(3) 芸術を懴悔する



 『ミスタードーナッツ』が中年男の変態性の現実のみならず有り余る幻想までもハッピー気分で担うとしても、すでに北風だけの夜に変わったこの街は、自己保身ゆえに何につけても諦めに長けた哀しい中年の欝感に、問答無用の冷たい砂塵を悪意に満ちて叩き付けるだけのことだから、そんな街がいま不成就性ゆえに語り起こされる物語へと拓かれるならば、それはドーナッツ神話にまつわる中年男的意味の滑稽さが無意識のうちにも負化し排斥しつづけてしまったものとして、まったく糞真面目にして悍しいほどのまるで純文学的精神世界のような無気味なものが広がることになり、結局は中年男ゆえに抱え込む女々しいほどの自己愛の欝屈した思いばかりを暗示することになる。
 というわけで、この第三章には女々しいほどの不成就性の思いなんかを改めて設定してはみたけれど、「またか…」と呆れ顔の読者の囁きが聞こえてしまう有り様で、己の物語から吹き上げる寒風にさえ千々に乱れる傷心抱えた作者としては、言葉が重くなるばかりの辛さに耐えかねて、もはや支え切れない沈黙であんぐりと開いた大口が物語を飲み込んでも納まらない無駄口男に成り下がるだけなのだ。
 そもそもは寛容なる読者に「またか」といわれぬための努力のはずが、この自責の念に帰結してしまうというお粗末すぎる悪循環のことだから、今さら物語の文学性とか文学の物語性というものに無頓着であった己への短絡的な反省なんかでは到底克服できるはずもなく、まして反省したからといって唐突に開花するはずもない己の文学的資質の乏しさにただ呆然とするだけのことだから、キーボード上の中空で無念を握りしめたまま凍結された透き通る両手に涙したところでどれほどの温もりにもならない空しさを、無いものねだりこそが情熱の源泉であると開き直ることで解凍するしかないと納得するだけのことになり、もはや有るか無いのか分からない文学的欲求にささやかなる疼きを捏造する程度の企みにおいてさえ、なけなしの芸術的感動を夢想することで<ただ語り続けられれば幸せ>という脳天気の体質が露呈してしまうことになったとしても、そこはそれ、誰もが眉をひそめる粘着体質でありながらキーボードを叩いていればそれだけで肩こりも解消するという特異体質にすべてを委ねることで、たとえば中年ゆえにドーナッツ的欲望が哀しくて哀しさ募れば欝々と欝感たどる楽しみはハッピーであることさえ当たり前になり、哀しみが楽しくてハッピーは欝感にすぎない同道巡りの形容矛盾こそが、崇高ならずも生身の純粋感覚ではなかろうかと勝手に自負する物語的神として君臨し、あるいはいかなる非難中傷にもめげることの無い厚顔無恥の芸術家として立ち上がる勇気を与えてくれるというわけで、今さら不成就性でありつづけた物語など取るに足らない優柔不断と見定めて、一気に美的価値による世界統一を実現すべく気負うことになるけれど…
 おおっと、こりゃまずい!!
 こんな私の切々たる思いを知ってか知らずでか、リスト老人こそが、私の芸術的欲求などおかまいなしの体たらくなのだ。リスト老人は、いつの間にかあのテイクアウトの箱を開け、フレンチクルーラーをつまんでかぶりつき、よりによって私の神たる喜びのすべてでもある美的欲求こそを踏みにじるかのように、口の回りは垂らしたよだれでベチョベチョで、おまけに欠けたシュガーをボロボロ落とし、ああっ、そっ、その手をズボンで拭いたりして、まったくなんてざまか!!
 しっ、しかし私は、あえて言わせていただくならば、日々中年のおじさんとして鬱々と過ごした様々なる思いが、まったく知らないうちに密かに育んでいたはずの屈辱的なる純文学的精神世界へのときめきを探り当て、「またか、またか」の試練を乗り越えて語り続ける覚悟なのだ。
 見れば、上野に向かって闇の中に吸い込まれていく閉ざされたシャッターの町並みを、荒ぶる風が錆びた音を起てながら邪険に通り過ぎていくけれど、そんな風の気まぐれが不意に思い立ち道端の空箱を舞い上げて、それ行けとばかり走り寄る巧みな砂塵のイレブンたちで見事なサッカーを見せるけど、それもプィッと途切れる移り気で誰もが興味を失った空箱だけが車道に取り残されることになり、思わず我に返った空箱が車の途切れた道こそが俺が天下と居直れば、もう二〇年以上も前になるかもしれないFENが毎日のように鳴らしていた『キング-オブ-ザ-ロード』(ロジャー-ミラー)が蘇り、酔いどれ男の見果てぬ夢が、何んのことはない浮浪者と呼ばれる不成就性の痛みにすぎないと言われても、酔ってこそが現実でこの道こそが我が王国と底抜けのハッピーを歌えるのだから、あの邪険な風が戻ってきて再び気まぐれなサッカーを始めるまでの一時が、あるいは闇雲に疾走してくる車に蹴散らされるまでが楽しみののんきな一時を、そこにあることだけの意味がおかしくて訳もなく充足してはばからないというわけで、行者のみならずリスト老人によって踏みにじられる私の文学的純情は、まるで空箱の呟きに掠め取られてはいるけれど「酔っぱらったままで飛ばされて、それで一件落着ならば王様のままでおしまいよ」程度のこととして、風まかせ成り行きまかせの楽観主義へと転がり込むだけのことなのだ。
 そこで、ついでと言うわけでもないけれど、宗教も芸術もまして純文学的精神世界さえ楽観主義における淫靡なあだ花にすぎないなんて開き直ってみるならば、あまりにも崇高さにかまけているうちにすっかりあだ花になってしまった楽観主義が神話世界にすぎなくて、これこそが、私が王国を夢想し続けた純文学的精神世界に他ならないというわけで、まずは楽観主義に身を委ね言葉遊びが楽しくて、物語さえ開店休業を決め込んで無駄口男に身をやつし、語り続けてずれていく意味不明を弄び、長文悪文批判も屁の河童で気がつけば、リスト老人は言うに及ばず行者は食いかけのシナモンクルーラーまで取り出して、二人の<かたぶとりの太モモ>はといえばフルーツゼリーの入ったドーナッツくわえ、誰もがチンタラチンタラの風まかせでご機嫌だから、もはや私の創造的なる純情も一皮むけて誰に逆撫でされることもなく、我が王国の物語がただ不成就性の思いを手繰り寄せ、ポッカリとお惚け顔で拓かれている。
 「ほんで、行き先は、あんたらに任せとったらええんじゃな…」
 「うん、上野なら、日曜でもやってる店知ってるから…」
 「ほうか、そうすると、この道でええんじゃな?」
 「そう、ちょっと寒いけど、歩いたって、そんなにたいした距離じゃないから…」
 「しかし、なんじゃなあ、このドーナッツいうなんは、なんとも不思議な形をしとるもんじゃのう、ほれ…」
 リスト老人はふたつめのフレンチクルーラーを取り上げている。
 「それが、この物語の作者の付け入る根拠なんでしょ、行者さん?」
 「まあ、そういうわけです」
 「ふうむ、ほうで。するとどうやら、どれもこれも心の中のモヤモヤとした欲望の形というところなんじゃろうな。しかし、この幸せそうな欲望も、快感いうことからすれば、どうやら非劇的に思えてならんが…」
 「おじいちゃん、何いってんの、『ミスタードーナッツ』はハッピーの一言よ」
 「うんにゃあ、わしが言うとるのは、この奇想天外な形いうのんが、まずは見られる欲望じゃというとるんじゃ」
 「そんなに向きにならないで、ただの軽い冗談なんだから」
 「ありゃりゃ、ほうで。あんたら、人が悪いからなあ。
 ほんで、何んじゃったかな?」
 「はい、ドーナッツの悲劇性についてです」
 「おお、そうじゃった。
 このドーナッツいうなんは、この姿あっての存在じゃいうのに、ところが、そもそもの目的は自分の姿を食いちぎられるいう屈辱によってはか、己の欲望を満足できず、まして快感にも辿りつけないいうわけじゃ。
 まあ、いうてみれば、食物の宿命いうことでしかたないんじゃが、ほんでもなあ、酒は飲まれても飲み返して生き返り、三度の飯は食われて至福と活力をもたらして、今度は食う欲望として蘇るというわけじゃ。そこへいくとドーナッツはどうなんじゃろうか?
 こんなもんは、満腹するほど食えんしな、ほうじゃろう…。第一、こんなもんで腹一杯にしてみい、かえって空しくなってしまうじゃろうが。かというて、こうして目の前にあれば、誰も無視することはでけん」
 「だって、どうせドーナッツって、おやつだからでしょ?」
 「むむっ、ほうか…。あんた、なかなかええところを突いとるな」
 「いわば、おやつの存在理由というわけですね」
 「ん、まあ、そういうことじゃな。ほんでこのドーナッツいうなんは、どういうわけか、ここに形としてあることによってはか、欲望を喚起せんのじゃ。要するに、欲望そもそもの形いうてもええが、決して欲望より先にあったわけでもない…」
 「見掛けが喚起する食欲、遊びの幻想が喚起する食欲、これがおやつの戦略というところでしょうか」
 「なんだか、リストさんって、すっかりドーナッツの虜になってるみたい…」
 「そう、そんなに向きになって食べなくたっていいのに…」
 「むむ…、あんたら、そんなこと言うけどな、わしゃ、これを見とったら、食わずになんかおられんよ」
 「ああっ、その手、そんなとこで拭いちゃ駄目よ。ちょっと待って、いま、ハンカチ貸してあげるから…」
 「ん、ほうで、ああ、すまんな…。あんたええ娘じゃなあ…。ちょっと、こっちへこんか、ほんで、これ、すまんが、これを持っとってくれんかな。ああ、すまんこって…。
 ほんでなあ、これは、わしらが年のせいというわけでもないんじゃろうが、いま思ってみると、何はともあれ神の前にあってじゃな、いかなる芸術家もひとりの人間いうことになってみたら、結局は、祝福を求めるだけの苦悩者にすきなかったと言わざるをえない、そんな思いが残るんじゃ」
 「ねえ、それ、ドーナッツの話と関係あるの?」
 「んん? あんたら、いつまでもドーナッツの話になんかこだわっとったんじゃいかんよ。とにかく、ドーナッツいうなんは、食ってしまわにゃいかん。目の前にあることが苦悩じゃというとるんじゃ」
 「ふうん、じゃ、いまリストさんはドーナッツを祝福してるわけね…」
 「ほほう、あんた、なかなか面白いことをいう娘じゃなあ…。
 ま、確かに、ここでドーナッツを食っとると、己の苦悩を自ら祝福しとるような気分にもなってくるもんじゃな。
 いうても、わしらは長い瞑想で、すっかり平安に浸かり沈黙する魂でいられたわけじゃからな。どんな苦悩も、こんな形にはなっとるものの無毒の思い出になっとるのかもしらんしな。かというて、なにもかも無くなってしもうたわけでもない。
 現に、ほれ、こうして沈黙する魂に血の温もりを流し込んでもらってみれば、たとえ毒じゃったものであれ、すっかり神の愛として蘇ったようにさえ思われるんじゃからなあ」
 「ねっ、ねえ、その沈黙する魂って、リストさんのことなんでしょ?」
 「そうですよ。つまり、芸術的意味において沈黙する魂とは、リストさんの場合、楽譜としてあるとも言えるわけです。ですから、沈黙する魂に血の温もりを流し込めるのは演奏家であり、それが神の愛として具現化する根拠とは、彼らを無意識においてさえ支配することこどくの苦悩というわけなんですよ」
 「と、言うことは、いまここにいるリストさんって、やっぱり…」
 「おおっと、いまさら何ですか。私たちと同じ、物語的人格ですよ。ただ、私たちは、互いにその出生にまで立ち入ったところで、明確な動機といえるものを特定しえないし、見詰め合う存在理由さえも断定的に特定しえない存在だということです。これを肯定的にいえば、暗黙の了解で成り立つ関係という訳なんですよ」
 「でも、そんな曖昧なことで、あたしたちのすべての関係を納得しちゃっていいの?」
 「そう、それでなんの不都合もないはずですよ」
 「そっ、そうかなあ…。そうすると自分とか、愛なんてものも、ずいぶんいいかげんなものになっちゃうと思うけど?」
 「そう思うところが、神の付け入る心の隙間なんですよ。つまり揺らぎつづける関係の中で、そんな曖昧さが不安であればそれは苦悩に他ならないし、それが快適な自由として享受できれば、私たちは居ながらにして極楽浄土に生きることが出来るってわけですよ」
 「おお、それは、芸術においても、言えることじゃな。
