(4) ニワトリが転ぶのを見た



 

 さて、いつまでたっても上野に辿り着けない彼らの歩みは、私の純文学的欲求を知ってか知らずでか、取り留めのない芸術論で迷走を続け、どうあがいてみても所詮は自己不信を払拭できないことごとくの芸術家が、そんな愚痴る当てもない恨み辛みを託すには打ってつけのささくれだった神経質な風を纏い、誰もが自己不信で閉ざすビルの錆びたシャッターに、突き刺さりながら通り過ぎていくには打ってつけの街だけが取り残されて、すでに拓かれている物語未来さえ、行者の懴悔という無限退行の前で停止したままになっている。
 ところで、作者たる私も未だ行者の人格を完全に掌握するには至っていない始末ではあるけれど、彼の懴悔論からするならば、彼の提唱する宗教論がリスト老人に対してリスト芸術の懴悔を要請してくるだろうという程度のことは想像に難くない。
 そこで、そんな行者の野望を打ち砕くためにも、ここではリスト老人に神の賛歌を語って貰わなければならないのだが…
 「しかし、なんじゃなあ、自分の苦悩を芸術論で持て余しとって、それを解決するのに芸術論を降りて仏教者になってしまいよるいうんじゃから、わしらにしてみれば、そもそもが芸術家じゃなかったいうことで納得せにゃならん、そういうこっちゃな…。
 もっとも、あんたにしたら、そんな程度の芸術家にすぎなかったんなら、何も懺悔までする事はなかったというて、反論するかもしらんがな…」
 「ん、まあ、そういうことになりますね。確かに、リストさんからみれば、私が語ったところの芸術論とは、キリストの体臭を感じない、つまりはバックボーンとなる精神のない換骨奪胎された芸術論というわけですから、まあ、そう言われても仕方ないとは思いますが、しかし、宗教のみならず文化の広がりというものは、所詮、翻訳文化としてしか根付かないという意見もあることですから、私としては、この見解を尊重して、私なりに芸術家たりえたはずだという自負を、今さら取り下げるつもりはないのです」
 「ふむ。そうしてみると、あんたが、芸術論を懴悔したいうのんは、たとえ換骨奪胎した芸術論とはいうても、多少は残っているはずのキリストの体臭になじめないということだけではなしに、やはり芸術論には救いがないと考えた、そういうことじゃな」
 「正に、その通りです。私が苦悩する表現者として芸術家でありつづけることは、屈辱的な自己愛を引きずって、おまけに不成就性で欝血した恥部を晒しながら、ヒトビトの施しにすがって生き延びることでしかなかったというわけです」
 「ま、わしらにしてみれば、芸術論における苦悩いうたら、美という究極の真理に到達する試練いうことで納得でけるんじゃがなあ…」
 「それは、リストさんたちにとっては、ファウストの精神という芸術家のバイブルがあるからじゃないんですか」
 「ん、まあ、そういうことじゃな。そもそも、己が苦悩者じゃという自覚そのものが、原罪いうことからすれば、神に認知された存在理由いうことで何んの不足もないわけじゃから、いまさら芸術論で生きられんからいうて、じたばたしてもしょうがないいうこっちゃ。言い換えるならば、わしら芸術を志すもんは、この苦悩ゆえに神の祝福に浴することがでけるいうわけじゃからな」
 「確かにおっしゃる通りだと思います。正に、苦悩者は神に祝福されて当然なのです。しかし、私の立場からしてみると、そもそもの苦悩がその根拠を辿ると神にしか突き当たらないというのだから、究極の救済ということを考えてみたら、神を捨てるか人間やめるかしかないということになるわけです。
 しかしこれも、リストさんからすれば、自己不信を神に突き付けて神の不在を語ろうとする論法ということになるわけですね。
 つまり逆にいうならば、神の存在を絶対化することが、取りも直さず自己不信に起因する苦悩を払拭する最善の方法になるというわけですよね」
 「まあ、そういうことじゃな」
 「そして、神を絶対化する方法とは、<信ずる>ことってわけですね?」
 「その通りじゃ。だからこそ、キリスト者たるものは、まずは信心なくしては何事も始まらんいうわけじゃよ」
 「それにしても、信ずる者のみが救われるというのは、まったく言いえて妙というわけです。そもそも私の論法からすれば、<信ずる>こととは<私を私として充足すること>であり、これが自己の存立にかかわる<愛>の原初的な姿というわけです。
 つまり生きがたき人生を生きなければならないヒトビトにとっては、この自己同一性を獲得し維持することが第一の目的ですから、そのためには神が不可欠であろうとも、恋人の愛が不可欠であろうとも、それらはいずれも自己同一性に至るただの足掛かりにすぎないと考えるわけです。
 言い換えるならば、神を信ずることも、恋人の愛を信ずることも、それは、<自分を信ずること>に他ならないというわけです。逆に言うならば、自分を信じられる者は何んだって信じられるのです。さらに一言付け加えるならば、その<信ずる力>と<欲求>が<愛>なのですから、<愛>とは自分の外にあるのではなく、あくまでも自分の内なる力にすぎないということです」
 「しかし、なんじゃなあ、あんたのその論法でいくと、どう考えたって、天地創造の神が成り立たたないばかりか、神そのものが人間的営為の所産いうことになってしまいよるんじゃないのか?」
 「そうです。しかし人間が天地創造したとまでは言いませんが、神という概念は、正に人間的想像力の創造性と自己愛による欲望の所産というわけです。
 そもそも旧約聖書によれば、人間誕生以前の天地創造の現場では、人間的所産の<言葉>がまず一番最初に<在って>、<光あれ>と言い、そして光が闇を切り開くというわけです。ま、人間が立ち会うことの出来ない現場が人間の<言葉>で語られているということ事態が、後のご都合主義による<作り話>であることを露呈しているわけですが、ここで興味深いことは、まず初めに<神>とともに<在る>のが<人間の言葉>だということです。
 つまり、人間の言葉なくしては、神も存在しなかったであろうということが明らかにされていると考えられるわけです」
 「ねえねえ、行者さん、それ、どういうこと? 神様なんていないってこと?」
 「いや、いないなんて言ってませんよ。ただ存在の根拠が人間の愛によるということです。まず初めに、闇雲に神の愛があるのではなく、人間の想像力が先だということです」
 「だけど、そんな想像にすぎない神様じゃ、いないも同然じゃないの?」
 「いや、そんなことはありませんよ。人間の愛を発動させる想像力と信心を見くびってはいけません。
 そもそも愛とは、何かを何かとし充実させる力なんですよ。いいですか、充実するということは、<在る>ということなんです。一度充実させた力が、ヒトビトの愛で充実され続けられるなら、そんな何かは主体的な存在として<在り続ける>ことになるのです」
 「それが神様ってわけ?」
 「まあ、そういうことです。でも、そういうものは、神だけとは限りません。たとえば様々な霊的存在なんかもあるわけです。そして、その在り方も、いたって具体的に人格化されたものから、抽象的で超越的な性格を与えられたものまであるというわけです。
 しかもその在り方は、どのようなものであれ常にヒトビトの要請によって決定されるわけで、いつも初めにあるのは人間の想像力というわけです」
 「そんな神様に救済力があるなんて、どうしたって納得できないなあ…」
 「だから、言ってるじゃないですか、そもそもの愛は自分の内にしかないのですから、神の救済力を発動させるのも自分次第ってことです。それゆえにこそ、信じ切れる者は幸いなのです。信じてしまえば、ことごとくの問題は解決されたことになるのですから、<信ずる>ことは、一切の自己否定的な反省力を棚上げにすることなのです」
 「それ、どういうこと?」
 「<信ずる者>は、そのときどのような傲慢さと脆弱さを背負っていようとも、信じてしまった段階で、その人なりの一切の不都合が神の祝福によって許されてしまうというわけです。
 この無差別な広大無辺の救済力には感動を禁じえないのですが、その半面、信心が、どこまでいっても自己愛の傲慢さを助長させるだけになってしまうという危険も孕んでいるわけです。言い換えるならば、独善的な排他性への道に陥ってしまう心配があるということです」
 「だからこそ、神は、超越的に先験的に存在せにゃならんのじゃ」
 「いや、私は、むしろ、この反省に立ってこそ、神の超越性とか絶対性、あるいは先験性なんていう概念を賦与したと考えるのです」
 「すると、なに、行者さんのいう神様って、人間とともに成長するってこと?」
 「そうです。と、同時に、人間とともに堕落もするということです。その意味においては、いつもヒトビトの自愛的欲望というものに対して<肯定的な反省力>になっているというわけです」
 「その肯定的な反省力っていうのが、さっき言った一切の不都合を容認するってやつでしょ?」
 「そういうことです」
 「すると、それって、運命みたいなもんと関係あるの?」
 「そう、この肯定的な反省力が硬直化していけば、当然、神の決定論へと横滑りするわけです。この神の決定論で支配されては、いかようにも運命転換など為しえないわけですから、ここでは運命、つまり回避しえぬ苦悩とは、自身の欲望とそこそこの折り合いをつけて和解するしか救済の道がないのです。
 その意味において、ここでいう自己救済とは、禁欲的な生活の中で神の祝福を待ち続けることでしかないないのですから、結局、神の決定論を前提にした宗教において救済を考えるならば、神と人間の関係においても、あるいは人間どうしの関係においても、<施しと奉仕>に支えられた他者救済が初めでなければならないというわけです」
 「ということは、キリスト教が他者救済で、行者さんの仏教が自己救済ってことになるの?」
 「それだけってことはないですが、そういう傾向が強いということは言えるかも知れません。それは、すべてを<信じて>肯定したところで<世界>から<私>について語っていこうという立場と、いま在るものが<とりあえず>の姿にすぎないと<見定め>て<私>から<世界>を語っていこうという立場の違いとも言えるわけです。
 ここでちょっと飛躍するならば、何はともあれ闇雲に<信じて>から何事かを語っていこうというキリスト教的世界観では、神のみならず自身について不在を語ることがタブーである以上、十全たる存在論を語ることができない。
 それに対して、ことごとくの臆断を排してとにかくは<見定める>ことから始めようという仏教は、存在論については厳密なる反省を要請しうる風通しの良さがあると言えるわけです。
