけでおかしいと思わない?」
 「ねえ、行者さん、そうすると、セックスと愛情の関係はどうなっちゃうの? もしもセックスが性欲と快感のためにだけあるとしたら、愛する人に抱かれたいっていうのは、不純なことになっちゃうってわけ?」
 「いや、いま私が言っていることは、そういうことではないのです。誰が誰に抱かれたいとか抱きたいという性欲の動機は問題にしていないのです。そもそも誰かが誰かを好きになるということ自体が問答無用の闇雲な感覚なんですから、そんないたって個人的な動機は問題にしようがないのです。
 言い換えると、いまも言ったように、そもそもセックスとは、様々な物語のしがらみのなかでしか実現しないのです。だからこそ、不純なアプローチを引きずってもなお、セックスを自愛的欲望から解放して性欲のために全うさせようと考えているわけです。
 ここで重要なことは、愛という自己同一性の動機が、無言のうちにもセックスを自己保身の手段にして、相手に何等かの代償を要求する口実にしてしまうというようなことは極力排除されなければならないということです。それは、単に売春について言っているわけではなく、何らかの目的のために<抱いてやったー抱かれてやった>という動機の不純性について言っているのです。
 そういった点から考察するならば、問題を性欲の浄化ということだけに絞った場合、他者を介入させることなく性欲の自己完結性を全うしうるという意味においては、オナニーという方法が重要になってくるわけです。
 ところが、このオナニーも、もっぱら自分で性器や性感帯を刺激して快感を享受することが目的になっている場合と、オナペットと言いうる他者のイメージを介入させてセックスの疑似体験をする場合と、さらにダッチワイフとかバイブレーターという疑似的な性器を介入させてより具体的な疑似体験をする場合とがあるわけです。
 つまりここでは、より浄化された快感ということを考えてみた場合、他者の性器をイメージにおいても疑似的な道具によっても介入させないほうが自己完結的であり、性欲の性的意味さえも浄化しうる可能性さえ秘めているということは言えるわけです。それは行為者でありつつ同時に経験者であるという意味においても一元的な完結性を獲得しているわけです。あるいは、性行為をしらない子供が、ただ快感のみのために性器を刺激するという意味の純粋な完結性なのです。ただし、この場合の自己完結性に埋没したまま成長してしまうと、異性との性的な交渉に発育不全を引きずる結果になりかねないので要注意です」
 「でもねえ、あたしは、まだちょっと、愛情にこだわっちゃうんだけど、愛情とセックスと分離できるものだとしたら、気持ちいいことしてくれるのは誰でもいいけれど、愛しているのはあなただけなんてことが言えるわけ?」
 「なによ、あなただって、結構過激なこと考えてんじゃない!?」
 「そっ、そういうわけじゃないけど、当然起こりうることじゃないの?」
 「まあ、そうですねえ、それは常々映画やドラマのテーマに取り上げられている問題です。一般的にいうならば、セックスと愛情関係がなんらかの事情で分離されている場合の苦肉の策としてとか、性欲を単なる生理現象と割り切らなければ自己欺瞞を回避しえぬほどに絶倫であったり好色ゃ淫乱である場合には、そういう言い方が出来るわけです。
 しかし、日常生活というものは無意識のうちにも生理現象に支配され管理されているわけですから、何を思って何をしようとも、何も思わずに何をしようとも、それは心身を分離して生きられない人間の人間としての不可避の営為というわけで、単なるセックスもその人の心を支配し影響しうる問題であることには変わりはないのです。
 いま提示された情況を逆に考えてみると、たとえ自分が誰を愛していようとも、あなたに抱かれるのが最高よっていう場合、仮に人生の最大の目的がセックスによる快楽であるすれば、最高の快楽を与えてくれる相手以上に愛せるものが他にあるのかどうかということが問われるわけです。あるいは、純愛というものを人生の目的として掲げたときに、はたして生理現象にすぎないセックスが自己欺瞞を回避して、純愛を全うすること以上の快楽を与えてくれるのであろうかということが問題になります。その意味においては、快感も快楽も、心身一如の営為であると考えているわけです。
 ですから、ここで重要になってくるのは、その人の人生観に他ならないのです。理由はなんであれセックスは十二分に楽しみたいが、それに拘束されない愛情関係も欲しいという問題こそが問われているのです。要するに、<あれもこれも欲しいと思う>我々の常態こそがそもそもの苦悩の原因だというわけです。この自己矛盾を欺瞞になりかねない情況で放置したままで目先の自愛的欲望に捕らわれていては、いつまでも満足すべき回答は得られないはずなのです。
 言い換えれば、この自己矛盾が、その人にとってそのまま浄化しうるものであれば何等問題はないということになります」
 「そうか…。結局はそこへ行くわけね」
 「話しは、すっかり横道にそれてしまいましたが、自己矛盾の浄化という救済論は、セックスの場合、やはり性欲そのものの浄化にまで辿りつかなければ解決しないということかもしれません」
 「ねえ、行者さん、その<自己矛盾の浄化>っていうのは、もっと違う言い方ってないの?」
 「ふむ、そうですねえ…。そもそもは仏教の因縁解脱という発想なんですが、じゃ、その前に、ちょっとお聞きしたいんですが、どうでしょうか、これも至って抽象的な言葉なんですが、純粋行為とか純粋経験という言葉についてはどのように感じますか?」