 とにかく、芸術いうもんが、神の愛を具現化する優れた方法としてもじゃな、闇雲なまでの創造活動によってはか生きられない人間のじゃな、そのくせ、それほど創造的には生きられない人間の、生きがたき苦悩いうなんが、芸術というわけじゃからな。それを芸術の両義性というてもええが、簡単にいうならば心構えの問題にすぎんいうわけじゃ。
 言うてみれば、下手をすると、自らの不本意な表現行為そのものが、自分を滅ぼす愛の喪失にもなりかねんのじゃから、芸術いうなんは、愛によって確信と絶望の間を苦悩で渡る曲芸みたいなもんなんじゃ。
 ところで、あんたら、もっと食べたらええんだよ、ほれ。
 しかし、わしゃ、どうしたんじゃろうか、きょうに限って、このドーナッツいうなんが、気になってしょうがないもんじゃから…」
 「どうぞ、遠慮しないで、お召し上がりください」
 「だけどさ、このおじいちゃんが、たとえば亡霊みたいなもんだとしてもさ、これだけドーナッツを食べちゃったら、もう亡霊の怖さなんかぶっとんで、おかしさばかりだもんね」
 「あんた、なんか言うたか?」
 「うっ、ううん。ほんとに耳がいいんだから…。
 ねっ、ねえ、そんなに慌てて食べなくたっていいんじゃないの…」
 「まあ、あんたは、余計なことは、言わんでもええ。
 あっ、ありゃりゃ、おおっとっと…、ああ、もっとで、落とすとこじゃった。危な危な…。横から、余計なこと言わんでくれな。それでなくとも…。
 ええっと、それで、なんじゃったかな…」
 「何が?」
 「何がいうことはなかろうが…。おおっ、そうじゃった、わしは、さっきから、言おう言おうと思っとったことがあったんじゃ。
 それはこういうことなんじゃ。ええか、つまりこのドーナッツがじゃ、神の愛の肉化じゃとしてみい、この形をドーナッツとして結実しとる欲望はどうなっとるかというたら、それは自己解体によってはか自らの目的を成就せんのじゃからな、ここからが重要なとこじゃ、ええか、ドーナッツは、自らの存在を苦悩と見定めたときにじゃ、それを他者救済へと身を捧げることよってじゃな、自分の目的としとる神の祝福を、ヒトビトの中に実現するいうわけじゃ。
 どうじゃ、そう考えてみてみい、ドーナッツはヒトビトの信仰の形じゃ。あるいは信仰の姿いうてもええ。わしらは、このドーナッツに無意識のうちに注ぐ眼差しにもじゃな、信仰心を呼び覚まされとるいうわけじゃ」
 「ねえ、リストさんって、ずっと昔から、ドーナッツがお好きだったんですか?」
 「んん、はて、どうじゃったかな…。急に、そう言われても、思い出せないが、わしらの頃は、こんなにうまいドーナッツいうて、無かったかもしらんなあ…」
 「そうすると、リストさんのドーナッツ賛歌というのは、リスト芸術のインプロビゼーションというわけですね」
 「ありゃりゃ、あんた、うまいこと言いよるな。あんたは、なかなか、老人の情熱を蘇らせるコツを心得とるようじゃからな、わしは、嬉しいなあ…。
 おお、そういえば、あんた、さっきは、このお嬢さん方の店におるときに、ショパンについて、なんとか言うとらんかったかな…」
 「はい、愛による芸術論の挫折についてでした」
 「おお、そうじゃった。しかし、あんたらは、どうやら挫折しとってでも表現者でおることが出来るようじゃが、わしらは、そうはいかんからなあ…。わしらにとっては、愛に限界など認める立場には、おらんからなあ…。
 ところで、あんたの愛がショパンと関わりを持っとったころいうのんは、わしの末裔として、ロマン的気分の申し子じゃったころなんじゃろう? どうじゃ、そのころのことを少し話して聞かせてみいよ…」
 「そうですね…、でもいま私がショパンについて言えることは、なぜショパンが嫌いだったのか、そしていかにショパンを認知するに至ったのかという程度のことですが…」
 「ほほう、そりゃ面白そうじゃないか」
 「もう、だいぶ前のことになりますが、たまたまショパンを聞いてみようと思ったときに、ブライロフスキーによる『マズルカ』と、ワイセンベルクによる『ソナタ3番』に出会ったのです。
 ところが、これがまったく私の霊的な感受性ともいえる愛を刺激しないのです。いやむしろ、なにもかにもが不愉快で、じっとして聴いていることが出来ないほどのいらだちを覚える始末だったのです。
 ま、それをあえて言葉にすれば、私にとっては有りもしないキリスト教の神が、ショパンという名で美の衣を着て、さあ、私の前に膝まづき、身を投げ出して感動しなさいと言いたげな、つまりは、何も共有するもののない世界での大きなお世話にすぎなかったというわけです」
 「なんだ、あたしクラシックなんて、全然興味がないんだけど、行者さんにとっては、ショパンの話っていうのも、神様の話なんだ」
 「はい、それは同時に、私の精神的な遍歴の一時期を語るようなことになると思います」
 「ふむ、ところで、その何も共有するもののない世界いうなんは、具体的にはどんなもののことなんじゃろうか?」
 「最終的にはキリスト者でないという世界観の違いに尽きるのですが、体験の現場においては、共有できる感覚が見当たらないということ、つまり反省的に探ってみても感動の扉を拓く感覚的なキーワードが見付からないということなんです」
 「ほほう、そりゃ面白いことを言いよるな…」
 「ちょっと待って、行者さんって、音楽を聴くのに、いちいち言葉で説明できるようなものが必要なの? なんて言うのかしら、感動って、もっと言葉の届かないものなんじゃないんですか?」
 「正に、おっしゃる通りです。ただ私の場合は、すでに感動というものを、ある程度自分の言葉で語れるものとして整理がついていたということがあるわけです。
 どういうことかと言いますとね、いま生きている<私>というものに関わる一切の問題というのは、<自分とは何か><いかに生きるべきか>に尽きると考えていたわけです。つまり、私にとっての感動というものも、結局はこの問題に対する感覚的な回答であるはずだということなのです。
 もっとも、あらゆる感動以前に、この問題提起があったわけではありませんから、実は感動を整理する言葉を探していてこの問題に巡り会ったということでもあるわけです」
 「へえ、自分の感動の根拠をいちいち言葉にして探そうなんてこと考えるんだ、やっぱり変わってんだ」
 「ま、ただの気の迷いみたいなもんかもしれませんが、とうとう迷ったままでこの年ですよ、ハハハ」
 「ところで、どうなんじゃ、そのころ、わしについてのキーワードは持っとったのかな」
 「はい、それはすでに申し上げたことですが、<愛は美の原型であり、その愛とは生命力ゆえの苦悩である>ということです」
 「ふむ、ほんで、あんたのその愛では、ショパンの扉が開かなんだいうわけじゃな」
 「はい。しかし、私には、鍵穴が合わないことについて、ひとつの感覚的な回答を持っていました」
 「ほう…」
 「たとえば、芸術家には神の名において美を語る特権が与えられているとしても、表現者が芸術家である以前に、つまり美を語る以前に、人間として生き続けていくときに、どうあっても自覚していなければならない<何ものか>についての反省のなさです。
 当然ながら、ここで私のいう表現者とは、さきほども申し上げました<自分とは何か><いかに生きるべきか>に回答を用意しようという者のことです。
 そこで、その<何ものか>への反省から逃避しつづける無自覚な惨めさを、たとえば感傷などといって弄ぶ厚顔無恥な図々しさが許せなかったのです」
 「ほほう、だいぶ厳しいようじゃが、それは、あんたの誤解いうことじゃなかったんじゃろうか? わしらからみとると、ショパンいうのは、正にポロネーズと呼ぶのがふさわしいほどの民族主義者じゃったからなあ…。
 ま、わしの意見はいいとして、その<何ものか>とはいったいなんなんじゃ?」
 「傲慢さ、<自己愛への傲慢さ>です」
 「ふむ、ほうすると、やはりあんたらとは、愛の世界観が違うとるいうことなんじゃ。いや、わしらにしてみれば、自分が自分たりうる自覚こそが愛なんじゃし、その自覚こそが神の恩恵に授かることでもあるんじゃからな。その意味でいうなら、あんたらのいう愛いうなんが、愛ではない言うこっちゃ」
 「はい、多分そういうことです。実は、今われわれが使っている日本語の<愛>こそが正体不明ということなんです。それは、戦後のアメリカ的民主主義という病気の後遺症として与えられた造語だからと思われます。
 そこで私は、意図的に<愛>という言葉を<愛着><執着>という意味として使ったということなんです。もっともこれは仏教的な用語法ですから、日本語としては、まあ、由緒の正しいほうだと言えます。ここでは、愛とは<業>という言葉にも置き換えることが可能なのです。
 そもそも<業>とは、仏教的な世界観である因果応報の動因ともいうべきものですから、仏教的世界観もその根拠に<愛>を設定していると見ることは可能なのです。しかし、この<愛>は因縁解脱という仏教的救済の前においては無力なのです。つまり<業>である愛は無力化されて克服されてしまうのです。
 その意味においていうならば、リストさんがおっしゃるように<愛>とは自分を自分として位置づける要因といえるわけですが、ただ違うところは<愛>とは仏に祝福されるべきめでたきものではないということです」
 「なんじゃか、面倒なことになってしもうたが、そうすると、その仏に祝福されるべきものとはいったい何んなんじゃ?」 
 「<慈悲>です。これがキリスト教の<愛>に対応するものと言えます。<慈>とはヒトビトに楽を与えることで、<悲>とはヒトビトの苦を取り除くことなのです」
 「どういうことなの、そうするとあたしたちが思っていた<愛>って、いったい何んだったのかしら?」
 「べつに、どうということはありませんよ。自分に対する執着、とりあえずこれを<自己愛>と言い直せば、これをただ美化していただけのことだと気付くはずですよ。そして美化された意味が、いつのまにか、そもそもの言葉を曖昧にしてしまっただけのことですから…」
 「ちょっとちょっと、それって、ひょっとすると、あたしたちに対する非難ってこと?」
 「いえ、非難のつもりはありませんよ。ただ皆さんのいう愛にまつわる曖昧さは、キリスト教でも理解できないでしょうし、仏教でも理解しえないということです。ですから、もしも皆さんが、自分の愛について何事かを言おうとするならば、まずは、この<愛>についての定義が必要になるってことです」
 「ま、なんじゃな、そんな愛を傲慢さと考えるようなキーワードじゃったら、ショパンの扉は開きようがないわけじゃ」
 「そういうわけです。しかし、いま私が申し上げたようなことは、後になって気付いたことですから、当時は、この<自己愛への傲慢さ>というキーワードでなんとかショパンの扉をこじ開けようとしていたわけです。
 しかし、それが私の芸術論でもあったのですから、これがどんなに一般常識から逸脱した荒唐無稽な発想であったとしても、なんら恥じ入ることはなかったのです。そして、このキーワードが、私の、それまでの一五年来の問題にひとつの回答を用意することになったのです」
 「ああっ、分かった。その問題って、さっきの<自分とは何か>と<いかに生きるべきか>ってことでしょ?」
 「そうです。ところで、私にとってのショパンを語るためには、私の表現活動と音との関係についてお話ししておかなければなりません」
 「それ、かなり面倒なことになるんじゃないの? そんな予感よ…」
 「はあ…。でも私小説的な告白とでもお考え頂ければ…」
 「ほうで、こりゃ、益々もって、面倒なことになりそうじゃなあ…」
 「もう一五年位も前のことになります。当時はまだ、生きることだけで精一杯でしたが、そんな生活がほとんど無意識のうちに絵画という排泄行為を背負っていました。当然ながら、ここでは芸術とは何かなどと問う余裕もないのです」
 「ほほう、するとなんじゃな、あんたは美術学校あたりで芸術への出発を志したいうわけじゃないんじゃな」
 「はい。まったく何も分からないままに、混沌とした命の躍動感だけで闇雲な表現行為が出来たわけですから、正に、それが生きていることの証しであったというわけです。そう、多分一七歳の頃だったと思います。
 そんなときなんです、自分の生きていることの存在証明であるはずの絵画が空しくて、何かもっと客観的な説得力のあるものが欲しかったのです。そう、絵を吐き出した虚脱感に、たまたま現代音楽を飲み込んでしまったというわけです」
