(2) リストの出現とは…



 さて、退廃的妄想へと堕落しかねない観念的マスターベーションの先鋭的なる感覚世界が、その無垢な情熱と儚い理想ゆえに円満にして健全なる身体的欲求の前ではいとも簡単に挫折せざるをえない哀惜と屈辱と穢れの問題を、例えばひとつの芸術的判断を表現行為へと発動させる情念の自己目的的な意志の力が社会に対峙して必然的に担う苦悩として言い換えるならば、ここではまったくの独我論を芸術論と言い換える後ろめたさを払拭することはできないが、しかし、それがいかに荒唐無稽といわれようとも芸術的価値という摩訶不思議による自己統一に向かって生きるときの喜びは、誰もが羨む爆発的な情熱の幻惑的な弁証法的構造として拓かれるはずだから、たとえ動脈硬化の高僧名僧が仏教の非実体的なる関係論で、ことごとくの実体論を無明無知と決め付けて一歩たりとも譲らないと立ちふさがったときでさえ、あえて触らぬボケに敵は無しと身を翻し、問答無用の明快さで<快適>か<不快>による自己同一性こそを回答とする生活観を掲げうるというわけで、いまさら人間の存立構造を<精神と身体>としてあるいは<主観=主体>と<客観=客体>に整型化して、しかも自らの存在理由を絶対者のロゴスのみならず物語作家の言葉によってさえ実体的に正当化しうる不滅の二元論を真摯な確信に満ちて生きられると声を張り上げるまでもなく、ここでは言語と意味を論理的に構築することの楽しみも、そしてしばしば自らの観念的欲求によって破綻させてしまう身体的疼きさえも、それらは、どれもこれもがささやかなる理性によって眩く感性の暗黒において容易に原罪意識として語りうる至って日常的な<生命力ゆえの苦悩>にすぎないと知ることで、それが同時に密かなる法悦によってこそ<私たりうる私>として了解されるはずのときめきであることを見逃さずにすめば、迷妄混濁を引きずったありとあらゆる人間的知は無言の快適安定志向の生理作用に支えられ、反省的にも反省以前的にも作者たる私の超越的尊厳を称える聖なる神話世界を<物語>として実現する動機へと導かれるのだ。ムハハ。
 ところで、いかなる神もいちど神の神たる喜びに目覚めてしまえば、それはいかなるヒトビトの誹謗にも降ってわいた艱難辛苦も乗り越えて、この喜びと感動だけは手放したくないと思うのが神のみぞ知る哀しみに他ならないけれど、あのワーグナーの『ニーベルンクの指輪』で神々の長であるヴォータンの失意が綿々と語られていくという女々しいほどの屈辱を引き合いに出すまでもなく、私は、すでに失ったものの幻想に捕らわれて自らの境遇を語れば語るほどかつての尊厳を損なうことになるというよくある神の失墜を回避するために、あるいはまた、迂濶に物語に迷い込みいつの間にか語られる身分に成り下がり自ら語ることによって超越者たりえた権能を喪失してしまうという失敗を犯さないためにも、ひとりの芸術家でありキリスト者である老人を、この物語における私の神たる喜びである<美的意味の充実>へと誘う役柄として設定し、この秋葉原の『ミスタードーナッツ28号店』へと送り込もうと思うけど、もはや日曜の喧噪も粗野な手続きの北風に運び去られ、ただ光の途絶えた精神世界としか言いようのない吹きっさらしの街に、かつて情熱と感動を綿密な計算で記号化しうると称えられた天才の神秘的なる決断力が、たぶんその死という絶対的なる確信によって自らのことごとくの不成就性を浄化したであろう精神を、もはや禁欲さえも棚上げにしてはばからない原罪意識の肉化として、永劫の沈黙を語るにふさわしい丈の長い聖職者の黒い僧衣に包み、霊的意志の領域から物語世界へと存在の確かな一歩を踏み出そうとするそのときに、この街の現実的なる在り方の上野に向かって流れる風がその冷たいほこりの素っ気なさで、あたかも神の威光の届かぬ世界へと吸い込まれる擦り切れた人間的なる欲望のさざめきを感じさせ、老人はなんとも胸騒ぎを押さえられない迷いのなかで僧衣の裾を翻し、いつまでもその一歩さえも踏み出しかねているけれど、吹き抜ける風が人間的欲望を担うがゆえに霊的世界から流れつづける風でもあることに気づけば、すでに肉化している芸術家の意志が、まだ無表情であるがゆえに平安にして穏やかなる霊的感動として沸き上がり、今ようやくにして物語的人格への結実を成し遂げて事なきをえた音楽家フランツ-リストの出現が可能になるのだ。
 『ミスタードーナッツ』にとっては、この日はなんと不可解にして気の重い夕暮れであることか。
 すでに閑散としているハッピー気分的函数は、あたかも快感のブラックホールを飲み込んでしまったかのように、それも本来の繁盛店ゆえに形骸化させた笑顔が哀しくて、まるで神経症のとめどない痙攣をそのまま凝結させてしまった閉塞情況というわけで、どこのファーストフードにもいる店長がストライプの半袖シャツに蝶ネクタイなんかをして、それも『ミスタードーナッツ』に限っていえばバリカンで刈り上げたドーナッツカットも気恥ずかしく、たとえ客がこなくても、わけもなく清潔さと快活さばかりを無償で売りに出す生真面目という親会社のダスキン精神が滑稽なほどに哀しいけれど、そんな回答のない気分がことこどくの食欲と性欲を判断中止にしたままで、それゆえに自らの無意識が否応なしに要請してしまう招かざる客があるように、この日の『ミスタードーナッツ』は、すでに行者の出現においてさえそのハッピー的意味充実を放棄せざるを得ないほどの瀬戸際に立たされているにもかかわらず、なおかつ白髪の老人が一一〇年余りの深い瞑想の果てにさらなる招かざる客の意味と必然を背負わされて、あくまでも平穏なる沈黙として存在することになるのだ。