 つまり、ここで私が言いたいことは、芸術であれ宗教であれ神の存在を前提にした世界観においては、ことごとくの知見が認識論に留どまってしまうため、認識論の因って立つ存在論の地平にまでは反省の目が届かないという傾向があるということです。
 それに対して私の場合、芸術論は常に認識論と存在論がリンクされていて苦悩を掘り起こしてしまったために、苦悩救済を志向することは、これを一度宗教的な認識論で総括し、改めて宗教的な存在論で検証する必要があったのです。
 つまり、これが私の懴悔であったわけで、その意味から言えば、より厳密な反省的知見を獲得したいと望むならば、何はともあれ認識論が存在論の地平で問い直されなければならないということなのです」
 「認識論を存在論で問い直すってことが、そんなに重要なの?」
 「ううっ、うん。つまりね、これが、ただの机上の知見にすぎなくて、言葉で理解できる単なる発想の転換という程度のことなら、ま、どうと言うこともないけれど、表現者の生き方に関わる芸術とか宗教の問題になってしまうと、単なる発想の転換もそう奇麗事では済まされないというわけです。
 ですから、単に言葉の使い方の問題にすぎないなんて思っていると、場合によっては、利害が絡んで引くに引けなくなってしまった主義主張同士が、自らの利権のために命懸けで戦う権力闘争にまで発展しかねないなんてこともあるわけです」
 「ふうん。でもリストさんみたいに、大した問題にもならないってことだってあるわけでしょ?」
 「それって、ひょっとすると、リストさんの場合、行者さんの言う存在論っていうのが無いってことなの?」
 「うおっほん。あんたら、今さらわしを非難するような目付きじゃが、それはお門違いというもんじゃよ。ええかな、わしらの世界観においては、そもそも神の不在を説き明かすような存在論など、いかようにも存在する余地がなかったいうことなんじゃ。
 したがってじゃな、宗教者リストは大いに人間的なる苦悩に満ちた芸術家でありつつ、芸術家リストはといえば、大いなる神に祝福された宗教者というわけじゃ。あるいは、こう言うてもええな。芸術家リストは大いなる苦悩に満ちとるがゆえに宗教者でありつつ、宗教者リストは大いなる神の祝福を得んがために芸術家たりうるいうわけじゃ」
 リスト老人は、彼について何事かを語ろうというありとあらゆるヒトビトに対して、すでに永劫の魂あるいは情熱といいうる物語的生命を獲得して久しいが、それゆえに自らはどうしても語り起こせぬ何事かを、平安の中で抱えてこその沈黙者でなければならない後ろめたさとして引きずっているはずで、しかもそんな憂欝など脳天気なヒトビトの追体験などではとうてい払拭できるものではないとしても、それが言葉では語れぬ憂欝ゆえにその存在理由についてまでは、彼自身がどこまで自覚的であるのか私の知るところではないけれど、彼に物語的動機を与えた私にしてみれば、彼の沈黙が語られない約束によってどこまで作者たる私の存在理由を保証してくれるのか知る由もないというわけで、どうやらこの物語が辛うじて語り継がれていくであろうと思われるぎりぎりのところでは、リスト老人もなんとか物語的人格たりうるのだから、行者が要請する不当なる懴悔をのらりくらりと回避しおおせているしたたかさから推測しても、この憂欝こそが、リスト老人を充実させてしかも私の祝福に浴させるのに十分な苦悩になっているというわけなのだ。
 ところで行者にしてみれば、そんなリスト老人の憂欝など芸術を懴悔しうる仏教によってすでにお見通しというところであろうから、彼なりの策略が繰り広げられるのも時間の問題というわけで、私としても、いつまでもリスト老人の善意ばかりを当てにしてのほほんとしているわけにもいかないのだ。
 何はともあれ、ここでは再び『孤独のなかの神の祝福』に仮託して、沈黙者ゆえに開示しうる広大無辺なる神の言葉があることを、リスト老人によって語ってもらわなければならない。
 「おお、そうじゃ。そういえば、先ほどはラマルティーヌの言葉を全部読まんうちに話題がそれてしもうたが、どうじゃ、この辺りで残りの部分をお聞かせしたいと思うが…。
 とくにあんたらは、わしの『孤独のなかの神の祝福』を知らんのじゃから、よく聞いといて欲しいもんじゃな…」
 「ねえ、なに探してんの? なんなら、そのドーナッツの箱、持っててあげるわよ…」
 「んん、ほな、ちょっと頼んますよ…」
 「あれ、あと二つしかないじゃないの!! へえ、よく食べたわねえ…」
 「ありゃりゃ、あんた、さっきのメモを知らんか? わしゃ、どこへ入れてしまったんじゃろうか…。それとも、あんたら持っとらんか?」
 「リストさん、先ほどは、確か、小さな聖書の間に挟んでしまわれたようでしたよ…」
 「ほうで、そうじゃったかな…。んん? おお、あった、あった。これじゃ、これじゃ。ええっと、ええかな、よく聞いとってくださいよ。
 ���われを包むこの平安は、神よ、いずこより来たりしや? わが心に溢れるこの信仰は、いずこより来たりしや? つい先ほど不安にいら立ち、風のままに揺れる懐疑の波のように、知恵の夢の中に善と真実を求め、嵐のごとき心の中に、平安を求めてありしわれの上に! わが前を幾日も過ぎ行かざるに、一世紀、いな、一つの世界の過ぎ去りしごとく覚ゆ、しかして、彼らとは、深き淵を隔てて離れ、われの中に、新しき人間の生まれ、新たに歩み出すごときを覚ゆ���」
 「ふうん、それだけ? だったら、べつにどうってことないんじゃない。だいいち、それって、詩なの?」
 「ありゃりゃ、こりゃ駄目じゃ。あんたらには、神の祝福いうのんが、分からんのかいな…」
 「まあ、リストさん、失礼ながら、その程度のお粗末な訳では、致し方ないんじゃないですか…。ただ私は、すでにリストさんの素晴らしいお仕事を聴いて知ってますから、いま語られた言葉の奥が見えるように思えますが…。でも、残念ながら、その訳では、詩というほどには言葉が想像力を刺激しないというわけです」
 「ほうで、そりゃ残念じゃな…。そうすると、やはりピアノが欲しいところじゃが…」
 「だからこそ、あたしたちは、いまピアノバーへ行こうってわけじゃない、でしょ?」
 「ああ、そうじゃったな。そうじゃそうじゃ、わしゃ、すっかり忘れとったよ。ほんで、どうなんじゃ、上野はまだかいな…」
 「うん、それが、相変わらずへんなのよねえ…」
 「なんだか、こうやって歩いていても、永遠に辿り着けないみたい…」
 「んん? 辿り着けない…、そう!! ずっと辿り着けない問題があった…」
 「なっ、何よ、行者さん!? 急に大きな声出したりして…」
 「辿り着けない問題って何? それ、答えが分からないってことじゃなくて、まだ問題も与えられていないってこと?」
 「んん? ああ、失礼。ちょっと記憶の回路が混乱してしまって…。ええっと、いま何が言いましたか?」
 「うっ、うん。そういえば、なんかちょっとへんよ。大丈夫?」
 「ああ、大丈夫です。それで何でしたっけ?」
 「うん、その辿り着けない問題って何かなと思って…」
 「はい、実は、記憶の中のことなんです。その<辿り着けない問題>というのがキーワードなんです。どうしたんでしょうか、この言葉がキーワードになっていて突然開かれた記憶の扉があったのです」
 「それ、どういうこと? 辿り着けないまま忘れられていた問題ってこと? それとも問題が与えられていたことを忘れていたってこと?」
 「ちょっと待ってください。すでに問題は与えられているのです。ただ、記憶のどこを探してもその答えが見当たらないんですよ」
 「じゃ、まだ未解決の問題ってことじゃない…」
 「いやいや、そうじゃない。それなりの回答は、すでに与えられている。そうなんです。ところが、それが、どうも違うんですよ。どうやら、その与えられていた問題がなんであったか、それが思い出せないんです」
 「なによ、問題なの? 解答なの? それじゃいったい、何を思い出したっていうの?」
 「ええ、ちょっと待っくだい。とにかく、言葉なんです。なんだか、よく分からないんですが、言葉がここまで込み上げてくるんですが、それが胸につかえていて、なかなか出てこないんですよ。
 うっ、ううう…。
 とっ、とにかく、それは二年前の霧雨に煙る六月の朝なのです。敗北、悔恨、まだ救われてはいないのです。苦悩者が初夏の濡れて萌え立つ谷中の森に、三〇年来の屈辱で凝結させた熱い思いを対峙させるのです。
 夜明けにひとしきり鳴いた鳥も静まって、かつて武満 徹の『弦楽のためのレクイエム』でアンビバレンツな青年の感性に同時に定位した無限凝縮と無限拡散が、またしても静寂な時空間を軋ませるのです」
 どうやら行者は、どこへいくのか検討もつかぬ記憶の中へと埋没していく気配なのだ。
 「空間の軋み…、その軋みが、さらに七年余りもの記憶を退行させるのです。
 …私の逃げられない敗北は、ぬくぬくと生きてしまう自分と生きられない自分の間で涙するのです。生きがたき情熱を湿らせたままでも生き延びてしまう屈辱が不安と恐れの前で流す涙は、果たせぬ情熱を言葉だけに置き換えて虚勢する裏切りの肉感といわざるをえない…。
 いまさら敗北のために、敗北を作品として提示せざるをえない表現者は、誰のために涙して救われるというのでしょうか。
 すでに、ことごとくを屈辱と悔恨で塗り潰した作品が、もはや作品たりえぬ敗北の現前で、無残な野垂れ死にを演技としてさえ死ねるほどにも煮詰まらせぬままに、あるいは、進めない戻れない踏み留どまれない命が、進まない戻らない踏み留どまらない命のまま生き延びてしまうときに、女々しく溢れ出る涙で、逃げられない私は誰のために泣けばいいのでしょうか。
 せめて、自分の屈辱のために泣ける敗北者なら、解答のない問いを起ててすねて生き延びるのもいいかもしれないが、逃げられない問いを、回答の分かった問いを、問わずに済ませる涙など、誰のためにも泣けない自己愛の惨めさだと知っているのですから…。
 ああ…、私の涙は、まだ敗北のために泣くことが出来ないけれど、あなたの涙は、自分の哀しみのために泣いていますか…
 そんな涙が、泣けないまま凝結していた涙が、永劫の一時にすぎない静寂の軋みを切り裂く『孤独のなかの神の祝福』によって溶解し、無言のまま野ざらしにしていたことごとくの敗北のために、問わずに済ませた解答のために、とめどなく萌え上がる哀惜のために泣いたのです…」
 「行者さん、急にどうしたの!? まるで吟遊詩人って感じよ、凄いじゃん!!」
 「でも、それって、ええっと、さっき行者さんが言ってた、なんだっけ、あれ、あれじゃない!!」
 「ええっと、<いまを芸術論で生き抜く>っていう問題で、芸術論っていう反省力を判断中止にしていたってことでしょ?」
 「はい。確かにその問題なんですが…」