 「ほう、現代音楽というと…」
 「そうですね、まずは武満 徹、シュトックハウゼン、ジョン-ケージ、ペンデレッキー、ルトスワフスキー、特にシェーンベルク、あるいはバルトークでした」
 「ふむ、どうも、わしらには、なじみがないなあ…。しかし、なんじゃろ、あんたにとっては、その体験いうことが、そのまま存在証明になっとったいうことなんじゃな」
 「はい、ほとんど無垢の感性で対峙したと言えるわけです」
 「ねえ、でもさあ、行者さんの時代にしたって、もっと外の、ジャズとかロックなんかがあったんじゃないの?」
 「と、いうよりも、その現代音楽っていうのじゃなければならない理由みたいなもんがあったんですか?」
 「まずは、なによりも面白かったということです。そう感じたということです。
 私にとっては、<いま生きている>ということを反省的に捕らえ返していくことが最重要課題でした。つまり、ことごとくが不成就性の<いま>は、いかにしたら納得して引き受けられるのか、ということです。
 そんなときに現代音楽は、現代社会の矛盾と軋轢を引き受けて、しかもほとんどが完結することのない試作や仮説のままで放置されているわけです。しかし、それにもかかわらず、いや、だからこそかもしれませんが、既成の価値観に変革と解体を要請する衝撃力は有り余るほど持っているわけですから、そんな緊張感と危機感の中で暴力的なまでの衝撃力が未知の表現空間を切り拓こうとする創造と破壊の現場に魅せられてしまったのです。
 むろん、それぞれの表現行為には、それなりの計算と理念があってのことですが、そんなことは、私にとってはまったく関係のないことなんです。要は、創造と破壊の現場が拓かれているということなんです。
 ま、当然のことですが、このように感じられる現代音楽でなければならないという生活の情況もあったわけです。今にして思えば、どこにでもある肉親相克の因縁と、かかる家業の営業不振による家庭不和ということでした」
 「おお、ドライな現代音楽じゃというに、よりによって陰惨なる物語の存在証明じゃったいうんじゃから…」
 「その当時、すでに六〇半ばを過ぎた父親が、わがままで意気地無しのかんしゃく持ちというわけですから、幼児性を引きずったままの発育不全でおまけにエエカッコシイだったのです。それゆえの意固地なまでの独善性に加えて、盲目的な強欲、おまけに美食癖というわけで、商売などまるっきり駄目な世間知らずの小心者だったというわけです。
 そんな父親と一四も年の離れた母親が、かたくななまでに父親をたてて、何もかも耐えて忍ぶという明治の女なのです。それも、かつては死に損ないの大病をして、もはや精神力だけで生きているともいえる虚弱体質というわけです。
 そして長男がまだ一九で、いささか出来の悪い大学生。私が高校の二年でした。
 父親は、ほとんど自分でする気のない気ぜわしいばかりの商売を、ひと癖ある従業員と母親に任せ、そのくせ店の金を騙し取られはしまいかと、年中、疑心暗鬼の日々なのです。結局は、まったく当然のように、いじめぬいた従業員に金を使い込まれ、うまく回転のいかなくなった店を、今度は息子を騙して使おうというわけです。ところが長男はいや。そこで私が大学進学を諦めて商売を手伝うことになり、気ままな父親の寵愛を一身に受けることになります。そうすると、ここで疎外された兄と私との不仲が、新たなる家庭崩壊の火種になるのです。
 ま、だいたいがこういう情況で日々の葛藤があるわけです。
 しかし、ここで重要なことは、私たちが、そこで何を見て、何を感じとったのかということです。でも、まあ、後から言葉にしてみればどれほどのことでもないんですがね。
 結局のところ、私が家庭という言葉で隠蔽しているものを暴いて確認したことは、そもそも家庭というものが対外的には閉鎖性の温床になっていて、そこでは各人が勝手に理由をつけた己の欲望のために、たとえば思いやりとか情けなんていう大義名文を背負った自己愛で、誰かを恨み、妬み、呪わずにいられないという悍しさの前で挫折する姿だったのです。ここでは、自分を正当化する言葉が、ことごとく相手の心の恥部をえぐる武器なのです」
 「ヤーダッ。どうして、そういうふうに陰湿なのかしら…」
 「そういうのって、あんまり考えなくてもいいようなことを、シンネリムッチリと考えてるからなのよ。考えたって答えの出ないことだらけなんだから、もっと気軽にやればいいのよ…」
 「そうなんですがねえ…。でも、実際には、そこそこうまくやっているわけですよ。普段はね…。ところが、何かあったときに、どうしても互いの不信感に辿りついてしまう。
 ま、とにかく毎月の金策に追われて、私たちはかなりヒステリックになってましたからねえ、金がある程度の、いや父親なんかにしてみれば、金こそが幸福のすべてを保証してくれると考えていたんじゃないでしょうか。
 ですから、父親という人は、無能なわりには自分の私腹を肥やすことにはいたって熱心で、コソコソと隠れては金貸しの真似なんかしてみたりで、そのくせ、そんな金も結局は騙されたり店につぎ込んでしまうことになるわけですから、実際は心の貧困以外にはどこまでが貧困であったのかは分かりません」
 「へえ、なんか、そういうのって、本人にとっては悲惨かもしれないけれど、なんか、いかにも人間らしくって、おかしいじゃない…」
 「ねっ、あんた、それはこの行者さんのお父さんなんだから、そんな言い方したら…」
 「いえ、正におっしゃるように、人間的な愚かさという点では、まったく滑稽を絵にしたような人でしたよ。
 いずれにしても、あの高度経済成長期における営業不振ですよ。そこで毎日、金、金、金と言っているだけで何もしない父親には、もううんざりでした。それにしても物心がついてから、握った金が惜しくって手放せないなんていう愚かな人間を目の当たりにしたのは初めてでしたよ。
 しかし、これも後から思うことですが、子供を持つ家庭が必ず通過しなければならない儀式みたいなものとして、ある時期の純粋なる若者の無垢な精神を世間知らずの未熟さという理由だけで排斥して、根拠不在の親の愛なんてものを押し付けることがあるわけですが、こんなところからは欺瞞ぬきの幸福なんて生まれてはきません。こんな場合、往々にして世間知らずなのは、親のほうなのです」
 「そお、うちの親なんて、まったくの世間知らずだもんねえ…」
 「だいたい、親が親であることを必死で取り繕うなんてことが愚かなのよ。そんなことしなくたって、どうせ子供にとってみれば、親は親なんだから…」
 「とにかく、若者の屈辱感、親への不信感なんてものは、自分の発育不全が解決されていないかぎり、自棄的な行動へと急き立てる動機にしかならないわけですから、ま、こうなっては悲惨な愛の戦場というわけです。
 つまり、私にとっては、親、兄弟、家族を見定めることが表現行為であり、これが現代音楽にかかわる抜き差しならぬ生活であったというわけです」
 「ふむ、そうしてみると、なんじゃなあ、あんたの現代音楽観いうたら、生活に根差しとるぶんだけ、体制的なもんに対するプロテストの意義をもっとることになるなあ。しかも場合によっては、暴力もいとわんいうことなんじゃろう…」
 「いえ、暴力ということについては、自己変革という意味において、自虐的なまでの自己否定性を容認するということで暴力的であるにすぎません。
 当時は、六〇年安保闘争の後で、まだまだ学生運動の盛んなころでしたが、しかし私にとっては、この国における革命なんてことには、まったく興味がありませんでした。
 なぜなら、社会主義になろうと、共産主義になろうと、親子兄弟に始まる人間の基本的な関係が変わるなんてことは端っから信じていなかったということです。
 それは、どんな体制であっても、グズもいるだろうし、アホもいるだろうし、ワルもいるだろうということ。人間が自己愛にこだわり続けるという悍しい存在であることには、政治も経済も強いては芸術においても克服できない宿命であると考えたわけです」
 「ほうで、それで、そんなもんの克服が、あんたにとっては、<いまを生きる>ことの重大さになっとるいうわけじゃな」
 「はい。その意味では、かなり観念的にすぎると言われる私も、それなりに現実的であると自認しているわけなんですが…」

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 「まあ、それはええじゃろう。それよりも、もっと音楽との関わりについて話してくれんか」
 「はい。まず一番重要なことは<音楽>以前の<音>体験に覚醒させてくれたということです。つまり、ここではごく当たり前に音楽を聴こうとする欲望がはぐらかされて、ただの音体験とでもいうものが、まったく唐突に<おまえは何を聴きたいのだ>と問い掛けてくるのです。
 この音体験の中で執拗に繰り返される問い掛けは、音楽のそもそもの物語性を空しくして、ただ次の瞬間に何が起こるか分からない期待と不安の真っ只中で、どんな衝撃的事件に遭遇しても<何か聴きたい>欲望だけは見失うまいと身構えさせるのです。
 ここで私に託された武器とは、<自分について何かを語りたい>という表現の意欲と想像力なのです。そしてその想像力とは<聴きたい>欲望が粉砕されて、もはやいかなる音楽的物語も許されぬ自己喪失の崖っぷちに立たされたとしても、そんな事件を<私>的物語の中で引き受ける柔軟な感受性によってこそ保証されるのです。無論、その逆に、想像力こそがそんな感受性を育むということも言えるわけです。
 しかし、<現代音楽>という衝撃的な<音の事件>は、私の闇雲な<聴きたい>欲望を嘲笑してはぐらかし、時には<聴くという行為>そのものがとんでもない過ちだとばかりの高圧的な顔で立ちふさがり、愚弄された私の不快感を手繰り寄せては、心の平安とか幸福なんぞは所詮幻想にすぎないのだから、今さらうろたえることもあるまいというわけです。そして、そのいい証拠には、自分の心を覗いて見ろと言い放し、どこをひっくり返してみても貧り、おごり、怒り、高ぶり、疑い、おまけに恥辱と悔恨にまみれた無明無知しか見当たらないはずだから、そんな心の修羅場から目を反らしては<何も語ることはできない>はずだというわけです。
 結局、<音の事件>とは、己の心の修羅場に立ち会うことでしかないのですから、<聴く欲望>に支えられた音楽が消滅して<私>自身への物語的欲求だけが残されるのです。
 そして、そんな音楽的欲求の否定の集積によって語られる<音の事件>が、それまでに挫折と不成就性を凌駕するどんな音楽作品を<聴く>ことによっても為しえなかったことを実現してくれたとするならば、それは、今さら語るに及ばないささやかなる<私>の私たりうる確信においてさえ、すでに私たりえぬものとして切り捨てている悍しく女々しい自分を改めて掘り起こすことによってしか語れないと知る反省力を獲得させてくれたということなのです。
 つまり<音の事件>に立ち会うことが、自己愛を温存させるための<音楽の聴衆>として生き延びる傲慢さを糾弾し、まことにさもしい幻想によって語られていたにすぎない<私>を告白する事件になっていたということなのです」
 「ああ、ヤダ!! どうして行者さんって、そうなの? そんなことまでして、訳の分からないもの聴かなくたっていいじゃないの? だいいち、そんなことしてて、何が面白いっていうの?」
 「いやあ、そう言われても困るんですが、今となって考えてみれば、結局は、そういう体験こそが楽しかったとしか言いようがないんですよね」
 「ふむ、するとなんじゃな、あんたにとっては、そんな殺伐たる現代音楽も、反省的な意味においては、愛の物語たりえたわけじゃな」
 「はい、正にその通りです。そのころは、まだ愛が芸術の問題として十分に語りうるものであることを確信できていたわけですから、たとえ現代音楽であれ<愛の不在証明>ということでは、私の<音>体験も逆説的な意味で愛を生きさせてくれたわけです」
 「愛って、なんていうのかなあ、そんなに理論みたいなもんで屈折させちゃっても、まだ愛として生きられるもんなの…」
 「まあ、わしらにしてみたら、<愛の不在証明>いうなんは、取りも直さず神への不信任いうことになってしまうからな、そんなところで生きるいうわけにはいかんけどな」