 ところで、今『ミスタードーナッツ』には、ダスキン精神の権化たる店長が自らの清潔と快活さによっていかなる未知空間にでも無償で身を投ずると決意する姿はないものの、二人のウェイトレスの異変にも彼の崇高なるハッピー気分を取り下げる気配はないのだから、リスト老人は無言のアンハッピーに招かれて訳もなく『ミスタードナッツ』に滑り込むことができるという算段なのだ。そして店内では、もはやハッピー気分の笑顔さえ忘れて久しい<太モモ>たちが、行者とおでこを突き合わせ物語未来を画策しているのだから、リスト老人はあくまでも招かざる客のまま平穏なる沈黙を纏って進み出ることになる。
 「うわああっ、驚いた!!」
 「あら、いけない、お客さまじゃない?」
 世人の倫理観と凡庸なる美意識が、結局は自己温存のために執着させる自己肯定という無明無知により、かえってそこに隠されたり排除されていたものとしての美的意味の形を明らかにする沈黙世界を露呈することがあるように、あるいは善良なる人々に疎まれる異端者がたまたま芸術論の前衛において、自らの表現生活を根拠にするだけの柔にして純粋な美的史観を振りかざすだけの気の重い事件に遭遇することがあるとしても、そこではその独断ゆえに保証される先鋭なる眼差しが自分のものであったり時としては他者のものとして発見されのだから、やはりこれらの反世界的な感覚がこの沈黙世界の豊かさを垣間見せる動機だと見定めて、いまリスト老人が<ミスタードーナッツ的真実>に対して喚起する正体不明性について語るならば、正に孤高の前衛的史観さえも世人の無理解によって沈黙させてしまった不成就性の閃きを、あくまでも世人の無明無知こそを粉砕せんとするその先鋭なる眼差しに宿し、しかもそれを静寂なる僧衣が無言で語りうるほどの緊張感として、エンドレスで上滑りするだけのハッピー気分に打ち込んで、もはや再起不能に陥れるほどに震撼とさせるのだ。
 ふたりの<太モモ>は、すでに崩壊したハッピー気分の現前で、ありうべき未知との遭遇としてリスト老人を受け入れる。
 「あ、あのう、ひょっとして、こちら、行者さんのお知り合い、ですか…」
 振り返った行者は、膝の上の荷物を抱えたままで立ち上がる。
 「いや、これはどうも。リストさん、お待ちしていましたよ。どうぞ、こちらへ」
 リスト老人が、無言のまま礼を返して、行者の左隣に席をとる。
 「リストさん、さっそくなんですが、ちょっと聞いてください。
 実は、あなたがお見えになるまでに、これは予想もしていなかったことなんですがね、この物語における私たちの使命とも言えるものを探り当てることが出来たのですよ。しかも、それは、ここにいらっしゃる二人のお嬢さんのご尽力によるんですがね、気がついてみれば、お二人は、私たちと問題を共有しうる仲間だったというわけですよ。それで彼女たちのお名前は…、ええっと…」
 「あいつが、<かたぶとりの太モモ>なんて言ってたけど、それでもいいわよ」
 「そっ、そうですか…、そういうわけにもいかないでしょう?」
 「だけど、あたしたちも、行者さんと呼んでるだけだから、それでいんじゃない」
 「でも、そうすると二人の区別がつかなくなっちゃうのかな?」
 「そういうわけです。じゃ、どうでしょうか、とりあえずあなたが<好奇心の太モモ>さんということで、あなたの方が<期待の太モモ>さんというのはどうでしょうか?」
 「なっ、なんかねえ…、でも、ま、いっか!?」
 「そう、何でもいいの。あいつに本名知られて、付き回されること考えたら、その方がずっといいわよ」
 「じゃ、それで決まり」
 「恐れ入ります。そういうわけでリストさん、こちらが<好奇心の太モモ>さんで、こちらが<期待の太モモ>さんというわけです」
 「よろしくねっ…」
 「始めまして…」
 リスト老人は、無表情のまま軽くうなずいた。
 「皆さん、改めてご紹介いたしましょう。こちらが私の友人の…、ま、友人というのも不自然ですが、今日のところはそういうことにして、リストさんです」
 「でも、なんて言うのかしら、こちらって、ちょっと…」
 「そう…」
 相変わらずの無表情に埋没しているリスト老人が、時折思い出したように顔を歪め、硬直化している皺の一つ一つに血の温もりを回復するかのような小さな身震いをする。そんな様子にちょっと緊張した表情を見せる二人の<太モモ>に、行者が気づいて声をかける。
 「ああっ、ご心配には及びません。リストさんの魂が、こちらの体に入られてから、まだ時間がたってないからなんですよ。ええっと…、そうですねえ、リストさんに、暖かいコーヒーを一杯差し上げてください。体が暖まれば、すぐになじんできますよ」
 「ちょっと、ちょっと、それどういうこと!?」
 「なんか、やだなあ…。ひょっとすると、こちらって、そのリストっていう人の生まれ変わりかなんか?」
 行者はコーヒー一杯分の一〇〇円をジーンズのポケットにまさぐりながら言う。
 「ううっ、そうですねえ、生まれ変わりと言えないこともないけれど…。実は、私の抱えている問題意識が、一つの想念となってこの物語世界に感応しましてね、それで肉化された存在というわけなんですよ」