 「ですがって、まだ何かあるの? いま、つかえていた言葉を語れたことで、辿り着けなかった問題には、辿り着いたわけでしょ?」
 「いや、どうも、まだ語られていない問題がありそうなんです」
 「何、それ?」
 「それが分からないんです…」
 「じゃ、いま行者さんが、顔色変えてまで語っていたことって、何んだったの?」
 「それが、実は<辿り着けない問題>というキーワードで突然開かれた記憶ってわけですよ」
 「ふうん…。じゃ、この中にまだ語られていない問題があるってわけね」
 「多分、そういうことになります」
 「あんたら、何をごちゃごちゃ言うとるんじゃ…。記憶の中で語らずに済ましとることを、いちいち引っ掻き回して、問題じゃ、なんじゃ言うたかて、しょうがないじゃろうが。どれもこれも、みな過ぎとることなんじゃから…」
 「確かに、おっしゃる通りなんですが…、ただ私の場合、これを反省の無限退行と言いうる自己探究の一つの方法論にしているもんですから…。
 現に、私にとってのリストさんの存在というのも、この辿り着けない問題あってこそのことなんです」
 「むむ、ま、あんたらにとっては、そうかも知らんが、音楽を愛し、神を愛し、あまねく愛によって結ばれたヒトビトによって、わしらに与えられとる永劫の情熱いうなんは、過去の記憶ばかり引っ掻き回しとったって、得られるもんじゃなかろうが…。
 そうじゃろう、明日を生きようとする活力がなかったら、永劫の情熱などなんの意味もないんじゃからな…」
 「はい。まったくリストさんの言われる通りですが、リストさんの言われる永劫の情熱に当たるものが、私の場合は<表現行為>という概念になるんです。そして、いま問題になっている反省の無限退行というのは<表現経験>という概念に当たるわけです。
 さらに操作概念として言えば、<自己探究>というのが<表現経験>に当たり、<人格形成>というのが<表現行為>に対応するわけです。
 もっとも、それはあくまでも操作概念としてのことですから、実際には、表現経験であるはずの自己探究も表現行為としてしか為されないし、表現行為であるはずの人格形成も表現経験という検証手段なくしては為しえないというわけです」
 「行者さん、その操作概念なんて、どうでもいいのよ。それよりいったい何が言いたいの?」
 「ああ、そうですか、それは失礼。それにしても、そういう言い方をされると、どれほどのことでもないので、気後れしてしまうのですが、結局は、懴悔の検証という程度のことなんです」
 「なんだ、だったら、その懴悔の検証っていうのが、辿り着けない問題ってことじゃないの?」
 「ですが、それではなんの解決にもなっていません。問題は、その検証の方法論なんですから…」
 「ふうん…」
 「でも、行者さん、それって、記憶の中を辿って行ったからって、見付かるもんでもないんじゃないですか?」
 「ふむ、多分そうでしょう…」
 「それ、どうしても、いま見付けなきゃいけないもんなの?」
 「そっ、そう言われても困るんですが、ただ、私としては、ここまで私たちの物語を語ってきてしまった以上、それは、当然の成り行きだと思っていたんですが…」
 「ふうん。だったら、どうしたらいいの?」
 「そう、詰め寄らないでくださいよ。正に、どうしたらいいのかが問題なんですから」

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 「なんの手掛かりもないの?」
 「いや、とりあえずの回答は、すでに分かっているのです」
 「解答が分かってるの?」
 「行者さん、さっきから、何をごちゃごちゃ言ってるのよ…。解答が分かってるんなら、なにも悩むことないでしょう」
 「そうなんですが、残念ながら、回答というのが、実は答えにはなっていないということなんです。つまり、単に抽象的な概念にすぎないということです。そんなわけで、そのとりあえずの回答というのは、たぶん<感動>ということなんです。
 ああっ、そんな顔をしないで、ちょっと聞いてください。この回答が<たぶん>でしかないのは、問題がそもそも辿り着けないところにあるということ、そして、感動という言葉が、感動という体験をなにも語っていないということなんです。
 つまり、懴悔を検証しうるような感動を、いかにして実現しうるかということ、それが問題なんです。言い換えるならば、あの記憶の中には、芸術を懴悔しうるほどの感動があるはずなのに、いま、それを追体験、あるいは再現、さらには新たなる事件として企てようとしたときに、その感動を保証する方法論が見当たらないということなんです」
 「それって、何? ひょっとすると、行者さんの、なんていうのかしら、その、宗教的な方法論っていうことなの?」
 「さて、どうなんでしょうか。確かに懴悔そのものは、宗教的感動といえるはずなんですが、いま探っている方法論は、ひょっとすると芸術的感動であるかもしれないし、いまだ意味付けされていない単なる感動でしかないのかもしれません」
 「なんだか、ここまで来たら、行者さんの言ってることまで、要領を得なくなっちゃったわね。いったい、どうなっちゃってんのかしら…」
 「ねえ、行者さん、あたしたち、あんまり物語に関係ないことばかり話してたってことじゃないのかしら? それで、あの作者の奴が、懲らしめてやろうなんてんで、こんなところへ、迷い込ませたんじゃないのかしら…」
 「いや、そんなことはありません。その考え方のほうが危険ですよ。
 いいですか、いつまで歩いても上野に辿り着けないこの場所というのは、実は、私たちの主体的な行動に対して、作者が、どう対処したらいいか分からなくて迷っているからこそ拓かれているってことなんですよ。ですから、ここが正念場というわけです。
 とにかく、私たちは、ここを主体的に語り続けて凌がなければならないのです。正に、私たちの力量が問われているのですよ。いいですか、もしも、ここで私たちが挫折してしまったら、それこそ作者の思う壷ってわけですよ」
 「でも、なに話したらいいの? だいいち、あたしたちに、その感動の方法論なんて、思い付かないもん…」
 「ちょっと待ってください…、まったく手掛かりがないわけじゃないのです。
 たぶん、これだと思うのですが…、ちょっと聞いてください。
 先ほど記憶の中に紛れ込んだときに、記憶の中でさらにその奥にあったところの、あの『弦楽のためのレクィエム』が私の言葉を引きつけるような気がするもんですから…。あれは私の六〇年代を語るには素通りできない問題でした。
 私は当時の武満徹の仕事をことごとく<音>体験として遭遇していたわけですから、彼にとっては初期の古典的な手法によるこの作品も、私にとっては新鮮な<音>の事件だったのです。そして、ここで生きられた超常的感覚というのが無限凝縮と無限拡散だったのです」
 「それが、手がかりになるの?」
 「ええ、記憶への無限退行が私の手法である以上、今その手がかりは、ここを辿るしかないんですよ。
 そこで、まずは同時成立の凝縮と拡散を包括する<無限>こそが手がかりになると思えるんですが…。
 そうですねえ、やはりこれでいくしかないと思うんだけど…。
 うむ、そうか…、無限とは、そもそも果てがなくて終着まで辿り着けないということですよね。そうか、いいですか、凝縮と拡散が、そのどちらの結末にも辿り着けないまま、いまここで、それが同時進行中であるということなんですよ。確かに凝縮し続けているはずなのに凝縮し切らない。それと同時に、確かに拡散し続けているはずなのに拡散し切らない。
 それは、凝縮と拡散という相反する感覚が、辿り着けない無限という感覚によって方向性を失い、言うならば言葉そのものの意味さえ空しくしてしまって、いまここで同時に体験できるものとして拓かれるのです」
 「それ、どういうこと? 凝縮と拡散っていう矛盾を同時に体験することが感動ってことになるの?」
 「むむ…、そうかもしれませんね。あるいは、感動ってことが矛盾を包括することなのかも知れません。いずれにしても辿り着けないってことが、矛盾を包括する根拠といえるわけですから、その意味でいうなら、辿り着けないってことが、そもそも感動なのかもしれません。
 無限の現前で、いや、無限の真っ只中に取り残されたものの驚き、不安、恐怖、そんなものが感動の要因なのかもしれませんね」
 「だったら、いつまでも上野に辿り着けないあたしたちには、感動の条件が備わっているってことよ」
 「でも、辿り着けないことに、特別の驚きってないみたい。多少の不安とか苛立ちってことはあっても、恐怖するほどじゃないし…」
 「そうなのです。問題は、そこなんです。
 つまり、いまここにいることが、どれほど恐怖するに値するほどの無限の真っ只中であるかを見定めなくてはならないというわけです」
 「だけど、こんななんの変てつもない街に、恐怖するほどの驚きなんかあると思う? 恐怖するほどの無限なんて…」
 「ちょっと、ちょっと静かに…。どうやら見えてきました。
 ええっと、ここは外神田末広町の交差点のようですねえ。ご覧なさい。私たちの向かっているこの中央通りは、まぎれもなく上野広小路へと続いています。それは永劫に交わることのない二本の街灯の流れに導かれた遠近法の空間として、たぶん私たちが到達可能であるはずの近未来から無限へと拓かれつつも、永劫に集結しない街灯の流れで凝縮し続ける空間なのです。
 どうです!? 私たちは、ここで、永劫に先送りされて凝縮し続ける未来あるいは目的を、それに向かって進むことで、確実に現実へと拡散させつつ取り込んで生き続けているのです。それは同時に、ここから秋葉原に向かって振り向けば、遠ざかりつつ凝縮する空間が辿り切れない未生以前の過去にまで続いていて、しかし反省と追憶で蘇る空間は、とめどない想像と創造力で立ち現れ現在へと拡散しつづけるというわけです。
 つまり、ここでは<凝縮というのが幻想>であり、<拡散というのが体得可能な現実>ということになります。
 それは正に、未来という幻想へと凝縮しつづける空間を可能性の中で現実へと拡散しつつ実現し、過去に向かって凝縮しつづける事実を反省と追憶という幻想で拡散して蘇らせるというわけで、どちらを向いても辿り着けない無限の真っ只中で、幻想と現実に無残にも引き千切られながら、なおかつここより外には居るところのない苦悩者を位置付けることになるのです」
 「でも…、それがどれほどの驚きだっていうの?」
 「そんなに、肩に力を入れて感性の扉を閉ざしてはいけません。
 ほら、ご覧なさい。前を向いても後ろを向いても続く二本の街灯の流れは、明晰すぎるほどの透明な闇に吸い込まれ、そのまま冬の夜空に解き放されて、広大無辺の宇宙になっているではありませんか!! 