 「でも、どうでしょうか、私が思うには、やはり西欧の現代音楽の作曲家にとって神とは、単に不在であるにすぎないのですよ。ちょっと留守にしているだけのことなのです。ですから彼らは、<愛の不在証明>によって神の存在が前提にされている文化の地平そのものを語る手法を手に入れたというわけです。
 そもそも<音の事件>を<作品>として提示するということが、クラシックと呼ばれる<音楽作品>の<愛の系譜>で語ることにすぎないのですから、真善美聖愛の統一原理たる神の存在は揺るぎないものとして前提にされていることになるわけです。まして、神への不信任状は、神の存在がなければそれを突きつける相手を失うことになってしまいます。
 ま、この<音>体験によって反省的に語られる<私>物語とは、愛ゆえの不信感をその愛によって回復しようとする絶望的な矛盾になっているわけですから、結局のところ、<音>体験による芸術論の存在証明は、音楽の不在証明によってしか語れない愛の矛盾というわけです。
 そしてこの空しさとは、焦土と化した愛の地平で改めて<芸術とは何か>と己の闇雲な表現欲求に任せて問うときに、<芸術を生きる>ことが叶わず<芸術のために生きる>しかない挫折感が、結局は食うために浪費されるまる一日の労働とその抑圧からくる疲労感によって、欝屈した自己主張を表現欲求へと高めなければいられないという、そんな切ない矛盾になっていることの絶望感からくるものであると気付かせるのです。
 しかも、<今を芸術論で生き抜く>ことこそが至難の最重要課題である私にとって、もしもここでこの抜き差しならない芸術論の回避を考えるなんてことがあるとすれば、それはただの現実逃避にしかならないというわけで、今さら芸術論の敗北者として生きながらえる屈辱に甘んじるよりは、いっそ芸術論で立ち往生の絶体絶命で愛の地獄へなりと落ちてやろうというわけです。
 つまりは、負けられない逃げられない、かといって十全には生きられない閉塞情況で、愛ゆえの不信感を愛の自棄行為で生きることが、せめて芸術論を裏切らぬこととして納得されるのです」
 「ねえ、その愛の地獄へ落ちる自棄行為ってなに? なにも芸術と心中ってわけじゃないんでしょ?」
 「あんた、なに言ってんのよ。自棄行為が生き延びる方法だって言ってるんだから、心中しちゃったら、ただの敗北者じゃないの…」
 「ああっ、そっか」
 「まあ、そうじゃろうな。つまり、自棄行為とは、表現行為でなきゃならんじゃろうが…」
 「そういうことです。ですから、私の愛の地獄とは、絵の中で、父を殺し、母を殺し、兄を殺し、自分も殺すしかないのです。しかもそれは、苦しみを享受するためにだけ、とめどなく繰り返されるのです。そう、思えば、握りしめた絵筆が刃物と化したときめきの快感と全身で浴びた返り血の温もりは、いまでも鮮烈な実感として蘇ってくるのです」
 「いやねえ、どうせなら心中のほうが、奇麗さっぱりだったんじゃないの…」
 「ま、そうはいかないところが、哀しいところですね。ですから、私がいつも感じていたことは、もしも絵を描かなくていいときがくれば、それは真人間になれたときだけだろうってね」
 「でもさあ、なんていうのかしら、そんなハッピーエンドでなくたって、死んでしまえば、それでおしまいになれるんじゃないの…」
 「ふむ、残念ながら、そう簡単には行かないんですよ。私の場合、このハッピーエンド以外では、挫折と絶望の果てで死ぬことになりますから、そうなってしまっては不成就性の屈辱的な欲望だけが死に切れなくて、正に愛の地獄をさまよい生き続けることになるわけです」
 「じゃ、そのハッピーエンド以外では、まったく救われないってわけね」
 「ああ、やだやだ。うっかりと芸術なんかやってられないわね」
 「まあ、私にとっては、そういうことでした。
 ですから、愛の自棄行為が、かろうじて芸術論に抵触しないで生き延びる道を探るなんて姑息なことを考えてみると、結局は芸術論を先送りしたままで愛の堕落に身をやつすしかないのです。
 つまり、がんじがらめになった仕事が忙しくなりつづけるのをいいことに、せめて開き直って遊び呆けることで、芸術論では解決しえぬ問題を捏造しつづけることが出来るのです。それは芸術論という反省力を判断中止にしておくことなのです」
 「ねえ、だけど、いつまでも、そんなにうまく行くの?」
 「ハハハ、まったく、そう、うまくは行きません」
 「なんだ、じゃ、今のは嘘なの?」
 「そうではなくて、判断中止された反省力なんかは、結局、無いも同然だと言うことです。つまり、これが芸術論に対する私の自己欺瞞であったということなんです。ですから、ものの見事に、芸術論そのものを堕落させてしまっていたというわけです。遊び呆けいてる間はそれを認めようとしないわけですから、実際には、愛の不信感が<自分とは何か><いかに生きるべきか>と執拗なまでに問い続けたことさえも、遠い青春の思い出として葬り去ってしまうことを阻止できないのです。
 そう、どんな汚辱にまみれても生き抜ける<おとな>になるのです」
 「キェーッ、<おとな>ってヤァーネェ!!」
 「ウォッホン、それはまあ、おとなに因りけりじゃな。わしらなんぞは、その点、芸術に関してはずっと純真じゃったからなあ…」
 「へえ、そうだったの。でも、ひょっとすると純真すぎて愛の諸相っやつに貧欲になりすぎちゃったんじゃないの?」
 「ありゃりゃ、あんた、なんてことを言うんじゃ。わしゃ、これでもリストじゃ。フランツ-リストじゃよ。そう、見くびってもらったら、いかん」
 「まあまあ、リストさん。リストさんが芸術論においてその純真を貫いたとしましょう。そうすると、晩年における『暗い雲』とか『調性のないバガテル』、そうあるいはいくつかの『夜想曲』なんかを理解することはいたって容易になります。
 しかし、その反面、その純真を貫くあまり既成の芸術論を逸脱することになり、神への不信任状を突き付けることになっていたことを思えば、あの瞑想的な調べに隠された背徳を見逃すことができなくなります」
 「ありゃりゃ、あんたまでが…」
 「いや、そういうわけじゃないんですが。どうですか、とりあえずは、汚辱にまみれた<おとな>も傷みを抱え、真摯な芸術家もまた克服しえぬ傷みを抱えて、誰もが生きがたき現実に涙をせざるをえない。これが人間に与えられた宿命であるなんていうのは…」
 「なんじゃか、また、あんたにええようにされたような気がしてならんが…」
 「ま、私としましては、いつの間にか汚辱にまみれきった<おとな>に成り下がっていることを、新たなる痛みとして思い知らされることになるのですが、それは当時、たまたまステレオのシステムを買い替えたことが、その足掛かりになったのです。
 そこでは、神の愛を称える西洋音楽が、なぜ現代音楽という形で神への不信任状を突き付けなければならなかったのかと改めて問いつつ、私の愛が荒んでいく現状を、たとえば運命学などというもので客観的に見定める方法を探るきっかけになったのです」
 「へえ、運命学と現代音楽って関係があるの?」
 「いや、そういう形で言われると、特別な関係などありませんが、運命学というものが何等かの超越的視座を想定した情況判断であるとすれば、そんな運命の改善とか変革あるいは離脱なんかを考えるときに、既成の西洋音楽から逸脱する現代音楽は、やはり何か示唆に富んだものを持っているというわけです。
 もっとも運命学というものは、たとえ統計学に徹するにしても、所詮は人間的浅知恵の臆断を払拭することなど出来ない相談ですから、種々の運命鑑定を並べてみれば、そのよってたつ根拠がことごとく相対化されて、まったく無力になってしまうのは当然のことなのです。そもそも運命鑑定が種々存在すること自体が、自らの無力さを露呈しているというわけです。
 それは、音楽というものが、西洋音楽のみならずそれぞれの民族に固有のものとして受け継がれ、なおかつそれぞれの神を称えるものとして歴然と存在していることにも対応することですが、ま、しかし、いかなる世界観であれ、そこで生まれ育み生かされた者が、自らの存立を否定してまで新たなる世界観を切り拓こうという問題は、それなりに重要なのです」
 「ふむ、すると、あんたは、またしても現代音楽から始めたわけなんじゃな」
 「ええ、まあ…。でも、現代音楽といいましても、シェーンベルクとバルトークあたりまででした。それからはマーラー、ワーグナーあるいはドビュッシー、ベルリオーズへ、そしてベートーヴェンの『第九交響曲』に至るわけです。
 結局、私のクラシックへの旅立ちはここまでで、これ以前にまで遡ることはありませんでした。せいぜいこの程度のことですが、これが音体験で愛を語るためのせめてもの巡礼になっていたというわけです。
 それにしても、この濃密な愛の論理が構築する調和の伽藍とは、なんと饒舌で甘美で圧倒的なのでしょうか。私は崇高なまでの調和という感動によって無残にも打ちのめされた己の粗末な理性が、その衝撃で荒んだ感性への不信感を明らかにしてしまわないうちに、ひそかな無条件降伏を企てたのです。
 つまり、未だ治癒することのない愛の飢餓という古傷は限りなく空しいままにして、ほとんど無謀としか言いようのない勢いで西洋音楽という愛欲の豊かさに陶酔してしまうことにしたのです。そして、それはワーグナーとマーラーに極まるのです」
 「おお、ワーグナー!! ワーグナーじゃよ。懐かしい、いや、なんとも懐かしいなあ…。あのころは、良かった。あんたらも知っとるじゃろう?」
 「あらら、おじいちゃん、よだれまで垂らしちゃって、そんなに興奮しちゃ、体に悪いわよ」
 「うんにゃあ、ほっといてくれ。
 ああ、ワーグナーよ、汝とは、様々な確執を超えてもなお…、それでもなお懐かしい…。汝は、偉大な才能じゃった、うおおっ…」
 「行者さん、なんとかしてよ。このままじゃ、どうなるかわかんないわよ…」
 「リストさん、リストさん、ところでマーラーについては、いかがですか?」
 「んん!? ワーグナーじゃろ…」
 「いえ、マーラーです。マーラーについてのご感想は?」
 「なんじゃ、あんたらワーグナーの話をしよったんじゃないのか?」
 「ええ、まあ…。でも、ほんのちょっと名前が出た程度のことですから…」
 「ありゃりゃ、ほうで、わしは、すっかりワーグナーと再会でけるもんと思いよった。ほうか…、でも、わしゃ、ワーグナーにもう一度会いたいなあ…」
 「そうですか、リストさんのワーグナー論は、いずれまたお聞きするとして、マーラーについては、いかがですか?」
 「急に、いかがかと聞かれてもなあ…。わしゃ、ワーグナーのほうがずっとええなあ。まあ、なんじゃよ、時代が多少違うとるからな、そんなこともあって、あんまり親近感はないんじゃが、でも、わしらの魂いうのんは、ヨーロッパの調和に育まれたところのな、芸術的なる情念いうもんを仲立ちにしとるからな。そんなんで、マーラーにも、わしらのロマン的気分が脈々と流れとるわけじゃ」
 「ところで、どうなんでしょうか、今いわれたヨーロッパの芸術における情念というのは、神の愛という絶対的な真理に負化されたヒトビトの、奇麗事では済まされない欝屈した思いとでも言うものなんでしょうか? 場合によっては、神の威光の届かぬ闇を支配する悍しき欲望に見入られた心とでもいうような…」
 「ふむ、とにかく、なんじゃよ、このジクジクしとる心の闇いうもんがなけりゃ、神の偉大さいうもんが、よく飲み込めんじゃろうが…」
 「はい、おっしゃる通りです。
 ところが、私にとっては、この茫漠とした情念というものが、芸術で語られることによって、むりやりに神の威光の陰に押し込められてしまうという苛立ちを払拭できないのです。人間の心には宗教では語り尽くせぬ闇があると思われるのに、それを神の光と陰でくくってしまうというやり方が納得できないということなのです。つまり、これが私のキリスト教的文化に抱いた違和感なのです。
 その意味において言えることは、西洋音楽とは正に神の下僕であり、それは神と人を結ぶ聖なる絆であるということ。それゆえにあまねく音楽家は、芸術家である以前にキリスト者であるということの文化の重さを背負っている。それが私にとっては、西欧文化の不可解なる不透明性として残ったということなのです」
 「ほう、ヨーロッパ文化が不透明じゃと…。それは、どうなんじゃろうか?