 「純粋行為? それ、行者さんの言葉でいうと、自己欺瞞のない状態のことでしょ?」
 「そうですね。いまのセックスの話でいえば、セックスはセックスのためにあると言い切れるようなものですね。つまり行為と経験が表裏一体の一元的構造になっているようなものを<純粋行為=純粋経験>というわけですから、ある目的のために為される行為そのものが目的になっていて、行為の目的はそれを経験しているという自覚によってしか与えられない情況というわけです。
 これはさっきの繰り返しになりますが、自己矛盾とは<あるがままではいられない>とか<ありえぬままでもいられない>情況のことですから、浄化とは<いられない>という<思い>をいかにして解消するかということです。
 つまり、<あるがまま>であろうと<ありえぬまま>であろうとも、とにかくはこの<いられない>という<思い>を純粋行為と純粋経験に置き換えるのです。たとえば相手がいないのに<セックスをしたいという思い>は、相手を必要としない<純粋行為としての性欲>と<純粋経験としての快感>の体得として、もっとも純粋なかたちの自己完結的なオナニーに置き換えることが可能なわけです。
 たぶん、セックスに関わる様々な物語を解消して性欲と快感のみを問題にするならば、これがもっとも純粋なものと言えるかもしれません。
 ところで、この純粋性という問題を因縁解脱として考えてみると、自己完結的な純粋行為と純粋経験こそが、因縁というしがらみとなった物語を無力化する最良の方法であることに気付きます。しかし、人間はどんなに完璧な因縁解脱をしたつもりでも、生き続ける限りは日々新たなる因縁を引きずって生きなければなりません。
 したがって<因縁解脱>とは『因縁となった物語的欲望を純粋行為として解消しつつ、それを新たなる物語的欲望の純粋経験として語り続けることでなければならず、その経験によって派生する新たなる物語的欲望は、再び純粋行為によって解消されつつ純粋経験として語り続けられることの繰り返しでなければならない』というわけです」
 「ああ…、説明はいくら聞いても説明にすぎないってわけね。それで、性器崇拝の行者さんとしては、この物語からの因縁解脱をどうするつもりなの?」
 「そうですね、ようやく方法論が見えてきたという感じです。
 まずは、作者の物語的欲望を見定めて、それを我々が積極的に純粋行為へと昇華してしまうのです。そして、その無力化された物語的欲望を至って消極的に純粋経験として語り起こすのです。
 それは、作者の欲望とは何かと問いつつ、その問い掛けが回答にすぎなくて、回答はわれわれの問い掛ける欲望になっているという構造として体得されるはずなのです。極論するならば作者の欲望を掠め取ることなのです」
 「だっ、だけど、行者さん、そんなこといっちゃって、作者に聞かれたらどうするの? あいつ、絶対に妨害してくるはずよ…」
 「いや、大丈夫です。作者にしても、ここまで語ってしまった物語をいまさら変更するわけにはいかないのですから、作者の欲望は、われわれの前で為す術もなく解消されるのを待つのみなのです、ハハハ」
 「それで、具体的な方法は…」
 「無論、作者が私に与えた性器崇拝というわけです」
 「そうすると、作者の奴が、あたしたちを<かたぶとりの太モモ>だなんて呼んだってことも、有効な手掛かりになるわけね」
 「そうです。作者のこの物語における企みを暴くことは、作者によって与えられたわれわれの役柄を、見事なほどに演じてみせることなんです。そもそも役柄こそが作者の企みを物語的欲望として担わせる器なのですから。
 皆さん、ここで<時間よ止まれ>を思い出してください。
 神秘体験における感動が<時間性の体得>によって<脱時間性の体得>を可能にするという逆説です。しかも神秘体験が<表現行為>と<表現経験>の変換装置になっているという点が重要なんです。いいですか、<神秘体験に遭遇する理性とは、自己崩壊の憂き目にあう知見の特性によって、自らが隠蔽している感性の性格を決定しつつそれを喚起して自己の再建を企てる>という、これが私たちの戦略になるのです。
 われわれの狙いは、物語的時間を止めることによって物語的時間そのものである役柄を無力化することなのです。
 つまり、十全たる演技者として役柄そのものに成り切ることによって役柄性を解消しつつ、役柄の純粋行為によって神秘体験を拓くのです。それは、われわれが神秘体験に遭遇する役柄を自己喪失させることによって、演技者たる<私>の反省的な純粋経験に覚醒し、役柄の欲望を無垢のまま担う<役柄たりえぬ私>として自己の再建を成し遂げ、その情熱によって作者の企みを糾弾しつづけることを可能にするのです。
 そのとき、われわれは<役柄たりえぬ私>の物語を、決して空しくはならない楽しみとしてヒトビトのために語り始めているのです」
 「行者さん、そうすると、性器崇拝っていうのは、どうやってやるの?」
 「それは、<かたぶとりの太モモ>という役柄とともに、作者の創造性に任せたらいいのです。それが、すでに与えられている条件を積極的に引き受けて主体的に生きるという意味で、物語的役柄に対する我々の積極的な行為性に他ならないのです」

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