 つまり、私たちは、この中央通りに拓かれた<凝縮=幻想>と<拡散=現実>の矛盾関係をさらに反転し、いまここより無限の宇宙に向かい、日々想いつつ思い念うことのしがらみを<幻想でしかないものとして拡散させ>つつ、妄想にとらわれない<現実へと凝縮する>私を位置づけて、さらに永劫の宇宙からは、ことごとくが未知であるが故に神秘的な平安を求めてやまない儚い想いと思いと念いを、いまここに留どまることのない私を引き受ける<現実として凝縮>しつつ、結局はすべてが未知であるために<幻想でしかないものへと拡散>しうる止めどない愛を、永劫の平安である宇宙的眩暈の中に投げ出すのです」
 「ふうん、だけど、なんて言うのかなあ…、そういうのって、語り始めたら取り留めがないって言うのか、どうにでも言いようがあるっていうのか…」
 「そうなんです。なかなか鋭いですねえ。正におっしゃる通りなんです。
 つまり、これは二項対立概念の組み替え遊びのようなものですから、語れば語るほど言葉が言葉を引っ張り出してきて、いくら語っても語り切れるということがないのです。皆さんは、モビールをご存じでしょう?」
 「モビールって、あの、大袈裟なやじろべえでしょ」
 「ハハハ、確かに、その通りです。均衡が保たれるならば、いくら細分化していってもいいってわけです。そして、気ままな風を受けて自在に動くのです。つまり、二項対立概念で語り続けるということは、モビール的発想というわけです。
 そこで、いま重要なことは、凝縮と拡散も、過去と未来も、幻想と現実も、宇宙と人間も、それぞれ言葉というモビールの小片にすぎなくて、どこまで語っても辿り着ける解答のない<無限という戯れ>だというわけです。
 そして、いま、私たちが体得しなければならないものが、この<無限という戯れ>だということなんです」
 「じゃ、なに、その<無限の戯れ>っていうのが<感動>を保証してくれるってわけ?」
 「多分そうです。いや、そうでなければ納得がいきません。だからこそ、私たちは、あえて言葉のモビールを組み立てておかなければならないのです」
 そんな行者の言葉が<かたぶとりの太モモ>たちにとっては、納得の根拠を確認するまでもなくそのまま揺るがしがたいものに思えたけれど、それがいまだ言葉にしえぬ行者の抑圧されたマゾヒスティックな表現欲求に起因する闇雲な霊的説得力だとすれば、折しも在り来りの自己不信で閉ざされた街をとめどない瞑想空間へと吹き抜ける一陣の風は、そんな抑圧された欲求こそを見付け出しては舞い上げて、もはや霊性ぬきには語れない物語を瞑想の眩暈へと誘い、芸術も懴悔させずには済ませない行者の否定的な自己顕示欲を煽り、正に抑圧の反動的所産にすぎないはずの、そしてどこから見ても不足のない自愛的な霊力のヒロイズムで武装した行者を出現させることになる。
 つまり、突如顔付きの変わった行者が半眼の眼差しをド近眼鏡の上にまで吊り上げて、胸元に当てた右手は有りもしない五股金剛杵をしっかと握り締め、不堅不横の構えを取って充実し、軽く肘を折った左手はむんずとばかり有るはずのない鈴を持ちながら、正に慢印抽擲のポーズを整えて、あたかも辿り着けぬ感動を見定めた<金剛薩タ身>に成り上がるのだ。
 それでも寒風にさらされたデコボコ頭から首筋にかけて、思わぬ繊細さで変態的中年男の肉感を波立たせ、どんなに振り切っても付いて回る倒錯的な快感を纏ったままで、ひたすら内向化を進める瞑想が不意に高鳴れば、唖然として見守る<かたぶとりの太モモ>とリスト老人さえ、まるで不本意ながら深く透明な闇を支配する無言の生命の躍動感に捕らわれて、胸が張り裂けるほどの荒々しい表現欲求に翻弄される思いなのだ。
 すでにこの外神田末広町界隈を取り込んだ躍動感がことごとくの空間に波及して、まるで宇宙的有機体の鼓動へと感応していると感じさせるときだった。
 彼らの頭上に、そう、末広町から上野の西郷さんまでもありそうな雄々しき巨大な鳥類の足が金色の鱗に飾られて出現し、その中空を大地のこどく踏み締めてそそり立ち、さらにその遥か上の崇高な闇の中に、豊饒なる宇宙的有機体の奇跡的なる肉化を確信させるものが、あまねく輝くものすべての品位の象徴たる銀色の羽根に包まれて脈打つのが感じられ、もはや神秘的なる感性だけが知りうる上空を目指して、その高貴にして豊満なる肉感がたおやかな曲線を描いて上り詰める上限に、確固たる信念を貫く毅然とした眼差しと、いかなる困難にも立ち向かいそれを撃ち破る鋭角的なくちばしで必然的に形作られる精悍な頭部が見え隠れして、すでに想像の領域にまで突き出たところには、ことごとくの論理的な帰結が矛盾の真っ只中で放置されてしまう不可知にして不可解なる幻想の不条理を、そのまま露呈する熟れた肉質の真っ赤な王冠が輝いているのだから、誰もその存在を疑うことのない神聖なるニワトリが荘厳にして尊大なる宇宙的生命として息づいている。
 <かたぶとりの太モモ>たちはと言えば、想像だにしないとんでもない事態に遭遇して唖然としたままの顔で言葉もない。リスト老人は老眼鏡を外す余裕もないままに、浮足立った感性でこの神秘的なる出来事を見守るばかりなのだ。
 「ああっ、ああ…、こっ、こりゃ、なんじゃろうか!? なんじゃろうか!?