 わしらにしてみれば、東洋の、いや、この国の文化のほうがなんぼか不透明じゃと思うがのう。
 だいたい、ヨーロッパ文化いうもんは、神という唯一絶対者を原理とする構造なんじゃから、どこから叩いたってしっかりしとるし、明晰になっとるわけじゃ」
 「はい、まったくおっしゃる通りです。ところが、私の考えでは、その文化を支える神そのものが、そもそも不透明だということなんです。言い換えるならば、神の唯一絶対性というものの根拠に不審を抱いているということなのです。
 ですから、まったくの異教徒として、西洋音楽の迷路の中で<この音楽はいま自分にとって何んであるのか>と問い正すことになります。ところが、それは粗末な理性が広大な愛の泉に小石となって身を投じるようなもんで、まったく力のないささやかなる波紋で解消されていく愚問として処理されてしまうのです。
 しかし、それでも私はその不可解なる感動に対して、<この西洋音楽は、神は、その愛は、私の芸術にとっていかなる意味を持ちうるのか>、あるいは<はたして芸術に普遍的なる真理と美なるものが存在するのか>と繰り返し問い続けなければならないと考えました」
 「ほう、で、異教徒たるあんたに、神は芸術の普遍的なる美を保証してくれよったかな?」
 「そうですねえ、とりあえずの解答だけを申し上げるなら、それは否ということでした。実は、話が、だいぶ遠回りしてしまいましたが、ここで、あのキーワードが、自己愛の傲慢さであることを明らかにするのです。覚えていらっしゃいますか、ショパンの扉をこじ開けようとしたキーワードです」
 「おお、そうじゃった。そういえばショパンのキーワードのことは、すっかり忘れとった。
 ほんで、どうじゃったかな、そのキーワードでは、いまだショパンの扉は開いておらんのじゃったかな?」
 「はい。すっかり前置きが長くなってしまいましたが、実は、ショパンはおろか、私の心の扉も開かれていないのです」
 「しかし、なんじゃろ、結局のところ、あんたの言わんとしとるとこは、自己愛いうのんが、何等かの意味において、西洋と東洋の異文化にまたがる共通のキーワードになりうるいうことなんじゃろ」
 「さ、さすがに、リストさんですね。私の言わんとするところを、実に的確に捕らえていらっしゃる」
 「うん、そうじゃろう…。わしゃフランツ-リストじゃからな」
 「それで、まだ謎解きの出来なかったキーワードが有効な言葉として与えられたというのは、実は今から二年ほど前のことなんです。無論、そのときまで私の<芸術>と<生きること>が<自分とは何か><いかに生きるべきか>の前で挫折したままであったことは言うまでもありません。
 つまりそれは、生きることが芸術論で立ち往生し、愛ゆえの不信感を愛の自棄行為で生き延びようと企てたまま、結局は芸術論という反省力を判断中止にしておいたという、あの自己欺瞞が破綻して己のことごとくの悍しさが露見しているときだったのです」
 「ほほう、そこでキーワードが真の意味を持つことになるわけじゃな…」
 「はい。そして、これが仏教者としての自立を促すことになりました。
 まあ、ちょっとお聞きください。
 まず、われわれは、なぜこのように苦しみながら生きていかなければならないのかという問いを改めて立てるのです。この情況認識が<一切皆苦>というわけです。
そこで、われわれが自分自身においてもあるいは他者との関係においても、様々な<想い><思い><念い>がことごとくの<行動>と矛盾してしまうという事実について、そんな人間の持つ宿命的な揺らぎとかズレを<愛着><自己愛>ゆえの迷いとして見定めるのです。
 ここでは<何かが何かでありつづけようとする力>そのものを<愛>というわけですから、<何かが《何によって》何かでありつづけようとする>ことになろうとも、<愛>が<私>の存在理由であることに変わりはないのです。
 そして、そんな<愛>が人間を生かす動因になったときに<業>と言い換えられて、これが<因−縁−果−報>という因果律で人の生き方を支配するというわけです。ですから、ここで業が運命を決定すると考えるなら、この因果律は運命鑑定によって<因縁>と言われる情況判断を被ることになるのです。
 しかし、仏教においては、人間のみならずありとあらゆる事象の存在論に対して、その根拠となるところに<実体>といいうるものを想定することなく、あくまでも因果律による<関係性>のみを見定めるのです。つまり本来<無自性>にすぎないものが、関係性によって規定されるにすぎないとすれば、それは至って流動的なものでしかないため<無常性>ということにもなるのです。
 その意味で<因縁>とは、厳密な意味での運命論という決定論からは擦り抜けてしまうことになり、それを転換したり生起させたり消滅させることが可能になるのです。ここに<因縁解脱>という考え方が成り立つわけです。
 つまり、ことごとくが矛盾して非劇的なまでに<一切皆苦>から逃れられない<私>というものも、<因縁解脱>によってこそ<愛着><執着><自己愛>というそもそもの苦悩の元凶を克服することが出来るというわけです。
 これが仏教の基本的な考え方ですから、仏教にいう救済とは、無明無知の所産である<私>を、その根拠である<愛ゆえの矛盾>にまで遡って解消しようというわけなのです。そして、ここで重要なことは<遡って解消する>ということが、取りも直さず<反省力>による懴悔を要請していることになり、まず始めにその対象にしているものが<自己愛に呪縛された傲慢さ>であるということなのです。
 無論、この立場に立つならば、生きつづける限り反省的でなければならないわけですから、その終局においてなされる反省は、<愛>によって繋がれた一切の<私>を解消するものでなければならないというわけで、これが<涅槃>と呼ばれるものなのです」
 「ほう、するとなんじゃな、仏教いうなんは、<愛>を実体的な真理とは考えてはおらんいうわけじゃな」
 「はい。<愛>とは<私を私へと誘う>様々な<想い><思い><念い>にすぎないのです。ですから、そんな想思念がたとえ<力>であろうとも、それだけで<実体>と見なすわけにはいかないのです。
 つまり<愛>は何かと何かを関係づける<力>としてしか見えてこないわけですから、この<力>を解消してしまえばその根拠たる<愛>も消滅してしまうというわけです」
 「しかし、なんじゃなあ、芸術とは愛の論法なんじゃから、もしも、あんたがその愛を懴悔してしもうたとすれば、もはや、あんたは芸術を語る立場にはおらん言うことになるがなあ…」
 「さすが、鋭い指摘です。
 正に、ここに私の言わんとすることがあるわけです。つまり、私は芸術論を仏教に対して懺悔したのです。
 私にとって愛の懺悔が芸術論の懺悔である以上、もはや神を称える普遍的なる美もその根拠を喪失することになるのです。それは、すでに私が常々申し上げましたように、唯一絶対神こそが根拠のない憶断にすぎないという立場に立つならば、当然のことなのですが、とにかく<芸術論の懺悔>とは、唯一絶対神そのものの傲慢さを糾弾することでもあったのです。
 しかし、これで私の芸術論が終わったということにはなりません。今度は反省的意味において芸術を語りうる立場に立つことになるわけですから…。ただしここで芸術を通して私に見えるもは、すべて苦悩のみというわけです。
 そもそも愛が<私たりうる私>の力だとすれば、そんな力は<私たりえぬ何か>をことごとく排斥する暴力にすぎないというわけで、その排斥されるものの痛みにさえ反省的に目覚めてしまえば、愛は愛であることだけで充分に苦悩の原因になってしまいます。
 しかし、反省的な芸術論が<愛こそを生命力ゆえの苦悩>として見定めようとも、そのことが歴然と存在するキリスト教的文化を抹殺したり否定することにはなりません。なぜなら、宗教がことごとく<反省力>によってこそ育まれるものである以上、<私たりうる愛>によって排斥してしまったものの痛みを知ることが、神の限りない優しさと強さの中で己を捨てて生きることの祝福であるという、その厳粛なる感動を見逃すことが出来ないからなのです。私は、ここにリスト芸術の崇高な宗教性を見たのです。
 つまり、リスト芸術は、愛を苦悩として知るヒトビトにとって、愛にしか生きえぬ罪深き苦悩者を神への真摯な懴悔に導く道しるべとして、もはや反省的にしか生きえぬヒトビトの哀しみの中にこそ屹立しているというわけです」
 「むむむっ、ええなあ…。あんたは、年寄りを喜ばせるコツを心得とるようじゃからなあ…。しかし、なんじゃよ、それほどの反省力を持った芸術論が、なぜショパンに通用せんかったんじゃろうか?」
 「そうですねえ、今となれば、ポロネーズを書かざるをえないショパンに、抑圧された民族主義者たる者の苦悩を探り当て、共通のキーワードを見付けることは容易なことかもしれません。
 しかし、あの当時、私が辛うじて享受しえた作品においては、その作品として存在するショパンの正に作品化された自己愛が、作品によってのみショパンであるにすぎない愛であるにも関わらず、その作品が無言のうちに排斥してしまっているショパンの愛欲までも、これみよがしに取り出してみせる演奏に立ち会わせるだけのことでしかなかったというわけで、そんなことが悔やまれるばかりです。
 そして、そんな惨めな愛欲を容易に露呈してしまう表現者としての感性の脆弱さが、正に自己愛への反省のない傲慢さとして感じられたということです。
 ところが、ところがです。仏教との遭遇によって、いままでそれがどんなに苦痛であろうとも、それがどんなにいとおしくても、<私が私でなければならなかった>ことごくの自己愛を、ものの見事に粉砕されてしまっている私が、なにも、そこで失われた確信の傷みが空しくて、あるいは無性に惨めで屈辱的で、おまけに切なくて哀しくて涙したわけでもないのに、しかし、それこそが仏への帰依なんだと思わざるをえないものの中で、とめどもなく溢れ出る涙が、何ものかを溶解して生み出す胎動の揺らぎであることに気付いたです。
 私は、そんな何ものかへの熱い期待に歓喜する鈍い陣痛の苦悶に耐えながら、貧るようにして飲んでしまった自分の涙が、なんと荒んだ愛ゆえに枯渇させていた大地を潤す聖水だったというわけで、そんな聖水として私はひとつのショパンを飲み込んでしまったのです」
 「ほう、で、そのショパンとは…」
 「はい。それがやはり『マズルカ』であり『ソナタ三番』であったことは、皮肉な巡り合わせだったと思います。そのショパンとは、一九七五年のショパンコンクールで優勝したときのクリスチャン-ツィメルマンなのです。
 まずここでは、音の清浄さが特筆されるべきなのです。それは音体験から始まった私の欲求を満足させるものだったということです。無論それに見合った繊細さと表情の豊かさが、あくまでも饒舌のみに堕することない新鮮さで、音楽にほどよい緊張感を保っているというわけです」
 「しかし、なんじゃよ、その程度のことでじゃな、あんたの握っとる傲慢さというキーワードが、どうしてショパンに通じたんじゃろうか?」
 「それも結局は、私の方にその原因があるということになります。
 私はすでに仏教により自分の美的傲慢さを懴悔していたわけですから、美的感性はことごとくの臆断や思い込みを排して、その扉が開かれたままになっていたのです。そこで、ショパンの美的傲慢ささえ容易に飲み込むことが出来たというわけです。
 つまり、荒んだ愛ゆえに枯渇していた心が、無垢の砂に漂白され浄化されていたからこそ飲み込めたショパンとは、作品の前にたたずむショパンに反省を要請することではなく、私自身の反省において、ショパンの愛の苦悩に対応する傷みを掘り起こすことだったのです。それは正に共感と言いうるものでした」
 「ほうで。するとじゃなあ、あんたは、この青年のショパンによって、自らの美的傲慢さを解体でけたいうわけじゃなかったんじゃな?」
 「はい。それはすでに申し上げましたように、仏教に対してこそ懴悔し解体されていたのです。ところが、その後、この青年のショパンから、この時ほどの感動を得ていないことを思えば、正にこの自己解体こそが問題とされるべきであったということになります。その意味において、ショパンが情況のいかんに関わらず認知されるようになるまでには、まだしばらくの時間を必要としました。
 しかし、今思えば、滑稽なことですが、そもそもの私の芸術的なる生活とは、まったく闘争的で排他的な独善性によってこそ保証されていたわけですから、この様々なる臆断を芸術論のオリジナリティとして正当化するためには、私の価値判断に対しては絶対に譲れない問答無用の敵を捏造することが必要だったのです。
 そんなわけで、いかようにも生きがたき現実を欲望の真っ只中で生きることの、非劇的なる生命賛歌こそが芸術のすべてであった私は、結局、モーツァルト、ショパン、ブラームス、チャイコフスキーなどという嫌いなもの一切を十把ひとからげにして、彼らこそが、女々しい感傷を情緒的意味の調和として作品化するだけの輩と決め付けて、ただ卓越した技法のみで陳腐な愛を語るだけの脆弱な芸術論者にすぎないとしたわけです。