 「なによ、それ、どういうこと? 行者さんが、何か言うと、そのたびに話がめんど臭くなっていくのよねえ…」
 「まあまあ、そういわずに聞いてください。
 この物語における存在理由ということからすれば、あの作者にとっては、リストさんも私たちとどれほどの違いもないんですよ。ただ、いまここで、私たちとリストさんとの関係を考えた場合には、そもそもの生存している時間が掛け離れているために、この場面に出現するためには、私がここで抱えている問題意識と想念を必要としたってことです。その意味においては、リストさんのこの物語における生誕について、私が神秘的な動機の一端を担ったというわけなんですよ。無論、そのことについては、作者たる神との意向が、ま、無言のうちに一致したということがあるわけです」
 「ほら、これだもんねえ…、とにかく、どういうことなのよ?」
 「つまり、いくら私たちが誰かの出現や出生を願ったとしても、ただそれだけではなかなか難しい。物語のみならずそもそもの人間関係というものが、そういうものになっているというわけですよ。無論、決して不可能ではなけれど、やはり物語の意志とでもいうもの、つまりここでは神にあたるものの意志と感応することによって、リストさんの出現がより容易になったってわけです」
 そこで、<期待の太モモ>がコーヒーを入れてくる。
 「はい、コーヒーどうぞ」
 「でも、なんだか、分かったような、分からないような…」
 「ま、仏教では、人間のそもそもの出生の原因なるものは、問うに問えないといいますから、そのへんのことは、あまり固執してもしょうがないでしょう。とにかく、リストさんの体がほぐれてくれば、なんの不自然も感じなくなりますよ」
 「へえ、そういうもんなの…。マア、イッカァ」
 「ねえ、行者さん、そうするとリストさんも、さっきの、あの性器崇拝に関係あるんでしょ?」
 「ふむ、そうですねえ、もともとリストさんの提示される問題は芸術論の予定なんですが、この私たちの物語で、それを語っていただくわけだから、当然のこととして、私たちの趣旨に賛同して頂くつもりではいますけどね」
 「ふうん、無条件であたしたちの味方ってわけじゃないんだ」
 「そう、物語に対する出生の条件はどうであれ、私たちはそれぞれ一人の人格なんですから、それは互いに尊重されなければなりません。つまり、この物語は、ともに要請し合う問題意識というものさえあれば誰とでも共存しうる場というわけです。ただそれだけのことが重要であるにすぎないのですから、誰もが私たちの意見に賛同してくれる人ばかりとは限らないということです。それでこそ、物語が世界と呼びうるものになれるってわけですよ」
 「ふうん、そうすると、うちの店長あたりは、あの変態作者の回し者ってことも考えられるってわけね」
 「だいたい、あたしたちの言うこと、あたまっから信用してないんだから…。でも、ああいうタイプは、回し者っていうより、作者なんかに利用されやすいタイプってとこじゃないかしら…。なんてったって、なあんなふうに純真にマニアル通りの人格になれるんだもんねえ…」
 「ねえ、なんか言いたそうな顔で、こっち見てるわよ」
 「じゃ、呼ばれるまえに、ちょっと手伝ってくるか。あっ、あのう、行者さん、あたしたち、ちょっと裏へ行ってくるけれど、まだ聞きたいことがあるから、黙って帰らないでね、お願いね…」
 「はい、大丈夫ですよ。私の方も、リストさんと積もる話がありますので…」
 「ふう…、どうやら、コーヒーを頂いたら、ひと心地ついたようじゃな…。なんじゃか、こうしてみると、わしは、ずいぶん長いこと、寝とったような気がするけど、どうしとったんじゃろうか…」
 「リストさん、それが一一〇年余りの寝りってことじゃないんですか?」
 「ありゃりゃ、ほうで…。わしは、ずいぶん長いこと寝とったんじゃなあ…。
 すると、わしは、あんたに呼ばれて来たわけなんじゃな。
 どうも、最近はすっかりボケてしまって、うっかりすると、自分のいる場所が分からなくなってしまったすることがあるもんじゃから…、まったく年を取るいうのんは、いやなもんですねえ」
 「でも、リストさんの場合なんか、あれだけの立派なお仕事をされたわけですから…、その意味でいえば不滅ともいえる感動の系譜をわれわれに遺されているのに、今さら年を取ることもないんじゃないですか?」
 「いやいや、みなさん、よく、そういうてくださるんですが、わたしらにしてみれば、これ以上年は取らないつもりではおるものの、そういうたからって、なにも若返るわけじゃないですから、これで結構つらいんですよ」
 「そうですか、でも、まだまだお元気そうで、結構じゃないですか。
 ところで、早速なんですが、今日わざわざお越し頂きましたのは、いろいろとアドバイスを頂きたと思うことがありまして…」
 「ありゃりゃ、ほうですか。わしは、また、なにかしら会合でもあるのかと、思うとったんですが、ほうですか…」
 「あれ、そうですか? ああっ、それは多分、この物語において、リストさんを必要とした作者の思惑だと思いますよ。そんな思惑がたまたま私の希望と合致したので、リストさんの出現がスムーズだったということかもしれませんねえ」
 「ほうで、まあ、そんなことは、どっちでもええんですわ。わしらにしてみれば、この年になっても、まだまだ若いもんには負けるいう気はないんですが…、どうもまわりでは、そうとは思ってくれんもんじゃから…。まあ、そんなわけですから、いま人に頼りにされるいうのんは、嬉しいことなんですよ。