 しっかし、すごいなあ…。わっ、わしゃ、こんなんは、生まれて初めてじゃ!!」
 荘厳なるニワトリはいささかの迷いもなく、その豊満なる神秘性をあたかも超常的空間へと突き上げるかのような律々しい躍動感で確かなる歩みを進めるが、それでいて、なぜか、この外神田末広町の精神世界からは一向に消滅する気配がないのだから、<かたぶとりの太モモ>たちとリスト老人の昂揚した表現欲求の霊的なまでの躍動感があるかぎり、中央通りの瞑想的空間はさらに明晰なる視界を保証して神聖なる真実を開示しつづけるかのようであった。
 「なによ!? なによ!? いったいなんなの!? なんでニワトリなのよ!?」
 「ニッ、ニワトリよ!! ニワトリよ!? こんなのあるの!?」
 「どうして!? 信じられない…。信じられない!! ウッソォミターイッ!!」
 「ウッソォミターイッ!!」
 「こりゃ、すごいもんじゃなあ…。しかし、この辺りじゃ、すっごいもんが出るんじゃなあ…」
 <かたぶとりの太モモ>がニワトリに釘づけになった眼差しはそのままで、相変わらずの瞑想的ポーズの行者を揺さぶった。
 「ねえ、ねえ、行者さんってば、これ、いったいどうなってんのよ?」
 「ひょっとして、このニワトリまで、あたしたちの想像力だなんて、言うつもりじゃないんでしょ?」
 「ヤッダァ、誰が、こんな気持ち悪いもんなんか想像するっていうのよ?」
 そのとき、行者が瞑想的空間から弾かれて我に帰った。
 するとどうしたことか、引き上げられたニワトリの右足が瞑想的空間を踏み締めることもなく、わずかの緊張感をたたえて中空に留どまり荘厳なる歩みが停止した。
 「あれえ、止まった!?」
 「ああっ、まずい!!」
 行者が顔面蒼白になって掠れた言葉を詰まらせた。
 「どうしたの?」
 行者ひとりが切羽詰まって動転し、声にならない上ずった言葉が擦り切れたままで吐き出された。
 「ニッ…、ニイッ、ニワトリが…、そっ、そっ…、想像っ、そっ想像力を、超えてしまったゾ!!」
 しかし、ニワトリに見とれている<かたぶとりの太モモ>たちは、そんな行者の様子をたいして気に止めず、むしろ静寂のなかでニワトリの緊張感が次第に解消されていく気配に気を許し、なぜか中途半端に下ろされた右足が、いまだ瞑想的空間をしっかりと踏み締めかねているささやかなる迷いを見守っていた。
 すると、明晰なる闇の瞑想的空間にピクリとした一瞬の緊張感が走り、<かたぶとりの太モモ>たちの昂揚した表現欲求さえ凍結させてしまう衝撃的なまでの殺気が漂って、再び、そして静かにニワトリの右足が蹴り上げられた。
 と、同時だった。頭上に一切の脳天気を糾弾して余りあるとてつもなく冷徹な眼力を感じて、不意に<かたぶとりの太モモ>が見上げたときだった。
 いかなる猶予も許さぬ決然とした殺気がことごとくの曖昧なる情念を切り拓き、巨大にして鋭角的な岩石が落下して末広町の大地に激突するかと思われたその瞬間、すべての予測が脱落して時が止まり突如岩石が二つに裂けて<好奇心の太モモ>を挟み込んだ。そこで一気に時が逆転し<太モモ>を挟んだ岩石が猛然と上昇を始め、切り裂かれた情念が無傷で回復するのが見えた。
 「キャアーッ!!」
 彼女の叫び声は一瞬にして闇の中に消えてしまった。
 そして、広がった瞳孔が闇の一点に吸い込まれた<期待の太モモ>が、行者に救いをもとめる余裕もなくわずかに腰を引いたそのときに、二つに裂けた岩石が巨大な口ばしだと気付いたそれが再来し、狙いすました<太モモ>を加え上げ、悲鳴も届かぬ早業ですべてが闇の中に消滅してしまった。
 リスト老人は、すでに腰を抜かして舗道にあり、行者は動転した瞑想空間にせめてもの瞑想的理性を回復せんと思い立ち、胸がはちきれるばかりに込みあげる不安と焦燥を束ねて飲み下し、静かな一呼吸をおいて深く長い息を吐き出した。
 そんな行者の焦りなど尊大なるニワトリにどれほどの陰りを残すはずもなく、もはや宇宙的神秘を身に纏うニワトリが再び悠然たる歩みを進めるのだった。しかも今度は、この外神田末広町の瞑想空間を軋ませて、ほんの僅かずつ、しかし確実に遠ざかり始めたのだ。
 行者は、素早い連続技で印契を結び、自らの想像力と乖離してしまった瞑想空間を執拗なまでの想念で手繰り寄せ、透明なる宇宙の闇に向かい消滅しようとするニワトリをこの瞑想空間に留どめるために、明晰なる虚空に茫漠として漂う自己愛を凝結させて結界し、なんとか想像の届かぬ世界へと飲み込まれる瀬戸際までを確保した。
 しかし、尊大なるニワトリは一向に歩みを止める気配もなく弛緩した末広町界隈の瞑想空間を徘徊し、次第に遠ざかることでようやくその威厳のある姿の全容を見せるようになり、どうやら遥か彼方の頭上を飾るトサカが真っ赤に輝いて、巨大な口ばしが何か動く小さなものを二つくわえている様子をうかがわせるけれど、すでにそれも想像の領域へと姿を隠し、せめてもの救済を暗示するだけのことなのだ。
 行者は新たなる想像力を手繰り寄せ、万に一つの可能性が成就するありとあらゆる精霊たちの加護を受け、さらに邪鬼怨霊の類いを退散せしめる<光明真言>を念じつつ、自らの荘厳さを誇示してはばからないニワトリが、その高慢さで振り返る冷徹なる眼光を目掛けて<九字>を切る。
 「オンマリシエイソワカ、オンマリシエイソワカ、ア、ウン。
 臨(リン)、兵(ピョウ)、闘(トウ)、者(シャ)、皆(カイ)、陳(チン)、列(レツ)、在(ザイ)、前(ゼン)、エイッ!!」
 すると行者の現前で弛緩していた瞑想空間が歪んだままで四角く切り裂かれ、そのままニワトリの冷徹にして巨大なる眼光に吸い込まれていった。
 行者は<九字>を切った拳印で残身を構え微動だにしなかった。それは、行者に確かな手ごたえを確信させるものだったのだ。
 見れば、行者の<九字>を振り切るかのように首を返したニワトリが、それでも末広町界隈を徘徊するあの確かな歩調を再開しようとしたときに、なぜか二人の<かたぶとりの太モモ>をくわえたままの冷徹なる眼差しを、恨みがましくひそめて虚ろに流したが、それもほんの一時で次の瞬間、あの豊満な胸から雄々しき足にかけての銀色の羽根に波打つほどの痙攣が走り、さらに全身が神経症的に萎縮して硬直を進めれば、行者が凝結させた自己愛でかろうじて結界されてこそ維持しえた瞑想空間が、その弛緩した核心を行者自らの<九字>で切り取られて崩壊を始め、いまだ上野には辿り着けない曖昧な物語世界の真っ只中へと流れ込んでくる。
 もはや瞑想的存立があやぶまれる荘厳なるニワトリは、引きつった右足で二度三度激しく虚空を掻いて無念を叫び、そのままバランスを失って傾き始め、いよいよ壮大なる宇宙的身体を支え切れなくなった左足が、これで最後とばかり瞑想空間を空しく切り裂けば、荘厳なるニワトリを支えた瞑想空間の最後の地平が足元から瓦解して、物語世界のいまだ抽象的な御徒町界隈に荘厳なものの一切がもんどりうって倒れ込む。
 それは、すでに底の抜けた瞑想空間が霊性と想像力を失って崩壊し、無残な創造力の残骸を物語世界に晒け出すようなものだけど、そのときニワトリは哀惜の瞑想空間から宇宙へと貫く断末摩の叫びを上げて、いま正に消滅せんとする瞑想空間目掛け<かたぶとりの太モモ>を投げ込んだ。
 たぶん、それが最後の無念であったであろうニワトリは、それでもせっかくの獲物をむざむざと取り返される屈辱だけは免れて、もはや、はかない命の記憶をまさぐるように逆さになった荘厳でただ虚ろな虚空を掻きむしるだけのことだから、たとえ悲しみで、思い余って凍てついた夜空の星を蹴散らしたとしても、それはことごとくの宇宙的生命が躍動感を失って愛を解き、再び宇宙へと霧散して神々しいばかりの星屑になる自らの運命を暗示している程度のことにすぎなくて、気がつけば壮絶なまでの羞恥心を纏ったままで物語世界へと倒れ込んでしまった屈辱だけが、失う自己愛に見合った哀しさで空しい銀色の羽根を舞い上げて、上野、本郷、千駄木や、お茶の水、水道橋、飯田橋は言うまでもなく、さらには蔵前、浅草、千束までは当たり前に降り注ぎ、風が巡れば鴬谷、谷中、日暮里、三河島へと、さらには南千住、北千住までも広がって、時には西新井、赤羽、王子までも降り注ぐ荘厳の祝福は誰が見ても神秘的景観ではあるけれど、それとて荘厳なるニワトリの思い出が、まるで酷寒の夜空に舞う霊性の粉雪になりいくら降っても積もらぬ空しさで語られるだけのことだから、自分の冥想を己の想像力で瓦解させる悔しさ抱えた行者のみならず、まったく気楽な傍観者たるわれわれも消え去るものへの哀惜を惜しむこともなく、とめどなく物語世界へと降り掛かる幻想の輝きを見守ることだけで、思わぬ醜態を晒したニワトリの語り尽くせぬ無念には、そこそこの決着がつくということなのだ。
 ニワトリの無念もさることながら、物語世界にまで及んで乱舞する荘厳にして哀しい輝きが、そのまま凍てついた夜空に解消されてしまえば、底が抜けて流れ込んだ瞑想空間さえ物語の中に埋没してしまうのだから、たとえそれが、どんなにとんでもない感動であったとしても、またたくまに誰かのささやかなる記憶として整理され、もはや<誰かの物語>としてしか語り起こされることのない闇の中に遠ざかり、行者ひとりの瞑想ではもはや容易に辿り着けそうにない沈黙の中で朽ち果ててしまうのだ。
 リスト老人はあの躍動感を唐突に虚勢され、まるでツキモノが落ちたかのような無垢の自己愛のまま路上に放り出され、行者は瞑想空間の崩壊による自己喪失を感動という名によって回復しようと企てるが、いまだどれほどの言葉にも辿り着けぬまま取り残されて、外神田末広町は上野には辿り着けない物語の真っ只中で吹きっ晒しの闇にあり、いま語り継がれなければならない物語が、忽然と消滅してしまった二人の<かたぶとりの太モモ>の不在によって、リスト老人と行者に<ニワトリがかたぶとりの太モモをくわえて転ぶのを見た>という神秘的幻想を語らせる感動をささやかに保証しているだけなのだ。
 「ありゃりゃ、箱が逆さまになって、おっこっとるじゃないか…。
 んん、ドーナッツを駄目にしたらどうするつもりなんじゃ。おお、大丈夫じゃ、大丈夫じゃ。
 しかし、親切そうに、持っとってくれる言うたのに、あの娘ら、ドーナッツほったらかしにしおって、どこへ行きよったんじゃろうか? なあ、あんた知らんのか?」
 「んん?」
 「ほれ、なにをぼんやりしとるんじゃ。ちょっと、手を貸してくれんか?」
 「はあ…」
 「ほれ、なにをしとるんじゃ!?」
 「ああっ、はい。これは失礼しました。どうですか? リストさん、お怪我はありませんか…。
 どうぞ、ここへ掴まってください。いいですか、それっ!」
 「いやあ、どうもどうも…。
 実は、わしも、いつ倒れたんだか、気が付かなかったんじゃよ。なんじゃか、腰が抜けたようになって、ヘナヘナッとしてしもうたら、どうも、その後が分からんのじゃ…」
 「そうですか、でもお怪我がなければ…」
 「ああ、大丈夫じゃ。それより、あの娘らは、どこへ行ってしもうたんじゃろうか?」
 「リストさん、まったく覚えてはいらっしゃらいのですか?」
 「ん? なにがあったんじゃ?」
 「そうですか…。実は、とんでもないことになりました。リストさん、いまわれわれの瞑想空間に巨大なニワトリが現れたんですよ。覚えてませんか?」
 「んん? ニワトリ?