 ま、この程度のお粗末な偏見は、懴悔という自己解体でことごとく解消されてしまったわけですが、ここでショパンの苦悩として直感したものは、あるいは後になってモーツァルトに感じたものもそうなんですが、それは表現者以前、いや、むしろ反省以前と言うべきかも知れませんが、そんな無自覚な愛ゆえの苦悩から逃避しつづけることが、気がつけばとめどなく逃避しつづけるしかないと知ったときに、しかし結局は逃げきれないと知るその愛を<神の愛>の受肉によって解決するしかないところまで追い詰められたときに、そんな逃げ切れぬ愛の逃避行をそのまま美的なオリジナリティへと昇華しようという、その神に対する弱者の恫喝ともいいうる傲慢さについてだったのです」
 「ふむふむ、つまりはこういうことじゃな。ショパンとして作品化されとることごとくのものが、まあ芸術家じゃいうたら、本来、表現者いうことで必然的に背負うとるはずの<愛の矛盾>いうもんに対してまでもじゃ、なんら反省し懴悔する気配が伺えんいうこっちゃな」
 「はい、そういうことになります。
 そもそも私のいう表現者とは、自己探究と人格形成を主体的に生きようとする人のことですから、表現者が自らの想い思い念いに対して純粋なる体験者でありたいという欲求を持つことは当然のことと思います。しかし誰もがその欲求をそのまま表現できるとは限らないものです。表現者は、すでにこの段階でも矛盾を背負ってしまうわけです。
 しかも芸術家とは愛という神の言葉で美を語ろうというわけですが、所詮は一切皆苦としてしか生まれ生かされていない人間が表現者として芸術を語ろうとするならば、自分が自分でありえぬことの様々な矛盾を、何はともあれ不成就性の愛という満たされぬ心で引き受けざるを得ないという事態に直面するはずなのです。
 つまり芸術家は不成就性の愛を抱えた表現者として、欠落した愛を充足するために、あるいは過剰な愛を排出するために、自らの美的感性と美的理性を拠り所にした自己制御の現前で悪戦苦闘する苦悩者というわけです」
 「ねっ、ねえ、表現者っていうか、芸術家っていうのは、皆んなが、そうなの?」
 「いや、そんな保証はどこにもありません。だからこそ、芸術家たるものはせめて表現者としての自覚を持つべきであろうと考え、表現者はさらに人間の存立についてまで考えるべきではないかと言っているわけです」
 「でも、その<べき>っていうのは、行者さんの考えなんでしょうから、実際には、誰もがそうだとは限らないってわけね」
 「まったくその通りです。しかし、芸術が芸術論として語られるならば、これを踏まえない限り砂上の楼閣になってしまいます。まして自己探究と人格形成に目をつむったままでは表現者の自覚すら持つことができません。
 ですから、芸術家と表現者が、この問題から目を反らしたり避けて通ろうとすることは、芸術家と表現者としての発育不全からくる無明無知というよりも、むしろ自己欺瞞と言わざるをえないのです。したがって、この欺瞞を放置したままでいられるとすれば、それは正に反省のない傲慢さそのものの姿ということになります」
 「そうしてみると、なんじゃな、芸術家と表現者が、人間の存立について無自覚を決め込んどったら傲慢じゃいうわけじゃから、あんたの主張からしたら、作品至上主義いうなんは正に傲慢さの典型いうことになるんじゃろ?」
 「はい。その意味において、私はショパンの仕事を正に作品至上主義と考えていました」
 「ふむ、しかし、今になって振り返ってみると、わしらの時代は、やはり作品至上主義の時代いうことになるんじゃろうが、どうなんじゃ?」
 「いや、ここで私のいう作品至上主義とは、自己欺瞞の所産として言っているわけですから、時代的影響以前のものと考えています」
 「ほうか。わしが、ショパンいう才能と閃きに遭遇しとってな、しばしば考えよったこというたら、彼のサロン趣味に対するわしのコンサートホール的展開いうもんじゃった。
 ま、芸術いうなんは、より多くの聴衆の心の中にな、それぞれ共有されとるところの生命の実感いうなんに向かいおって、崇高なる愛を生きるとはいかなることかと問い掛けることじゃと思っとったもんじゃ。じゃから、わしらは、ステージで己の生きざまを演じて見せることも芸術じゃと思っとったしな、それがまた、人々の魂に直接語り掛ける手段じゃと理解しとったもんじゃ」
 「そうですか。そうしますと、リストさんの作品というのは、そもそも自らが演じるものとして、あるいはそれによって神の愛を感動として伝える手段だったというわけですから、やはりショパンとは異なる体質だったということですね」
 「まあ、なんじゃよ、楽譜にすぎん作品そのものが、愛の目的になるいうようなことは、なかったな」
 「だけど、どうしてその傲慢さっていうのが、そんな大問題なの?」
 「おおっと、それはかなり重要な質問ですね。実は、傲慢さとは、自己神格化という思い上がりだからです。
 芸術家が創造的な表現者であろうとすれば、そこにはいつも創造者たる自覚に基づく自己神格化の企みがついて回るのです。これが一神教のキリスト教的世界のことであれば神の冒涜になり、多神教を包括する仏教的世界ならばただの無明無知にまみれた成り上がり者にすぎません。
 その意味でいうならば、ベートーヴェンがあの『第九番』で歓喜に満ちて歌い上げたのが人間賛歌であったと考えてみることで、神に異議を唱える彼の創造者としての企みが垣間見えることになり、マーラーが『第八番』で宇宙的規模の創造的感動に驚喜しつつ、なおかつ芸術家たる者の傲慢さをファウスト的純粋志向に託して救済されることを願いつつ、歓喜と恐怖でうち震えていたことが容易に理解できるというわけです。
 いずれにしても唯一絶対神のない芸術世界を想定してみれば、そこは成り上がりの神々が世界制覇を求めて殺し合うだけの混沌とした神話世界にすぎないというわけです。しかも、そこで神々たる芸術家がそれぞれ愛の権化であるならば、それは宗教戦争以外の何ものでもないということになるのです。
 どうですか、もう、すでにお気付きとは思いますが、唯一絶対神のみならす自己神格化に至るまでの<神>と呼ばれるすべてのものの、この傲慢さを糾弾することこそが、この物語に君臨する作者の野望を打ち砕く私たちの使命でもあるということなのです」

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 「ねえ、ちょっと、なんか変だと思わない?」
 「何が?」
 「何がって、あんた、気が付かないの? あたしたち、さっきからずっと歩いてるのよ。それなのに、いつまでたっても上野に着かないじゃないの?」
 「ええっ、そういえば、そうねえ。いったいどうなっちゃってんのかしら?」
 「ありゃりゃ、ほうで、わしは、上野いうのんは、まだまだ先じゃと思っとったもんじゃから…」
 「確かに、言われてみるとおかしいですね。すっかり話に熱中してたもんですから、気付かなかったんですね…」
 「諸君、気付かなかった、なんて、そんなことじゃ困るね。私としては、さっさと物語を進めたいと思ってるのに、君たちが勝手におしゃべりばかりしてるから、わざわざ物語の時間を止めてまで会話の空間を拓いて上げていたんですよ」
 「ああ、また、あの作者よ」
 「ったくもう、いつも偉そうなんだから…」
 「そうか、そういうことだったんですか。しかし、あなたが、私たちに会話のチャンスを与えたということには、それなりの企みあったということでしょう? それを抜きにしては到底考えられませんね」
 「とんでもない、私はあくまでも善意ですよ。ハハハ」
 「ふん、なんか変よね。だいたいあたしたちを<かたぶとりの太モモ>だなんて呼んどいて、そういう態度が善意だっていうの?
 あいつ、絶対何か企んでるわよ」
 「ま、元気なのは結構ですがね、そもそも物語などというものは、善意によってしか成り立たないもんなんですよ」
 「そりゃ嘘だ。それは、あなたの物語的欲望を前提にしたご都合主義に対してのみ善意であるにすぎないのだ」
 「おお、これは、なかなか鋭いご意見ですな。しかし、よく考えてみてくださいよ。いいですか、物語から作者のご都合主義を排除してご覧なさい、物語はまったく成り立たなくなってしまうのですよ。分かりますか、このご都合主義がなければ、物語にはいかなる事件も起こらないし、まして起こってしまっている事件などは、その解決の手掛かりさえ発見できないというわけです」
 「それが、あなたがたの勝手な思い上がりなんですよ。物語が、正にストーリーと言われる筋書きによってしか語れないということは、ただ単にあなたがいたって凡庸なストーリー作家でしかないということを告白しているだけのことなんですよ。私としては、もっと可能性のある作者だと思ってましたがね」
 まあ、そんなわけで、しばらくは、彼らの好きにさせておくのも方法の一つと諦めて、私は改めて純文学的精神世界ともいいうるこの空間に新たなる情況設定をしたいと思う。
 何はともあれ私の美的意味を担う性器崇拝に見向きもしない行者が、彼自身の美的傲慢さへの反省において性器崇拝に覚醒してくれることを願いつつ、上野に向かう広小路の凍てついた物語空間を鋭角的に切り拓き、再び行者の過去に遡る遠近法を設定し、あの愛の不信感をがむしゃらに生きた鮮血の温もりを私の神性に対する懴悔へと昇華させる手だてを考えて、それと同時に、ここでは未だ意味を持つことのない夜空の無数の輝きに、いずれは誰もが回帰する生命の宇宙的なる焦点を位置付けて、ここに過去に向けて拓かれた遠近法的物語世界からは逆に、今度は今と未来を無限に拓く遠近法を設定するというわけで、この拮抗する空間の軋みにジクジクとした中年男の欝感を見定めて、あるいは、冬の星空が都会にしては明晰すぎるほどであることが、かえって明晰さだけが頼りで構築する幻想をいつのまにか神秘的に見せてしまうことがあるように、広がりつつ閉じておまけに明晰すぎて神秘的になってしまう空間に中年的哀しみの僥倖を見るつもりではあるけれど、それは多分うんざしているはずの心優しい読者にさらなる忍耐をお願いすることになるかもしれないが、ここは私の善意に免じてお許しを頂くこととして、彼らにもう少し時間を与えたいと思ってはいるものの、どうも行者の反省的なる感性が、あの顔に見合った潔癖性でひたすら観念的に整型化した過去ばかりを振り回すことになっても面倒だから、ここはひとつリスト老人のベッチャリとした具体性で物語的現実を明らかにしてみよう思ってみても、リスト老人の頼りない硬質の靴音がなんとか物語を規定しているだけにすぎなくて、行者のヒタヒタズリズリという至って非文学的なるゴムゾウリの足音が、物語空間のことごとくの約束を弛緩させてしまうのだ。
 「ねえ、どういうことなの? あいつ、急に、いなくなっちゃったみたい…」
 「しばらくは、成り行きを見守るつもりなんでしょう」
 「あんたら、さっきから、何をゴチャゴチャいうとるんじゃ」
 「あれえ、リストさんは、いまの作者の声を聞かなかったの?」
 「んん? わしゃ、残っとるドーナッツが気になっとったもんじゃから、ほいで何も聞いとらんかったけど…」
 「ああ、おじいちゃん、食べすぎじゃないの? もう、いくつも残ってないんでしょ?」
 「ふむ、どうやら、わしゃ、こういうなんが好きなんじゃな。今まではあんまり気がつかなんだが…。ほいで、その作者いうなんが、なんじゃというんじゃ?」
 「ええ、まあ、たいしたことじゃないから、いいでしょう…」
 「だけど、あたしたち、いつになったら上野に行き着けるのかしら…」
 「まったく、皆目見当がつきませんねえ」
 「それで、行者さんのお話は、もう一段落してたんですか?」
 「いや…、そう改めて聞かれると、言葉に詰まってしまいますが…」
 「そういえば、どうなんじゃ、あんたが芸術を懴悔してしもうた言うようなことの後で、改めてショパンを認知することになったいう事情は…」
 「そうですね…、それはアルヘリッチの『前奏曲集』によってでした。
 思えば、私の言う自己愛の傲慢さは、彼女によってこそショパンを語るのに充分なキーワードに成りえたというわけです」
 「ほう、アルヘリッチじゃな。どうやら、あんたの言いよるところが見えてきたような気がするな。まあ、あれも美的傲慢を担うには、まったく不足のない役者じゃからな、ヒヒヒ」
 「正に、妖艶で燃えるような情熱を発散しつつ神経質でわがまま、おまけに美に取り付かれた強欲な中年女というわけですね。
 たとえば表現者が仕掛ける事件の現場とか、芸術家の創造の現場において、すでにショパン的と呼ばれる感覚があるとすれば、彼女自身も共有しているはずのそれを、まったく人ごとのように糾弾してみせる強靭な音楽的理性が明晰でいいと思うわけです」
 「ふむ、しかし、なんじゃな、それを彼女の体質からくる表現欲求に還元してしもうたら、どんなにええ瞬発力も衝撃的な訴求力も、ただの才能を称えたことにはかならんよ」