 わしは、しじゅう博愛いうことを言うとったんですが、しかし、わしは、よく人に誤解されとったもんじゃから…。寛容いうことを、常々言うとるのに…。ま、わしらみたいな芸術家にとっては、誤解もまた前衛的意味の勲章じゃなんていうたりしたもんじゃから、気にもせんじゃったが…」
 「そうですか。しかしリストさんのお仕事は、確かにドビュッシー、ラベルに引き継がれ、あるいは無調的方法はシェーンベルクによって二〇世紀的手法を拓くものとして確立されたわけですから、正に前衛的意味は担われたわけですよ。その意味においては、芸術家の博愛と寛容は証明されたといえるんじゃないですか?」
 「ほうで。ムッフフ、あんたは、うまいこと言いよるから、わしゃあ、すっかりええ気分にさせられてしまうよ。とにかく、年寄りいうなんは、そういう言葉が一番の元気の元なんじゃよ。いやあ、わしは、今日ここへ来て、本当に良かった!!」


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 「いえ、こちらこそ感謝してますよ。あのう、それで早速なんですが、リストさんには、私の自己検証における一つの反省的視座を担って頂きたいと思いまして…。実は、いま私が抱えている問題にとって、あなたが重要な意味を持つと気付いたわけなんです。
 まず、問題の情況をご説明しましょう。
 この国では、そもそも親孝行なんていうことが美徳として語られてきたという経緯があるんですが、それもすでに大家族性の崩壊によって話題にすら昇ることがなくなってしまいました。それが戦後の民主主義による自己主張という風潮と呼応して、体制の矛盾を自己の問題へと反映させた純朴な表現活動が台頭しうる場を拓いたといえるわけなんです。しかし、それもまだまだ自己の構築を語るまでには至らなくて、無自覚な発育不全の摘出に終始しているという情況ですから、そんなもたれあった自己と体制が慣れ合いで醸成する不信感は、誰もが貧困ではないという成金幻想を自己愛で言いくるめるだけで世界の再構築を夢見ることが出来たという程度のことなのです。
 ま、かなり大ざっぱな言い方ですが、これが私の情況設定というわけです。そして、ここで親孝行が美徳でありえた時代の親に、もはやそんな美徳のない時代に美徳という幻想を抱いて育てられてしまったという矛盾、しかも、それが父親の発育不全を隠蔽するための論法にすぎなくて、父親の自己保身こそが女房子供の希望に外ならないという家庭が用意されていたわけです。
 ですから、そんな情況における自己の発見が、実は、それまで無言の抑圧になっていたものの正体を、陰険なる親がブヨブヨの自己愛を取り繕うための野望にすぎなかったんだと気付くことの驚きだったのです。
 これがそもそもの発端になるのです。それは騙されていたことへの怒りであると同時に、自分の無垢な思いが裏切られたという屈辱感ですから、常に自己喪失と闇雲な自己主張との狭間で自己認識と存立のために苦悩することになるのです。
 結局は、そんな苦悩に押し流されて自己主張すらも失いかけていたときに、正にあなたの『孤独の中の神の祝福』こそが、あのクラウディオ-アラウの霊感によって、私を蘇らせてくれたのです。私は、そんな宗教的感動にとめどない涙をしたのでした。それはいつまでも忘れることのできない熱い感動なのです。
 ところがです、それが真に不幸なことに、すでに私は苦悩する表現者として六〇年代という時代的背景を担う現代音楽の危機的な感性に育まれ、この止めどない不安による自己の芸術論的存立を確信していたときの事件でしたから、リストさんのロマン的気分がひとつの平安という回答たりえたという事実は、私の危機的芸術論における時代錯誤、あるいはそもそもの自己存立が本末転倒になっていたというわけで、闘争、相克、分裂における判断中止こそをとりあえずの救済とする私の芸術論が、思わぬ平安によって崩壊の危機に立たされるというとんでもない矛盾になってしまったのです。
 それは、まるで散華という自己犠牲に見入られた無理心中願望が死の正当性を喪失したような脱力感なのです。」
 「ほうですか。しかしなんじゃなあ、わしは、ずいぶん憂欝なところで、あんたに関わってしまったようじゃなあ…。
 しかし、わしらのような芸術家にとっては、芸術とはそもそも生きることの方法論じゃからな、その意味では、ありとあらゆる芸術的価値判断とは血塗れの苦悩であって当然というわけじゃ。まあ、しかたないいうたらそれまでのことじゃけどなあ…。とにかく、気の重いこっちゃ。
 ところで、どうなんじゃろうか、そもそも音楽家に求められていた人格いうなんは、敬謙なるキリスト者ということだと思うんじゃが…。それを前提とするならばじゃ、モーツァルトの出現以来、一介の音楽家を芸術家へと自立させる道が拓かれたというてもええかと思うんじゃが、それが実は芸術における作品至上主義を進めることにはかならなかった、わしはそう考えとるんじゃ。
 これがどういうことかというと、要するに作品さえよければ、それでええということになって、芸術家の人格いうのんは、まるで問う価値のないものになってしもうた。もはや敬虔なるキリスト者たる音楽家なぞどこを探したっていやしない。つまり、救済に見放された芸術家は自らの仕事に疎外され、おまけに抑圧されることになってしもうた。