 ふむ…、おお!! そうじゃ、そういえば、この辺りじゃ、すごいなんが出るんじゃなあ!! わしゃ、あんな、すごいなんは、初めてじゃったなあ!!
 ふむ、それで、あのニワトリがどうかしたんじゃったかなあ…」
 「彼女たちは、あの巨大なニワトリにさらわれてしまったんですよ」
 「さらわれてしまった? んん? そうじゃったかなあ…」
 「ええ…。でも厳密に言えば、あのニワトリが消滅するときに、あいつが苦しまぎれに彼女たちを、消滅する直前の瞑想空間に投げ返してしまったんですよ」
 「ほう、そうじゃったかなあ。そう言われてみれば、そんな気もするが…」
 「しかし、とんでもないことになってしまいました。彼女たちを救い出すには、いったい、どうしたらいいものか…」
 「ふむ、なんじゃか、よく分からんのじゃが、どうして、そんなことになってしもうたんじゃろうか?」
 「はい。実は、瞑想の途中で、不意に瞑想を遮られてしまったもんですから、制御していた私たちの躍動感、つまり表現欲求が暴走してしまったんです。ニワトリが私たちの想像力を超えて、宇宙的生命力を勝手に肉化しはじめてしまったのです。
 それで、何を思ったのか、突然、ニワトリが彼女たちをくわえて立ち去ろうとしたわけです」
 「おおっ、そうじゃった。それであんたは、なんじゃか、慌てて、呪文を唱えとった…」
 「はい。間に合ったかと思ったんですが、最後になって…。しかし、残念でした」
 「しかし、なんだって、あんな、すごいなんが出てきよったんじゃろうか?」
 「私も、まさか、あんな巨大なニワトリが出てくるとは、思ってもいませんでした。そもそもの狙いは<無限の戯れ>による感動の実現だったわけですが、それにしても、正に途方もない戯れになってしまって…」
 「すると、どうなんじゃろうか、あの娘らは、帰ってこられんのじゃろうか?」
 「どうなんでしょうか? とにかく救い出さなくてはならないのですが…」
 「ああ、なんとかしてやらにゃ、かわいそうじゃよ」
 「はい。とにかく、なんとかしてもう一度瞑想空間を拓かなければならないと思うのですが…。ええっと、方法論は…、二項対立概念によるモビール的発想だったはずだけど…。
 むむむっ、こっ言葉がない!! 

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 リストさん、新たなる瞑想を拓く言葉が見当たらないのです。想像力を喚起してくれるような言葉が…」
 「ん? 何を言うとるんじゃ…。言葉…、言うて、瞑想のためにいちいち呪文みたいなんがいる言うのんか?」
 「はい、本来的な密教的瞑想ならば、それなりの決まった呪文はあるのですが、実は、先程の瞑想は、私が皆さんの昂揚感と想像力を集中させるために便宜的に密教的方法をとっただけでしたので、そもそものキーワードとなるものは、あの<凝縮と拡散>という言葉だけだったのです。ところが、同じ言葉で先程の瞑想空間を拓くには、私たちの昂揚感と想像力だけではパワーが足りません。つまり、太モモさんたちがいなくては、あのキーワードは使えないのです」
 「ほな、どうしたらええんじゃ?」
 「はい、ですから、リストさんと私の想像力を集中させることで通用する新しいキーワードを探さなくてはならないということです」
 「し、しかし、なんじゃなあ、あんたの瞑想いうなんは、なんじゃか、面倒なことばかり要求するんじゃなあ…。もっとシンプルな方法論が、いくらでもあるじゃろうが?」
 「ええ、まあ…、そうかもしれませんが…。
 確かに私の場合も、瞑想が自己否定性を目指していれば、かなりシンプルなんですが、今回のように、皆さんの昂揚感とか想像力を束ねて神秘体験を拓こうというような場合には、やはり自愛的な表現欲求を踏まえた自己肯定的な瞑想の方法論を取らざるをえなかったのです。そして、この自己肯定的な方法論というのが、私にとっては、まことにやっかいなのです」
 「ふむ、まったく、説明聞くだけでもやっかいじゃよ。ま、その説明は、ええかげんでええから、とにかく、そのキーワードを探してみたらどうなんじゃ?」
 「は、はい。まったく面倒なことなんですが、キーワードを探すキーワードは、二つの対立する概念が、いずれも表現者を立ち往生させる矛盾の真っ只中で<無限の戯れ>へと誘うものでなければならないというわけです」
 「ふむ、まったく立ち往生じゃよ…」
 「ええ…。
 んん? そうか、この<立ち往生>あたりから、何か探ってみるかな…」
 「なんじゃ? 立ち往生をキーワードにしよう言うのんか?
 ま、わしらの立ち往生いうたら、いつだって<焦りと諦め>の真っ只中じゃよ。ああ、こりゃいかん。諦めとったんじゃいかんのじゃな…」
 「ふむ、焦りか…。それとも立ち往生の空しさ…、ん!? 空しさか、すると<充足と欠落>あるいは<統一と分裂>なんてのもあるな…」
 「おお、ええなあ、どうなんじゃ、そのへんでどうにかならんか?」
 「そうですねえ…、まず自己統一といえば<私たりうる私>ってことになるし、自己分裂といえば<私たりえぬ私>ってわけですから、この統一と分裂による<立ち往生>ってことが言えるわけですねえ。
 そうか、つまり<立ち往生>とは<とりあえずの私>として、<私>を<無限の戯れ>へと誘うってわけか!?」
 「んん? そりゃ、まずなあ…。
 <とりあえずの私>いうても、わしらは、あんたも承知のように、過去の栄光とも言うべき作品によって、不滅の魂いうなんを獲得しとるわけじゃからな。いまさらそれが<とりあえずの魂>にすぎんのじゃなんて言うわけにはいかんのじゃよ、そうじゃろうが…」
 「いや、<とりあえずの私>というのは、恒常不易的に充足している存在などありはしないという意味なんです。ですから、リストさんの<不滅の魂>というのも、それは過去の作品によって語られる物語的生命としてのみのことと考えるならば、解決できるんじゃないでしょうか。そうすれば、その物語では語られていないもの、つまり<作品たりえぬ生命>といったものは、不滅の陰で日々消滅していると言えるはずなんですよ。
 しかも、この<作品たりえぬ生命>とは、いま、ここで、この物語の中に存在するリストさんのように、もはや実在したといわれるオリジナルとしての実像を語ることが出来なくて、いや、誰かに語られることによってしか姿を現さないというわけで、語れば語るほどコピーでありながらそれを実像といわざるをえなくなっているのです。だから、歴史上の存在たるリストさん自体が虚像と見分けがつかなくて、おまけに<不滅の魂>を呼び起こすヒトビトさえもが、勝手な価値観で物語的生命を吹き込もうというのだから、<不滅>は当然ながら<限定付きの不滅>にすぎず、なおかつこの不滅は不滅の保証も得られずに過ぎ去る時の真っ只中で恒常不易という幻想を抱えて<立ち往生>しているというわけです」
 「すると、どうなんじゃろうか、<とりあえずの不滅>いうことになるのかな…」
 「ま、そういうわけです。どうやら、これがキーワードになりそうですよ。
 つまり<充足と欠落><統一と分裂>の真っ只中で、<とりあえずの私>をキーワードとして瞑想空間へと旅立とうというわけです」
 「ほう、そんなんで大丈夫なんじゃろうか?」
 「はい。結局、この<とりあえず>という情況こそが、時と場所を選ばぬ存在者としての条件というわけです。いいですか、リストさんは、いま、ここにいるだけがリストさんのすべてではないが、かといってここより他には存在することを確かめることが出来ないということです」
 「ふむ、それはわしだけの記憶とか、誰かと共有しとるところの記憶いうなんについても、それぞれの固有の物語性を認めるいうことなんじゃな」
 「はい。そういうわけです」
 「すると、どうなんじゃろうか、そんな<とりあえず>にすぎないわしらが瞑想したかて、あの娘らがおるところへ行けるいう保証はないんじゃろうが…」
 「ですから、リストさんの昂揚感と想像力を、私の集中力で束ねて共有できる瞑想に入ろうというわけです。
 そこでなんですが、いまリストさんにとって、リストさんを<とりあえず>へと分裂させつつ統一している問題といったら、いったいどんなものがありますか?」
 「そりゃ、いまあんたが解明したところの<不滅の魂>ってことじゃろうが…」
 「それを、具体的に言うとどういうことになりますか?」
 「具体的にいうたってなあ…。そもそもわしがここにおる言うこと自体が<とりあえず>じゃいうだから、わしゃ、あんたらに呼ばれてここへ来たものの、その目的さえも曖昧になってしまいよったいうわけじゃ」
 「そうですか。でもリストさん、<とりあえず>だからといって、無目的にならなければならないというわけではありません。むしろ明確な目的を持つことによってこそ、<とりあえず>という自覚が際立ってくるのではないでしょうか?