 「はい。あえて言葉を変えて言えば、アルヘリッチのショパン的明晰さというわけです。これはどういうことかと言いますと、私の反省的地平でいまだ芸術的なるものを感知することのできる何ものかがあるとすれば、それがこの場合は、アルヘリッチの反省力によって叩き出されてショパン的意味を担うことが出来るようになったものというわけです。
 それは、芸術論がいつもそうであるように、表現の行為性と経験性の狭間で一瞬の自己喪失に遭遇する<驚き>を、改めて<感動>として受け止める自己認識が、結局は、たとえ一瞬であれ理性の屈辱であることに変わりのない自己喪失を取り繕うために、美的感性に身を委ねるという政治的判断の認識であるというわけで、性懲りもなく驚いては感動を繰り返す感受性の永劫運動を反省的に対峙化することなのです」
 「ふむ、まあ、演奏者にとっての音楽いうなんは、楽譜という美的記号の音楽的意味充実じゃからな。しかし、その創造性いうたら即興とどれほどの違いも無いいうわけじゃ。じゃから、その創造性が保証されとれば、楽譜が負化しよる作曲者の語り尽くせぬ思いまでも語ることがでけるいうわけじゃな。
 つまり、なんじゃよ、アルヘリッチは、その創造性においてじゃな、ショパンを糾弾しうる自分の芸術論を語っとるわけじゃ。しかも、それがいうたらなんじゃが、同時にじゃな、アルヘリッチの、ショパンではか語りえないところの反省的自己認識になっとるいうわけじゃ。ほんで、あんたは、その創造性に立ち会うて、また自分の物語を語っとるわけじゃ」
 「はい。結局のところ、私に驚きと感動があるかぎり、反省的事件として喚起された芸術論をショパンによって語り、あるいはアルヘリッチによって語ることが出来るわけで、それはまた私への新たなる反省論として返ってくるというわけです。
 つまり、私にとってショパンとは何か、そしてこのショパン的課題はいかに生きられるのかという芸術論へと再生されるのです」
 「すると、なんじゃな、あんたにとっては、アルヘリッチがじゃ、ショパンのもっともショパンらしいと思われるような何ものかを、厳しく糾弾しとったいうわけじゃ。それが、あんたを感動させたいうことじゃな」
 「そうです。それが正に傲慢さだったわけです。
 ショパンの傲慢さ、アルヘリッチの傲慢さ、そして私の傲慢さが、美的確信を超えてもなお排他的に激突する衝撃の快感なのです。そして、この惨状が、感動の現前で一瞬停止する理性を超えて政治的に決着をつける芸術的理性に委ねられたときは、アルヘリッチが自らの傲慢さで問答無用の決着をつけるわけです。たとえば<女々しい奴め>と吐き捨てるように…。
 しかし、いつも苦悩者ショパンに付いて回る霊的な不成就性が気になるのです。つまり傲慢な自己愛にまつわる欝感というやつです。
 ショパンはなぜ、あんなにも憂欝なのか…。しかも、これはショパンがかつて生きたであろう具体的事象とは関わりのない、いわば芸術論としてのショパン的欝感という問題なのです」
 「まあ、そうじゃな。でなきゃ、わしが、今さらあんたからショパンについて聞かせてもらう意味がなくなってしまうからな…」
 「ここで、とりあえず芸術家の憂欝について言えることは、芸術家の繊細なる感受性で育まれる無垢な愛の確執は、人目につかないところで温存させることによってしか社会生活に適合しえぬという傷みと屈辱感、あるいは鋭利な感性で辛辣に言いたいことを言ってしまっては生きられぬ挫折感に苦悶する姿というわけです。
 ま、この辺りを手掛かりにして考えるときに、私が、ショパンの傲慢さによって掘り起こした欝感とは、いかにして克服されるのか。これが新たな問題になるわけです」
 「へえ、また、新らしい問題なの? このぶんじゃ、あたしたち、上野には、辿りつけないと思うわ…」
 「でも、私たちに許された可能性の中で、作者に主導権を与えずに物語の未来を拓くには、やはり作者の陰謀に絡め取られないように話し続けることなんですよ」
 「だって、あんまり遅くなっちゃったら、今日は日曜日だから、お店閉まっちゃうかもしれないわよ」
 「あんたら、ここまで来たんじゃから、今さらゴチャゴチヤ言うたらいかん。もうちょっとじゃから、静かにしとらにゃ…。こういう芸術論いうなんは、そのときの気分が肝心なんじゃよ」
 「ふうん、まあ、ピアノバーにこだわらなければ、まだどこでもやってるから、いいげとね…」
 「行者さん、ピアノバーのことなんか、あまり気にしなくてもいいのよ。
 たぶん、あたしたちが自分の問題として考えてみても、あの作者なんかに支配されない生き方っていうのが重要であるはずなんだから…。そのためには、行者さんに次々と問題を出して貰うことは好いことなのよ」
 「とにかく、グチャグチャ言うとらんで、早く続けてくれんか…」
 「は、はい。では、ここで改めて、ショパン的傲慢さがなぜ憂欝なのかを考えてみる必要があると思います。
 まず表現者が、たまたま芸術家でなければならないような愛の矛盾を抱えた体質であるとすれば、その表現者は社会に対する不適合性ゆえの屈辱感と、言いたいことが充分に言えぬ挫折感に付きまとわれてしまうわけです。ところがここで、幸か不幸かショパン的傲慢さに目覚めてしまうと、今度は作品こそが神の愛の受肉であるという作品至上主義によって、作品たりえぬ芸術家が美と愛から疎外されたただの苦悩者として放り出されてしまうのです。
 つまり、不適合性の屈辱感と欲求不満の挫折感から辛うじて芸術家たりえたとしても、様々の矛盾を抱えたままで生き続けなければならないというわけで、結局は過剰に走るか欠落に陥る自己制御の作品を提示するしかなくなって、神の愛を受肉しえた保証もないままにその作品からも疎外されたまま、再び苦悩者へと突き落とされてしまうという惨憺たる有り様になってしまいます。
 もう、こうなっては、この不成就性の閉塞情況からは抜け出られないわけです。これが私のいうショパン的傲慢さからくる芸術家の欝感というわけです。
 ここで、この欝感から逃れる最良の方法はといえば、それは芸術家を止めることです。まず、これに勝る方法はないといえます。むろん、これはすでに私の問題としてもお話ししたことですが、自己欺瞞というおまけ付きになるわけです。
 あとは、自らの作品において具現化しているかどうか分からない神の愛を、苦悩する芸術家もろとも包み込んで祝福してくれる限りない優しさで語ることです。これは、どういうことかと言いますと、芸術家たることが、神の祝福に無条件で浴することのできる特権者であると思い上がることです。つまり、これはとめどない憂欝からは逃れられない芸術家が、身を削る思いでする表現活動に与えられるべき恩寵であると考えることが出来ます。
 ま、芸術家はもともと神の下僕なんですから、欝感を克服する免罪符が与えられて当然というわけです」
 「でも、行者さんの場合は、それじゃ答えにならないんでしょ?」
 「そういうわけです。結局、この憂欝を克服するためには、愛の矛盾、強いては愛そのものを克服するしかないというわけです」
 「ふむ、やはり、あんたのいう、仏教じゃな…」
 「はい」
 「しかしじゃ、どうも納得がいかんのじゃ。まあ、あんたがいうようにじゃな、仏教が、生命力ゆえの苦悩を愛と言いよる、それはそれでええ。しかし、人が人として存在するかぎり逃れられんいう苦悩が愛なんじゃから、人がじゃ、その能力の中ででける範囲のことで、どうしてその愛を克服することがでける言うんじゃ?
 ひょっとして、仏教にいう救済いうのんが、人でなくなることじゃ、そう言うならべつじゃが…」
 「はい。先ほど、ちょっと申し上げましたが、仏教にいう究極の救済とは、愛によって繋がれた一切の<私>を解消することであり、これを<涅槃>と呼んだわけです。ですから、この涅槃に入るということは、もはや永劫に人としても回帰しないという意味ですから、人ではなくなることと言えます」
 「すると、どういうことになるんじゃ。あんたは、仏教に懴悔して救われた言うとったが、しかし、相変わらず人としてじゃな、わしらの芸術にも感動しよるいうんじゃから、あんたのその涅槃はどうなっとるんじゃ?」
 「そうですね、とりあえず簡単に言いますと、仏教の救済には三つの段階があるというわけです。これは仏教の常識というわけではなく、あくまでも私の仏教論ということになります。そこでまず初めが<因縁解脱>、次に<成仏>、そして最後が<涅槃>です。
 様々な愛の矛盾を因縁という形で理解するわけですが、これをまずマイナス要因から無力化して克服していくのが因縁解脱というわけです。そして、<私>を拘束し束縛しているものが解消されていくに従って、時間とか空間という束縛からも解放された霊的な意味における救済に到達するわけです。これが成仏です。そして、死に際して一切の霊的な関係も解消して涅槃に入るわけです。この涅槃を<涅槃寂静>というわけです。
 そして、ここにいう三つの救済の領域は、人であることのみならず死後と生前の霊的人格も共存しうる世界というわけです。言い換えるならば霊的世界にまたがる救済論になっているというわけです。むろん霊的世界そのものは人々の文化の数だけある多様な世界ですから、救済論も仏教やキリスト教のみならず種々のものが錯綜して混在しているというわけです。
 ところで仏教の場合、霊魂の絶対的実体性を主張しませんので、霊的世界を人間界より上位の構造として考えるということもありません。そこで涅槃寂静に入れるのは<心身一如>の悟りを<主体的に拓ける人>でなければなりませんから、その意味において修行としての自己救済を重要視するわけです。つまり心だけの変則的存在である霊的人格は、主体的な自己救済を貫徹することが出来ないため、<追善供養>という他者からの救済を当てにしなければならないというわけです。
 したがって私が体得した救済とは、芸術論によって掘り起こした愛の矛盾、つまり芸術的体質の自己愛ゆえの傲慢さを解脱したということなのです。その意味においては、<私>に関わるささやかなるマイナス要因を無力化したにすぎないというわけです」
 「ふむ、どうやらあんたの救済は、オールマイティーの免罪符いうわけじゃないんじゃな」
 「そういうわけです」
 「ねえ、行者さんの考えでは、そもそもの芸術論でいう神様っていうのは、どこにいることになるの?」
 「そうですね、成仏の成り立つ霊的世界だと思いますよ。仏教でいう、この霊的世界というのは、本来、古代インドにおける混沌とした宗教観を包括する領域だったわけですから、それこそ様々の神々と霊的仏が住まう世界だったわけです。その意味においては、霊的仏もいかなる神も愛という原理において同格の存在理由を持っていたといえるかもしれません」
 「しかし、なんじゃな、神の愛は、神の普遍的な意志と考えることがでけるが、あんたの言う愛は、どう考えてみても、いたって人間的な自己愛という感じを拭えんのじゃがなあ…」
 「そうですか。そうすると、私の言う愛の愛たる根拠をもう一度明らかにしなければならないってわけですね」
 「ふむ、まあ、そうじゃな…」
 「そもそも仏教では、愛が生起してくる根拠を<想い><思い><念う>ことだと言っているわけです。この点についてはすでに何度も語ってきたところですが、その愛がさらなる<想い><思い><念い>を生起させる根拠になるというわけで、こういったことを成り立たせるもとを<法>というわけです。つまり原理と考えてもいいかもしれません。
 ところが、仏教では、この<法>にしたところで、それは存在論における形而上学的な領域の一つの考え方にすぎないというわけです。つまり形而上学においては、しばしば臆断に基づく断定が為されるが、仏教ではこれを極力斥けて、ことごとくの臆断をとりあえず措定された抽象的な意味にすぎないと考えるわけです。
 そこで、このような<法>のありかたを<空>というわけです。したがって愛の原理を想定することは可能だが、それは実体としてあるわけではなく、あくまでも<空>に帰すことのできる抽象的意味にすぎないというわけです。
 そして、この愛の原理が現象力として見られたときには<業(カルマ)>ということになるわけです。この業こそが<輪廻転生>の動因となり<因果応報>という関係性の世界観を構築するわけです。
 つまり、仏教で愛を克服するということは、この因果応報さらには輪廻転生の閉鎖的世界観から解脱することなのです。言い換えるならば、ここでいう<空>を<空観>として体得することが、まず一番初めの解脱ということになるわけです。
 空観に立つということは、ことごとくの事象が相対化されて、形而上学的断定に基づく実体が関係性へと還元されることになります。ですから、空観を生きるということは、愛という業で生かされてはいるけれど、その愛に執着することなく法のおもむくままに自己浄化の修行生活を貫徹できるというわけです。
 結局、仏教では、いかなる世界観も空観へと還元可能な<とりあえずの姿>にすぎないというわけですから、たとえ愛であれ空によって無力化しうるというわけです」