 しかし芸術の目的が美の実現であるならば、やはり美いうのんは、生きつづけることによって自己実現されないかん神の愛なんじゃ。美こそが神の愛なんじゃ…。
 ま、あんたも気付いとってじゃろうが、美としてあるべき生きざまいうのんは、感動的じゃが、これがまた哀しくもある…」
 「はい、正におっしゃる通りです。
 私は『巡礼の年』をアルド-チッコリーニで知りましたが、それは、まだ自己矛盾の真っ只中で整理しきれない私という問題を抱えていたにも関わらず、芸術を生きつづけることの確信が、美と名を変えた愛の受肉であると知ることの感動でした。それは様々な意味において衝撃的事件でした。正に芸術的屈辱の中でうたかたの法悦に浸る思いでした」
 「ほほう、あんたは、年寄りを喜ばせるコツを心得とるから、楽しくてええわ」
 「ま、そんなわけでしたので、私の彷徨する情念が、ウィルヘルム-ケンプを足掛かりにしてベートーヴェンに救済の希望を見い出しえたという、その根拠もまた、神の愛だったのです。
 ああ、次々に思い出されてきます。
 あの『超越技巧練習曲』によってラザール-ベルマンが、芸術が人間的営為として構築しうるものを技巧の伽藍として見せながら、しかも熱情と化した愛が自らの住まう伽藍をも空しくしてしまう矛盾を叩き出し、そんな行く宛を失った熱情が自己喪失の現前で、硬直化した想念に軽快なる遊びの感覚を取り戻させてくれたのがジョルジュ-シフラの『ハンガリー狂詩曲』であったし、思えばフランス-クリダが『詩的で宗教的な調べ』で、あるいは『愛の夢』で、さらには『慰め』や『クリスマスツリー』で、生きることが芸術的たりうることの華やいだ一面を、つまりはロマン的気分といいうるものの輝きとして見せてくれたのも、すべてあなたの言われる神の愛、それは正に人間的なる熱情の崇高なるものへの意志の力であったはずなのです」
 「ええなあ!! ほんまに、あんたはええなあ…。わしら、涙が出てしまうほど嬉しくなってしもうた。あんたは、わしのいうロマン的気分の末裔として、充分すぎるほどの素質を備えとるもんなあ…」
 「おそれいります。ところで、せっかくお褒めの言葉を頂いたのに恐縮なんですが、私にとって、ことごとくの愛が芸術論的希望でありえたのは、実は、私がセルフコントロールとして絵を吐き出していたころのことなんです。
 つまり芸術論において自己探究、あるいは人格形成を模索していたころのことでしたから、結局は、すべてを懴悔して仏教的に生きようと決意する以前のことでした」
 「ありゃりゃ、ほうで…」
 「はい、申し訳けないのですが、愛が私の確信として確固たる芸術的意味を持ち、なおかつあなたに対してショパンという異質な問題を対峙させつつ、そんな確執の中で生きることの希望でありえたのは、ほんの一時のことだったのです。
 それは、私にとっての愛が、自分への求心力を強めるだけの自己愛として、女を金を、そしてそれで得られる幸福を求めるだけの欲望でしかなかったということなのです。
 つまりは、そんな欲望の空しさが見えてしまえば、私の愛なるものも自己確信を取り繕う戦略的な力にすぎないと自覚するしかないのですから、忌々ましく悍しいほどの自我をことごとく粉砕してくれる力を求めつつ、しかもそんな闇雲な力を自己浄化の方法論へと転換してくれるものへと移行するのが必然だったというわけです。
 まったく、この意味において《愛とは美の原型であり、その愛の姿とは生命力ゆえの苦悩にすぎない》ということでした」
 「あんた、わしを喜ばせてくれるから感謝しとったら、なあに、その舌の根も乾かんうちに平気な顔で悲しませといて、ほいで今度は、とっとと愛の核心に迫ろういうんじゃから、わしらは付いていけんよ。もうちょっと、年寄りのことを考えて言うてくれにゃ、わしら、まだこの世界に慣れてないんじゃから…」
 「ああっ、これは失礼しました。ついのめり込んでしまって…。
 結局、私としましては、リストさんによって確信した愛が、もしも私の救済たりうるとすれば、それはキリスト教的世界観でこそ語りうる神の愛を受肉することでなければならないと知ったというわけです。
 ところが、私はその神の愛そのものが、苦悩の原因にすぎないと考えたわけです。これは、未だ救済されていない自分の苦悩を踏まえて、決して譲れぬ確信だったのです。
 ですから、ここで得られるはずの救済とは、あくまでも神に対する妥協であり、場合によっては歪曲であり、挫折にすぎないはずだから、それゆえに与えられる法悦がどれほど甘美なものであったとしても、あるいはそんな傷を優しく癒してくれたにしても、それは自己欺瞞を慈しむ女々しい救済にすぎないというわけだったのです」
 「ああ、わしは、まだ、そこまでは語ってくれなと言うとるんじゃ…」
 「たびだひ申し訳けございません。どうも、積年の念いが込み上げて…」
 「しかし、なんじゃなあ、あんたの言うとることが、まんざら分からんでもないが、わしらにしてみれば、そもそもの愛を、自己愛にすぎないとしてしまったところが、あんたの間違いなんじゃな」
 「はい。確かに私の論法は、そんな自覚に基づいてこそ語りうるものでした。しかし、私の芸術論という発想において考えうる自己探究では、この自己愛の奥に、神の愛とか威光というものを探り当てることが出来なかったのです。