 それは、仏教の悟りにいう<空>が、たとえ無目的の戯れとして体得されるにしても、空は解脱されるべき問題、あるいは因縁とか苦悩といったものを、あくまでも厳密に見定めることによってしか実現されないということに対応しているはずなんです。その意味でいうならば、<とりあえず>とは<空>のことなのです」
 「ふむ、確かにあんたが言うように、<とりあえず>を語ろうとすれば、何事かの統一感とか分裂感が曖昧になったときの気分じゃからな。しかし、いまここで<とりあえず>じゃからいうて、わしにとっては、ことさらに失ってしもうたものがあるわけでもないんじゃから、そうしてみると、やはり、初めから<とりあえず>の存在にすぎなかったいうことなんじゃろうか。
 それにしても、急に姿を消してしまったあの娘らは不憫じゃが、そのことで、わしらが瞑想の記憶から省みて大いなる悔恨の念にとらわれるのは当然としてもじゃ、だからというて、この物語にはなんら不都合が生じとらんいうんじゃから、あの娘らもまた、ここでは、やはり<とりあえず>の存在理由はか獲得しとらんかったいうことなんじゃろうか…」
 「いや、ちょっと待ってください。リストさんはどうやら<とりあえず>を存在論で語るのと、物語論で語る場合とを混同されているようですねえ。
 とにかく、<とりあえず>だからといって、なにもいいかげんな存在というわけではありません。ただ存在論として語った場合に<実体>というものを前提にしないというだけのことなのです。
 ですから物語論における<不在>にはそれなりの意味があるわけです。現に彼女たちの不在は<さらわれた>という事実によるものなんですから、これは揺るがしがたい<現実>としてあるわけです。そして物語における<とりあえず>とは、情況の変化に応じた<無常性>を言っているにすぎません。
 ただ、今となっては、彼女らにとって、この<とりあえず>であることが、存在論においても物語論においてもかえって救いになるかも知れないということが言えるわけです。
 つまり、ここより外の空間とか物語に横滑りしていける身軽さこそが<とりあえず>という存在理由だからなんです。言い換えるならば<とりあえず>だからこそ、どこの物語に送り込まれても生き延びられる可能性があるというわけです。
 しかし、これはわれわれが、この物語における作者が神として君臨するという横暴を許さないという見地に立ってこそ言えることなんです。ですから、われわれは彼女たちを生き延びさせるためにも主体的な表現者として、神の運命論に捕らわれない<とりあえずの物語>を切り拓いていかなければならないわけです。
 とにかく、<とりあえず>の喪失感なんかに捕らわれてはいられないのです。彼女たちは、無理矢理さらわれてしまったわけですから、一刻も早く救出しなければなりません」
 「おお、そうじゃよ。あんたも、その<とりあえず>の説明ばかりしとらんで、早よ、救ってやらにゃいかん。じゃがなあ、そんな<とりあえず>でなんとかなるんかいな?」
 「はい。私たちも<とりあえず>の存在を自覚して瞑想空間へと横滑りしていけば、かならずや、彼女たちに遭遇できると思います」
 「ふむ、まあ、今となっては、そのくらいはか手掛かりがない言うこっちゃな」
 「はい、残念ながら、そういうことです。
 そこで、実は、これは思い付きなんですが、いま私たちの自己愛による闇雲な統一を確実に横滑りさせて<とりあえずの私>へと目覚めさせてくれるのは、未来への茫漠とした憧れや希望ではなく、むしろ過去の記憶あるいは深層の無意識への旅立ちではないかという気がしてならないんです」
 「ほう、すると、あんたとわしとは、それぞれ自分の記憶へと立ち返るようになるんじゃろうか?」
 「はい。でも、リストさんの場合は、唐突に一一〇年余り前の記憶へと遡ることが出来るのかどうか、その保証がありません」
 「んん? それはまた、どういうこっちゃ?」
 「たぶん、それはリストさんが、すでに<不滅の魂>といえる物語的生命を獲得しているからです。つまり、先程も言いましたように、この物語で私たちに語られることによって生き延びてしまったリストさんは、もはや歴史的存在としての実像を誰も語ることが出来ない物語的人格になっているということです。
 ですから、ここでは語られたものすべてが実像たりうるという意味においてオリジナリティを主張できるという程度のことなのです。言い換えるならば、初めからコピーであるかもしれない肖像を実像として認める<とりあえずの暗黙の了解>があってこそのリストさんだということです。
 そんなわけで、リストさんの旅立ちは、この物語のささやかなる記憶を、私と共に辿って行くしかないということなんです」
 「ほうで、そりゃ残念じゃなあ。わしゃ、また、元気なころのわしに帰って、いま一度、あの華麗な希望の時代を生きてみようと思っとったのになあ…。
 そりゃ残念じゃ。しかし、それにしても残念じゃなあ…。なあ、あんた、それは、あんたの得意とする言葉のマジックじゃないのか?
 わしゃ、自分の記憶を辿れば、あの時代に帰れるように思えてならんのじゃがなあ…」
 「いや、残念ながら、これは物語的辻棲合わせの言い繕いや私の言葉遊びなんかではありません。だいいち、私たちの過去がすべて記憶にファイルされているものだけで出来ているとは限りませんし、まして記憶自体がかなり自愛的欲望による有意的な変容を払拭しきれない物語というわけですから、私たちの記憶への旅立ちも、結局はやってみなければどこへ行くか分からないというのが実情なんです」
 「ほうか、ふむ…。まあ、説明はそのへんでええよ。とにかく、やってみんことにはな…」
 行者は堅い表情でうなずき、今度は密教的手順に則って<とりあえずの仏>である<金剛薩タ身>になるための<護身法>に入った。
 真冬の日曜日、しかも日もとっぷと暮れたこの時間に、この辺りを歩いて通る人などいるはずもなく、ただ邪険な風を巻き上げて通り過ぎる車がたまにあるだけのことだから、おせっかいな警察官が点数稼ぎで不審尋問でもする気で通り掛からないかぎり、明晰な虚空をにらみ神に物乞いでもあるまい神父の僧衣を纏った老人と、ひたすら呪文を唱えるだけの作務衣を着た行者という正体不明にして挙動不審の人影に気をとめる者はいない。
 そんなわけで外神田末広町の交差点は、再び行者とリスト老人による瞑想空間への足掛かりとして措定され、次第に時の歯車が空回りを始めて勢いを失い、凍てついた風に晒された街がかつて貧欲に取り込んだ記憶の重さに軋み、<いま><ここ>という闇雲な確信がわけもなく揺らいだそのときに、満を持して時の歯車が逆回転を始め物語の退行を可能にする心の準備が整うことになる。
 「リストさん、ここは、あのニワトリが転んだところですよ…。どうですか、あの瞑想空間の底が抜けて、形骸化した想像力がまるで怒涛のようになだれ込んできたときの、あの様子が浮かんできませんか」
 「ありゃりゃ、ほうで…。ふむ、そういえば、なんだか、こんな雰囲気じゃったなあ…。しかし、あんな凄いニワトリは、どこにも見当たらんようじゃなあ…」
 「んん? リストさん、ほら、何か聞こえませんか…」
 「うんにゃあ…」
 「ほら、さっきの断末摩の叫びが!!」
 「ほうで、どうも、わしには聞こえんかったなあ…」
 「そうですか。やはり、まったく同じ時間を辿ることは難しいようですね。だけど、とりあえずは、この方法しかしないのですから、とにかくこのまま行ってみましょう…」
 まったく、どこまで行くつもりか知らないけれど、性器崇拝によって荘厳なる神話的物語を語らせるはずの行者のみならず、リスト老人さえもがわけの分からない瞑想空間なんかに潜り込んでしまったのだから、ま、ここはひとつ親愛なる読者諸氏の寛大なるご配慮を頼みに、物語の唐突なる場面展開にも果敢に対処していきたいとは思うけど、その意識過剰なほどに取り澄ました行者の瞑想的歩行が、リスト老人の手を引いて何か欝々とした運命の鼓動を歩むようであることが気になって、今さらながらに音楽世界を巡ってみれば、まるでクナッパーツブッシュの振る『パルシファル』の暗く重く長くそして甘美な陶酔のうねりに身を委ねるように思われて、司祭たるワーグナーが意図した荘厳なる栄光のみに与えられる救済に向けて期待の鼓動を高鳴らせる様子をほうふつとさせるのは、正にあの第一幕第一場から第二場への導入部において、純真なる愚者パルシファルを老騎士グルネマンツが聖盃の儀式を見せるために導く荘重なる足取りがまさに運命の歩みそのものであるにもかかわらず、それと知らずにアンフォルタス王の罪を購うために生きることになるパルシファルの未知の世界へ踏み出す栄光のための不安が重なって見えるからに他ならなくて、私のひそかな物語的欲求をそれと知らずに実現することになる彼らの運命的歩みを見るようで、ささやかなる期待を抱かせるほどに物語の荘厳なる聖堂への入場が垣間見られる思いなのだ、ムハハ。
 どうやら、彼らの瞑想的覚醒とやらの戯れが、わけもなく過剰な自意識を逆手にとった忘我の陶酔に見えたとしても、思えばそれは、クナッパーツブッシュの『パルシファル』を聴いていたのか眠っていたのかさえ定かではない幽明さまよう音の流れに身を委ね、夢とも思われぬ官能的なミューズ神との豊饒なる逢い引きで一九六二年のバイロイトから一挙に中世スペインへとワープしてはばからない陶酔を暗示しているようなものだから、たとえそんな快楽が、いつの間にか音のない溝に悲惨な絶望を語るエンパイアー一〇〇〇ZEXの悲劇によって打ち破られて、いまさら五枚のLPを表裏一〇回もかけ替える『パルシファル』に拘泥する情熱を失ったとしても、彼らのみが知らない暗澹たる未来に向けて作者たる私の栄光のために歩み続ける足音を聞き逃すことがなければ、その足音さえチッコリーニの『リスト小品集』に手を延ばすことで『二つの伝説曲第二番/波を渡るパオラの聖フランシス』の霊感に満ちた歩みに擦り替えて、たとえ行者が性器崇拝を否定し無視したつもりでも舞台神聖祝典劇『パルシファル』の歌手が無条件で宗教者であるように、再び私の神話的物語を『ミスタードーナッツ』という聖堂に向けて歩ませることが出来るはずだから、たとえ彼らの瞑想空間に多少の死角があったにしても、彼らの留どまることのない歩みは「すべてを捨ててわれに従え」の天啓を受けた聖フランシスのように、波立つ寒気を分け入ってさえ神話的未来を切り拓いてくれるはずなのだ。
 「リストさん、確か、この辺に『ミスタードーナッツ』があったはずなんですがねえ…」
 「ありゃりゃ、ほうで。いつの間にか、そんなとこまで戻っとったんか…」
 「しかし、おかしいな、もう閉店しちゃってるのかな…。それにしても、まだ閉店してるわけはないんだけどなあ…。
 そうでしょう? もしも『ミスタードーナッツ』が閉店してるとしたら、記憶への退行として拓いた瞑想が破綻してることになるわけですよね。私たちが店を出たときは、まだ閉店前だったんですから…」
 「ふむ、ひょっとすると、場所が違うんとちゃうか? だいいち、店が閉店しとったって、看板くらい出とろうが…」
 「そうなんですよねえ、確か、ここだと思うんだけど、看板も見当たらないですよ。おかしいなあ…」
 「おお、ほれ、あそこにシャッターが少し開いとるところがあるじゃないか」
 「ああ、そうですねえ、ちょっと行ってみましょう。
 んん? 変だなあ…、その上にミスタードーナッツって書いてあるように思えるんだけど、なんだか、よく見えないなあ…。どうですか、リストさん、あの字が見えますか?」
 「んん? あんたが、見えんいうのに、わしに見えるはずがないじゃろうが」
 「ちょっと、覗いてみましょう…」
 行者が中腰になってシャッターの中を覗いたときだった。
 「あんた、そこで何をしとるんじゃ? あんたが、話があるいうから、わしゃ、さっきから待っとるいうのに、そんなとこから覗いとらんで、早くこっちへ入ったらええじゃろうが…」
 「ええっ、お父さん?」
 「なんじゃ、んん、誰か一緒におるのか? Yちゃんじゃったら、一緒に入って貰ったらええじゃないか…。あんたら二人の問題なんじゃから…」
 「二人の問題って? あれ、どうなってるんだ? 