 「しかし、なんじゃなあ…。愛が実体ではない、単なる関係性の想思念にすぎんというんじゃから、それでは虚構になってしまう。愛が虚構じゃいうことになってみい、この世は空しいばかりで、なんの喜びも見い出せんことになってしまうで…」
 「そんなことはありませんよ。現に、私は楽しくやってますよ。恒常不易的な実体などをわざわざ想定して、それに縛られるよりは、ずっと気軽でいいもんですよ。ま、この解放感は、快適遊感覚とでもいったらいいんじゃないでしょうか」
 「すると、あんたの懴悔いうなんは、その空観によって為されるいうわけなんじゃろうが、いったいその空観は、どうやって体得でけるんじゃ…」
 「そもそもの空観とは、知見ですから、始めは自己否定性の知識にすぎません。しかし、この知識を苦悩にまみれた生活の中で検証し理解すること、つまりこれが<悟り>ということであり、この立場をとることによって、ことごとくの束縛、苦悩が解消されていくことを体験し体得しうるというわけです」
 「しかし、わしらにしたところで、神の実体性とは、始めは知識なんじゃ。ところがそれを信ずることによって救済されるからこそ、神の愛を体得でけるし、自分の愛を普遍化することがでけるいうわけじゃ。わしらにしたところで、この確信には、なんらやましいところなんぞありはせんのじゃよ」
 「リストさん、それは、こういうことです。
 仏教のそもそもの空観とは、まず<見定める>ことなんです。例えば、<ある>とか<ない>とか言われているだけで、いま検証のしようのないものに決断を下してそれで好とするように、根拠の分からないものを頭っから信じたりはしないのです。ところが、リストさんの神は、まず<信ずる>ことを要請してくるわけです。そして信じない者は単なる不信心として無視されるに留どまらず、異教徒として排斥されることにもなりかねないというわけです。
 ま、私の立場からすれば、それはあまりにも偏狭で独善的にすぎると思いますが、しかし<信ずる>ことこそがたとえ迷いの元凶であるにしても、それは<無>から<有>を生み出す力であり、ただの想思念を実体として生起させる動機であるのですから、非常に重要な働きであることを認めなければなりません。
 つまり、信じられるなら、すでに救済されているという事実が重要なのです」
 「そりゃそうよね、相手がどんなに悪い男と知っていたって、好きになって信じてしまえば、回りで何を言われたって、それまでだもんね」
 「そうすると、行者さんにとって信ずるってどういうことなの?」
 「それは、空観によって生きようとする自分の反省力を信ずることになるわけです。言い換えるならば、どうしたって私たりうる私では在りえないという自分の知見を信ずるしかないわけです」
 「じゃ、仏様を信ずるわけじゃないのね」
 「一概にそうとも言えないのですが、そもそも仏とは、空観を具象化したものなのです。それは霊的意味においても同じことですから、仏を信ずることによって霊力としての救済を享受できたとしても、その究極的な目的はあくまでも空観の体得であることに変わりはないのです。
 つまり闇雲な信心は妄信にすぎないというわけで、<信ずる>ことも空観で<見定め>られて浄化されなければならないのです。繰り返しますが、そもそも<信ずる>ことこそが迷いだということです。
 いまもちょっと触れましたが、仏への信仰による救済を<現世利益>ということに限定するならば、たとえ信ずることが迷いであったとしても<抜苦><与楽>の一時的効果はあると言わなければなりません。それと同時に、地縁血縁の中でしがらみとなった苦悩の救済は、その地縁血縁の中で醸成され育まれた救済者としての霊的仏に仮託した自利利他の協働的関係による救済を想定することも可能なわけです。しかしこの救済論が<即>涅槃寂静に導かれることはなく、あくまでも霊的世界にとどまるものと考えなければなりません」
 「しかし、あんたの言うとることを聞きよったら、神の名のもとに開かれる宗教裁判が、神自身を裁いとるいう地獄図が浮かんでくるようじゃ」
 「まあまあ、ご安心下さい。<仏>は、リストさんの神を裁いたりはしませんよ。ただ芸術を愛の矛盾にまで遡って懴悔しようという者には、それなりの生き方を示してくれるという程度のことなのです。
 つまり、ここではもはや芸術家たりえぬにしても、宗教的人格形成のために芸術的手段を使いうる宗教者になれるというわけです」
 「ほう…。しかし、あんたの考えでは、仏教芸術いうもんは成立せんのじゃないか?」
 「いや、芸術家が仏教をモチーフとして扱うということは在りうると思いますし、あるいは、仏教的造形を芸術論で語ろうという人がいるかもしれませんから、その意味においては仏教芸術が成り立つと思います。
 しかし、それは、あくまでも芸術が表現者の生き方に関わらない作品至上主義で良しとするヒトビトにとってのことなのです」
 「するとやはり、わしらが思うとるように、芸術家がそもそも仏教者であるいうことはないんじゃな?」
 「そうですね。正におっしゃるとおりです。
 仏教者が芸術家でいられるとすれば、仏教者が自らの生き方を棚上げにしているか、芸術家が自らの生き方を棚上げにしているというわけで、いずれにしても一方に対する背信行為を免れることはないのです。
 とにかく、仏教者であるならば、芸術を生きた者も芸術に生かされた者も、ことごとく芸術を懴悔しなければ仏教を生きることはできないというわけです」
 「そうしてみると、なんじゃな、わしらの神にしてみれば、自己否定になるような芸術など、端っから許しはせんじゃろうがな…」
 「ま、そうでしょうね。でも、それはどうなんでしょうか、西欧の知見というものが、そもそもはエデンの園におけるアダムとイブの過ちに始まると考えるときに、人が知恵に目覚めることの小賢しさが原罪であるという後ろめたさを抱えているということ、言い換えるならば、もしも人間的知見が神の唯一絶対性を犯すことにでもなれば、神は人間の過ちを許しはしないだろうという、そんな闇雲な恐れを払拭できないということと関係があるからじゃないんですか?」
 「うんにゃあ、今更そんなことを言い出す必要はないんじゃ。ま、せいぜい勝手なことしたらあかん言う程度の倫理として言われるにすぎんのじゃ。それというのも、わしら芸術家にとっては、あのゲーテのいいよるファウストがあるから心強いんじゃよ。
 そうじゃろう、ファウストのあの自己愛に対する傲慢なほどの純粋なる想思念が、正に人間的知の悍しさであるにもかかわらず、結局は神の祝福に浴することが出来けるいうのじゃから、わしらにはそもそも免罪符が与えられちょるいうことなんじゃよ。それは、わしらが芸術家であるかぎりは、わしらが何をしようとも神はお許しになられるいうこっちゃ」
 「ふむ、確かに、その意味においては、神は決して自己否定はしないわけですね。
 しかし、どうなんでしょうか、芸術家として免罪符を得られているはずのリストさんが、しかも晩年になってわざわざ僧侶になられたというのは、いったいどういうことだったんでしょうか?」
 「そっ、それはじゃなあ、まあ、結局のところ、あんたの言いよるショパン的欝感いうことなんじゃよ。それも、一人の<宗教-者>として芸術を全うすることが救いになるという程度のことではなく、ヒトビトに普遍的な愛を伝えうる<宗教-家>としての芸術を考えとったからなあ…。
 そもそもなんじゃよ、美による欝的な苦悩克服いうなんは、そこに宗教的な神秘体験を拓けぬかぎり、芸術家の不成就性の行為いうもんだけが、挫折したまんま放置されるいうことになってしまうんじゃな。正に、屈辱という苦悩じゃよ。
 この宗教的な神秘体験から考えたところで、やはり訴求力いうなんを無視でけんとするなら、<宗教-家>であるほうがええというわけじゃ。
 そんな意味からいうたら、わしは、常々プロテスタンティズムの一翼を担ったバッハを尊敬しとったがな、わしにも、そんな宗教的な布教活動いうなんをしてみたいという思いがあったいうことじゃな」
 「そうですか。そうするとリストさんの場合、宗教への自覚というものが、どちらかというと、自己救済からではなく他者救済という立場にあるというわけですから、やはり、名だたる演奏家としての面目躍如といったところですね」
 「ほうで、そういうてもらえると、わしとしても、悪い気はせんよ」
 「私の場合は、リストさんとは逆に、自己救済がまず先にありましたからねえ。しかもそれが、芸術以前の単なる表現行為という段階で最重要課題になっていたわけですから、表現者という自覚に基づく日常生活を後から芸術で武装することが可能だったというわけです。ま、このことが、<日常生活の芸術化>という発想を可能にもしたわけですが、それと同時に芸術を破綻させる最短コースでもあったというわけです。
 ですから、表現者が自己救済を貫徹するために仏教者になってしまえば、芸術は直接生き方に関与することのない単なる手段に成り下がってしまうのが当然の成り行きというわけです。
 何遍も繰り返して申し訳ないのですが、私にとって芸術とは、懴悔されるべき迷いにすぎなかったということだったのです」
 「しかし、どうなんじゃろうか、今更こんなことを言い出して申し訳ないんじゃが、あんたの芸術論は、それなりに生命認識に関わるほどの大問題だったいうんじゃから、その、なんじゃよ、わしらにしてみると、その空観なんていう曖昧なもんで、どれほどの懴悔がでけたというじゃろうかと思えてならんのじゃ。ま、そのへんが、どうも、今一つ納得でけんところなんじゃな。
 そうじゃろう、そもそも宗教に帰依するほどの懴悔いうたら、己の存在をその根底からくつがえすほどの絶対的な、そう神秘的なまでの衝撃力で総括されることなんじゃから、あんたほどの自意識を持っとるもんを懴悔させる力いうたら、どう考えたって神ほどの絶対者でなければならなん思うんじゃがなあ…」
 「ふむ、実はリストさんのおっしゃることは、よく理解できるつもりなんですが、その件について、私がお答えすると、またリストさんとの相互理解にひびが入ってしまうような気がしてならないんですよ」
 「ほほう…。また、わしゃ、言わんでもええことを言うてしもうたかな…」
 「いや、そういうわけではないんですが…。
 そうですねえ、敢えて、誤解を恐れずに言えば、私が芸術を懴悔するということは、私の美的傲慢さによる自己神格化を懴悔することだったというわけです。つまり、それは暴力的な、あるいは無反省な自己確信とリンクされた神という唯一絶対なる価値こそが、そもそもの迷いであると悟らなければならなかったということなんです。
 その意味において、唯一絶対者を否定しつつ、なおかつ救済の道を示していた仏教こそが帰依するにふさわしいものだったというわけです」
 「おお、そういうことじゃったな。要するに、わしは、自分でさわらんでくれと、あんたに言うとることを自分から言わせようとしとったわけじゃな…」
 「ええ、まあ、そういうことになります」
 「ほうか…、しかし、どう考えてみても納得でけんのじゃが、その単なる倫理観に過ぎんようなもんが、どうして宗教たりうると言うんじゃろうか?」
 「それは一般論として言うならば、やはり救済者としての仏を想定した信仰生活があるからですよ。しかし私の場合は、この信仰生活というものが、霊的仏の他者救済力にばかり加担したものであれば、これを無条件で受け入れるわけにはいかないということです。
 それはなぜかと言えば、すでに語ったことでもありますが、<信ずる>ことが迷いであるという知見を取り下げることが出来ないからなんです」
 「ほうか、やはり、そこへ行ってしまうわけなんじゃな…。しかし、なんじゃなあ、わしらにしてみれば、やはり神のおらん芸術も、絶対者のおらん宗教も、不可解千万というところなんじゃがなあ…」
 「でも、どうなんですか、そもそも神の下僕でしかない芸術家は、多少の思い上がりがあって創作活動をしたとしても、結局は神との和解のために、己の思い上がった芸術を懴悔して神への帰依に対する証にしているんじゃないですか…。そう考えてみれば、宗教に懴悔する芸術なんて言ったって、そんなに不自然なものじゃないと思いますがねえ…」
 「そりゃそうじゃが、あんたが言うとるのは、そんな生易しいことじゃないじゃろうが、そうじゃろう? あんたは、正面切って神の自己否定とまでは言わないにしても、神自身に自分を信じてはいけないと言わせることに、なんら異議を唱えるつもりなんかはないんじゃろうが、ん?」
 「むむ…、まあ、そういうことになりますが…。
 しかし、私としては、無反省に、あるいは楽天的に宗教の普遍性なんかを信ずる立場にはありませんので、私のごく個人的な宗教観と芸術論で西欧の文化を否定してしまおうなんてことは考えません。だいいち、歴然と存在するものを今さら否定したからといったって、たちどころに消滅するはずもないし、まして<ある>ものを<見ない>というのはそもそもの主義に反することになってしまいます」

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