 それは、本来芸術論がキリスト教の地平でこそ語りうる問題であるにも関わらず、私の場合は、その無知ゆえの純粋性によって、私の表現行為における反省論というものになっていたという経過があるわけです。
 ですから、ここで探る<私>とは、何事かを表現せずにはいられない者の<表現者としての苦悩>を、いかに克服するかという問題へと置き換えて解決するしかなかったというわけなのです」
 「ん、まあ、そういうことじゃろうな」
 「ですから、ここで愛そのものを克服する方法を考えることもなく、ただ芸術が美の自己実現を大命題にしていることのみに捕らわれてしまえば、美という力の受肉は、自己を限りなく肯定する独我論で自己神格化することになってしまいます。
 当然ながら、ここでは唯一絶対たりえぬ愛が苦悩する神々として乱立し、権力闘争に陥ることを誰も阻止できないのです。結局は、自らの悍しき不成就性の欲望の現前で、誰もが神の崇高なる意志を挫折させてしまうだけのことなのです」
 「しかしなんじゃなあ、わしらは疑いようのない神の愛を前提にしてこそ語りうる芸術論なんじゃから、やはり、あんたのいう芸術論とは、土俵が違ういうことに尽きると思うがなあ…」
 「まあ、そうですね。私の場合、神の愛がいかようにも疑い得ないものであるなどという発想は、端っから無かったわけですから、迷える子羊たる表現者の苦悩もまた表現者たる自己への執着に他ならないと見定めるのには、どれほどの苦労もないわけです。
 そもそも私にしてみれば、唯一絶対なる神の予定調和の世界において、表現者自らが自由意志による創造的体験によって美を実現するなどということが、実際に可能であるかどうかということまでもが問題になってしまいます。
 もしもここで美の実現が可能とするならば、ことごとくの表現者は単なる予言者にすぎず、創造性など問うに値しないことになってしまうわけですが、かといって個の創造性に固執していては、神の愛を受肉するはずの美の実現においてさえ、それを保証するものもなく、まして神の愛の認可などあろうはずもないというわけで、美たりうる神の愛など望むべくもないことになってしまいます。
 そんなわけで、表現者ゆえに愛の自家中毒という苦悩を表現行為によって救済しようと考えるならば、表現者たることこどくの執着を愛と見定めて解放することでなければならず、それは無意識に<私>たる欲望までも掘り起こすためのとめどない反省的対自化を、そのまま自己表現とすることによってしか克服できないというわけなのです」
 どうやら行者によるリスト老人への観念的にすぎるほどの問題提起が済んだようであるが、そんな行者の眼差しを覗き込んでみると、ド近眼鏡の底では無意識の自己に関わる愛にさえ、その中空を見定めて揺るぎないほどの安定した輝きを宿しているのが分かるけれど、それがとりあえずの見掛けはどうであれ、在り来りの中年的風貌でありながら脂の浮いた世間体へと凡俗さを完成させない曖昧さの原因になっていて、おじさん世代による青春期の総括であるよりもおじさんに成りそこなった青年の自己批判になっている様子であるが、所詮は<かたぶとりの太モモ>たちの若さに対しては<ミスタードーナッツ的真実>の負化された違和感に違いはないのだから、そんな眼差しがあるかぎりどこまでも付いて回る<らしくない>と言われつづける曖昧さは、とりあえずはどこに置いても納まりの悪い生真面目が、真摯なだけさらに重くなって引きずられていく正体不明性の純粋さになってしまうと見定めて、それゆえに行者としか呼びようのない宗教者は、未だ苦悩でしかない自らの愛についてさえ、いや、もはや苦悩になることもない愛についてさえも、何はともあれ瞑想的と言いうるほどに毒気のない非人称的ポーズで語られるのが相場というわけで、たとえ行者自らがそんな息の詰まるポーズを崩壊して見せたつもりでも、そもそもの凡俗的気分にとってみれば、愛における非人称性なるものこそが違和感になってしまうのが落ちだから、あくまでも自らの純粋さに忠実たらんとすることが、どこまでもボタンの掛け違いを続けさせるだけの気まずい存在にさせてしまうのだ。
 それゆえに行者は、リスト老人に対してさえも彼の芸術的精神の末裔として認知されていながら逸脱し、キリスト者たるリストには到底語りえぬ沈黙を突き付けてしまうことになるけれど、そこは偉大なる芸術家であることを自認するリスト老人のことだから、いかに年を取ろうともあの強烈な自己主張の人格に揺らぎのあるはずもなく、ましてこの物語においては一一〇年余りにも及ぶ沈黙を不当に負化されていたものの情熱を担うものとして、そんな思いを自らの存在理由に転換しうる強靭な愛に恵まれてこそのリストであれば、いまはまだ語られる土俵の違いが前提にされてはいるものの、その正統性を問われているロマン的気分の芸術的感動の崇高さの門衛として、その任務の遂行にあたることこそが、リスト自身の目的であるのみならず、私の作者たる超越的喜びの美的意味の充実を達成する唯一の手段であることを、今さら忘れることなど有ろうはずもないというわけで、リスト老人は、すでに情念化した沈黙をひとつの物語的静寂へと意味づけるために深いうなずきを繰り返している。
 はたして行者は、そんなリスト老人のうなずきを読み取ったということか、改めて問題点を突き付けてくる。