 お父さん、ちょっと待ってください。んん? リストさん…。あれ? リストさん!? どこへ行っちゃったんだろうか?」
 「あんた、何を言うとるんじゃ? わしなら、ここにおるじゃないか」
 「ええっ? リストさんがお父さんだったなんて?」
 「何を、ごちゃごちゃ言うとるんじゃ…。ま、あんたの言い分はすでに聞いとるから、わしゃ、何も反対はせんが、わしらも、もう歳じゃからな。まあ、出来れば、ここにおって、一緒に暮らしてくれたら、そのほうがええんじゃ。おかあちゃんじゃって、同じ考えじゃと思うよ…。ま、わしらとすれば、やはり、この店は、あんたに見て貰ったほうが安心なんじゃが…」
 「ええっ、お母さん?」
 「Nちゃんが、あの娘とは、一緒にいても、結婚はしないって言うから、お母さんは、そのつもりでいたから…。それだったら、始めっから、そう言ってくれれば、もっと…」
 「二人とも、何を言ってるの? でも、そうか、確かに、僕は、Yちゃんのことを考えたら、独立して、この家を出るしかないと思うけど…。
 いや、現に僕は、ここで、なにかと衝突している兄貴とは一緒に暮らせないからと考えたからこそ、すでに日暮里駅前にマンションを借りてYちゃんと暮らしているんじゃないか…。
 んん? どうなってるんだ!! 話の辻棲が合ってないじゃないか?」
 すると、父親だと思っていたものがリスト老人になっている。
 「そりゃ、記憶の混濁じゃよ」
 「ああっ、リストさん。あれ? リストさんは、親父じゃなかったの?」
 「何を言うとるんじゃ。それより、どうなんじゃ、あっこにおるのは、あの娘らじゃないのか?」
 「ええっ? ちっ違いますよ。あれは、僕のYちゃんです」
 「ねえ、Nちゃん、それでどうなの? あたし、あなたの家族とは、一緒に住みたくないなあ…。Nちゃんは知らないかもしれないけど、このままで、あたしが、あの家にいるのは惨めなんだ。あの変な兄貴もいるし、それにおばさんだって、結構辛くあたるんだもん。Nちゃんは、愛してる、離したくないって言ってくれても、このまま、あそこで同棲みたいな生活続けるのは、無理よ…」
 「あれ…。だから、僕たちは、式こそ上げてないけれど、君のお母さんにも了解してもらって、こうやって生活してるんじゃないか…」
 「なによ、そんな生活に入ったら、絵が描けなくなっちゃうから、いやだって、言ってたじゃないの?」
 「そうじゃないんだ。僕は、絵を描くことが、自分の生きざま、そのものだと思っているけれど、僕が今、君を愛して一緒に暮らしたいと願っている以上、君のために絵を描けないはずはないんだ」
 「あたし、お母さんに、妊娠してるって、言っちゃったんだ。だったら、結婚は一日でも早いほうがいいって言ってたけど…。だけどあたし、結婚して惨めになるくらいなら…」
 「だけど、結婚を断ってきたのは、君のお母さんの方だよ。もう、僕が君のためにして上げられることは、何もないんだ。残念だけど、君の望む僕になることは、自分を裏切ることになってしまうんだ。君は、たぶん、さんざん君を裏切っておきながら、いまさら自分が裏切れないなんてって言うかもしれないが…」
 「あたし、Nちゃん好きだから、責める気はないんだけど、だからって、なにもNちゃんが、あの家の仕事から親の面倒まで見ることないんじゃないの?
 全部、あの兄貴に任せちゃえばいいじゃないの。あたしたちには、この店があるんだし…」
 「Yちゃん、僕は、何も、君のために、あの家族と決別したわけじゃないけれど…、いや、君とも別れて、ようやく独り立ち出来たような気がするけれど…、でも、絵が描けない!! 描けないなんて思いたくないから、意地になって、一日中地下室でフライパン振って働いてるけれど、やっぱり、これじゃないんだなあ…」
 「ほれ、あんたは、また記憶の中で、迷子になっとるぞ」
 「ええっ!?」
 「どうも、この辺りには、おらんようじゃ」
 「ああ…、リストさん。どうも…、やはりリストさんのおっしゃる記憶の混濁ってやつでしょうか、どうもいけません」
 「おおっ、あそこ行くのは、あの娘らじゃないか?」
 「どっ、どこですか?」
 「あんたは、まだ、記憶の襞に引っ掛かっとるんじゃないのか? ほれ、そこにおるじゃろうが…」
 「ええ? いや、リストさん、あれはYちゃんとその友達のTちゃんですよ」
 二人の娘が腕を組み、肩を寄せ、リズムをつけて身体を左右に振れば、ハーフコートの中でくびれた腰が二つ揺れて、正にはちきれる若さを意識したコーデュロイのジーンズが、楽しげに記憶の街を上野へと進んでいく。
 「Yちゃん!!」
 「ありゃ、違ったんじゃろうか…」
 「いえ、あれは、間違いなくYちゃんですよ。でも、どうして、こんなところにいるんだろうか?」
 「ほうで、わしは、すっかりあの娘らじゃとばかり思っとったが…。しかし、あんたが、声かけたら、急に見えなくなってしもうたが…。どうも、いかんな。あんたが手繰り寄せる記憶の中いうなんは、どうも勝手が違って…」
 「リストさん、どうやら、私たちの行くところは、上野方面ということかもしれませんよ。とにかく、彼女たちの後を追ってみましょう…」
 「ふむ、なんじゃか、あっち行ったりこっち行ったりで、忙しいこっちゃ…」
 二人は瞑想空間を上野方面に取って返した。
 「やはり、幻想だったのかなあ…」
 「おおっ、ニワトリの声じゃ!! ほれ、あの断末摩の叫びじゃ!!」
 「んん? 私には聞こえませんよ…」
 「そんなことはないじゃろう、あんなにはっきりと聞こえたじゃないか…」
 「リストさん、また末広町辺りに戻ってるのかもしれませんが、やはり私たちの記憶の領域がずれているってことかもしれません。
 ま、そんなことより、とにかく急ぎましょう」
 「なあ、これで、わしら、上野なんかに行きよって、あんたの記憶を辿ることになるんじゃろうか?」
 「ええ? どうなんでしょうか。リストさんの記憶でもあるはずなんですが…」
 「ほうか、わしゃ、あんたと上野なんかに行った覚えはないがなあ…」
 「そういえばそうですねえ。
 ひょっとすると、リストさんと何んの違和感もなく共存できる潜在的な無意識なんていうところまで退行してしまうんでしょうかねえ。でも、たぶん、これでいいんだと思いますが、しかし、どれほどの確信があるわけでもないんですが…。
 だいいち、まだ瞑想空間が消滅したという実感はありませんから…」
 「そう言われてみれば、そうじゃな。すると、わしらの物語における可能性いうなんへも横滑りでけるんかもしらんなあ。
 そういえば、そもそもはわしらも上野へ行く予定じゃったんじゃからな。上野のどこぞであの娘らに会えれば、それでめでたしじゃ。ほんで、そこがピアノバーなら、なおさら言うことなしじゃな、ハハハ」
 「あれ、あれは松坂屋の前辺りかな…、ほら、リストさん、YちゃんとTちゃんの二人が見えるでしょう?」
 「おお、いま左に入ったようじゃな…。しかし、どう見ても、わしにはあの娘らに見えるがのう…」
 「そうですか…。とにかく急ぎましょう」
 二人はすっかり手慣れた様子で瞑想空間を移動して広小路の交差点に着く。
 「ありゃりゃ、また見失なってしもうたなあ…」
 「そうですねえ…。どこか、この辺りの店に入ったのかなあ…」

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