 「つまり…、いや、改めて申し上げますが、私がリストさんにお願いしたい反省的視座とは、芸術においてあるいは宗教において、表現者でありつつ宗教者たるものが純粋に生きつづけるということが、かかる苦悩からの自己解放として考えられるときに、はたして<美たりうる神>への一元論が有効であるのか、あるいは正当であるのかについての判断をお示し頂きたいということです」
 「ふむ、あんたは、自分の論法を持ってきて、その中で反省的視座になってくれいうが、わしらにしてみれば、それは、なかなかでけん相談いうわけじゃ。そもそもわしらの立場からすれば、神いうなんは真善美聖愛をみな統一する超越者として存在するわけじゃから、この一元論が正当でないいう根拠は、どこにもない。しかも、これは、わしらがその根拠さえ問うことのでけん先験的な条件じゃからな。
 だから、あんたに、そうせっついてこられると、どうしたって、あんたの下心いうもんが見えてきてしようがないんじゃ」
 「ええっ、私に下心なんて、それは思い過ごしですよ」
 「ほうか、わしには、そうは、思えんがなあ…。だいいち、あんたの言うとることは、どう考えてみたって、わしに神への信仰を捨てよと言うとるように聞こえてならんのじゃ。ほうじゃろう」
 「ああっ、そうか…。そのように受け止めておられたとは知りませんでした。そうですか、申し訳ございません。どうやら私が迂濶でした。
 私としましては、リストさんの立場から、私の解放論なるものをご批判頂くことで結構だったんです」
 「ほう、あんたは、そうやって、言い出した事を簡単に取り下げてしまうようじゃが、それで、あんたの目的は達成でけるんか? わしらは、そんなに簡単に、自分の意見を取り下げたりはでけんがなあ…」
 「いえ、これは私が自分の立場を主張しなければならない問題というわけではありません。つまり、言い換えるならば、たぶんこの物語において、私たちに共通の問題として与えられるものは、芸術、思想あるいは宗教における世界統一とはいかなるものかということであるはずだからです。
 それは実践論において、この物語の存立構造を探ることにもなりますから、はたして物語を統一原理で閉鎖的に支配することが可能かどうかという問い掛けなのです。
 ですから、作者の欲望といってもいいのですが、ま、とりあえずは物語的欲望としましょうか、この欲望が物語を閉鎖するのか開放するのかということ、それに対して私たちのごく個人的な問題にすぎない苦悩からの自己解放は、どのように関わるのか? これが問われるのです。
 当然ながら、私は物語の開放こそを願っておりますので、たとえばリストさんが、いかなる立場に立たれようとも、その立場を拘束したり非難するつもりはないのです。
 ま、リストさんが、物語の開放など荒唐無稽な夢物語にすぎないとお考えならば、それはそれで結構なんですよ。しかし、私としては、この夢を見ることもなく生き延びることなど到底考えられないというわけです」
 「まあ、あんたは、口がうまいから、なんとでも言うたらええが、わしとしても、夢見て生きることには、なんの異存もありはせんのじゃ。
 夢物語…。そう、まったくの夢物語なんじゃよ。わしも、今でこそ胸を張って言えることなんじゃが、確かに人生いうもんは夢物語じゃった。さりとて、この物語におるわしが現実かと言えば、それもまた違う。たぶん、わしが夢で見とった夢にすぎんのじゃから、これもまた夢じゃ。
 それではわしがわしとして、リストたりうるところはどこじゃろうかと考えてみれば、それこそが沈黙する魂でなきゃならん。 
 ま、聞いとってください。実は、わしは、あんたが誰じゃったのかいうことについて、どこまで知っておるかと、自分に問うてみても、ほとんど何も知らん。ま、多少のボケもあってのことじゃとは自覚もしておるが、しかし、あんたかて、わしのことについて、どれだけ知っとろうかと問い返してみても、やはりどれほどのことも知ってはおらんのじゃろうと思えてならんのじゃ、なあ。
 ところが、そんなことはどれほどのことでもないんじゃな。わしらにとっては、何等かの約束があったことにすれば、それでええんじゃ。そうじゃろう、ほうすると、実際、約束いうなんが自然とでけてくる。これが物語世界の夢物語たるゆえんじゃ。
 ほんで、沈黙する魂とはなんじゃというたら、こういうなんは、どこか空白になっとる時間と空間に、勝手に放ったらかされとるいうわけのもんでもないんじゃな。
 その証拠いうてなんじゃが、たとえば、よくあんたのいうアラウもケンプも、それになんじゃったかな、ほれ、ああ、ホロビッツじゃとかリヒテルいうなん連中も、ほんで最近ではブレンデルいうたかな、まあ、その辺りまでも、わしはよう知っとるわけじゃ。なんでかいうとな、わしが計画した愛の型、おお、作曲いうてもええな、その作品に宿る愛に身体、つまりは血の温もりと力じゃな、これを与えてくれるところに、わしの魂が宿るいうわけじゃ。
 これはホロビッツの、あるいはリヒテルの、そう、ありとあらゆる演奏家たちの魅惑的な個性、結局これも愛の型なんじゃが、これに感応したわしの愛いうわけじゃな。この愛を共有する者にとってはな、わしにも演奏家にも区別いうてありはしない。つまり、美いうてもええ名前に変わった神の愛があるのみじゃ。じゃから、ここでリヒテルとは何か言うたらな、わしの型をした神の愛いうてええし、わしとは何か言うたら、リヒテルの型をした神の愛というわけじゃな。
 じゃから、この愛の世界いうなんが、どないなっとるかいうたら、あんたがわしの愛を引き継ぐ末裔じゃと、自覚しとるなら、その限りにおいてわしはあんたについて、知らんことは何もあらへん。そう言えるいうこっちゃ。ま、あんたがロマン的気分でわしと繋がっとる限りは、あんたは性器崇拝の行者いうわけじゃ」
 「いやあ、驚きですね。性器崇拝なんていうとんでもない話題が、リストさんの愛の世界で語られるとは意外でした。
 ということは、作者の意図する性器崇拝が、やはり愛による一元論に支えられているってことですね。要するに性的快楽でことごとくの思考を停止させておいて、神たる作者の愛による世界統一を実現しようなんていう、たわいのないもくろみがはっきりしたというわけですよ。
 ん!? ちょっと待ってください…。そうか、シナモンクルーラーに固執する作者は、まぎれもない父性の統一原理ってわけか。そうすればキリトス教的発想の創造主を装うことも可能になるわけですもんね」
 「ありゃりゃ、ほうで…。わしらは、性器崇拝なんかいうもんが、神の愛で語られたなんということは、ついぞ聞いたこともなかったが…」
 「そうですか、しかし、性的欲求を性別化したままで世界創造の動機に援用すれば、そんな動機を神々が分有するにしても、あるいは神と人間とで分有するにしても、ことごとくの神話は無事に産み落とされるってわけですよ。
 その意味でいうならば、そもそも人間がその現場に立ち会うことの出来ない天地創造は、すべて神話にすぎないと言わざるを得ないのですから、キリトス教もまた性的神話から始まるなんてことが言えるわけですよ」
 「ほほう、そういうもんかのう…」
 「つまり、まず初めに性欲で世界を閉鎖してしまえば、ここでは崇高な無性的超越者など望むべくもないのですが、しかしキリスト教的天地創造の動機を生き延びさせることは出来るのです。どういうことかと言いますと、性欲による天地創造の後で、厳粛なる科学的発想の無性的動機を捏造することで神話的動機が温存されてしまうってわけですよ。
 そうか、結局、作者のもくろみってやつは、私を物語りに封じ込めるために荒唐無稽な性器崇拝の行者などという役柄を押しつけたってことなんだ。つまり性器崇拝という神話的動機で、科学的発想による物語の開放的存立など到底出来ぬ相談だと言うわけだった。これがとりあえずの予防線で、その実、これを克服する方法がないわけではなかった。しかしこの点についてはしらんぷりで、私たちをねじ伏せようって腹だったわけだ。
 そしてその隠された方法というのは、科学的発想の出生にあったのです。つまりプロテスタンティズムの落とし子たる科学もまた絶対的真理に根差す一元論にすぎないのだから、唯一絶対者による天地創造の動機からは逃れられない神話的構造になっているというわけですよ。言い換えるならば、神話的動機で科学を証明できなくても、科学的動機が神話的動機を証明するならば、それは同じことになってしまうと考えるのです。
 これなら、たとえ科学的発想によって世界が無性化されようとも、愛が真理と読み変えられて世界統一の原理として生き延びる道を残すことが出来るってわけですよ。しかし、私に言わせれば、これは、世界統一の原理を、あくまでも<愛>によって語りたいという欲求の自家撞着にすぎないというわけです。
 ですから、私の立場からするならば、結局は無性化した天地創造の動機を愛に置き換えるのではなく、そもそもは天地創造の動機にすぎない愛を無性化した欲求へと還元するために、その欲求こそを無力化することが模索されなければならないってわけです。つまり、これが出来るなら、あらゆる一元論からの超克が可能になるというわけなのです。
 しかしこの場合でも、たとえば、これが私の論法である即身成仏で語られるときに、もしも仏を絶対的な原理に留どめてしまうようなことになれば、やはりこれも一元論に陥る過ちを犯しかねないのです。したがって、ここで目指す仏の境地とはあくまでも言葉という動機も届かない涅槃寂静でなければならないってことになります」

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 「ふむ、まあ、ここはひとつ、原理闘争などおいといてじゃな、崇高なる芸術に身を委ねてはいかがかな…。
 これなら、あんたにとってもまんざら縁がないわけでもないと思ってな…、ん、ありゃりゃ、おかしいな…」
 「どうしましたか?」
 「ほお…。おかしいな、どうしたんじゃろうか…。どうも物忘れがひどくて…。
 んん!? おおっ、これじゃ、有った有った」
 「何んですか…」
 「ふむ、ラマルテーヌの詩集じゃ。
 そう『詩的で宗教的な調べ』をと思ってな…。なんじゃか、なかなかええ日本語訳がないなんて、作者が言うとったが、それでじゃろうか、わしに持たせてくれたんは、レコードの解説書じゃとかいうとったが…。
 ま、レコードなんぞという文明の利器のお陰じゃな、わしらが、この東洋の果てまで知られとるいうのもな…。
 ええっと、メガネ、メガネ…、ありゃりゃ、わしは、またメガネを…」
 「ああ…、リストさん、そこ、胸のポケットに入ってますよ」
 「ありゃ、ほうで…。いや、まったく、あんたに言うでもらわなんだら、また探しよるとこじゃった。ヒィッヒヒ。
 ええ、ロンドン盤『リスト/ピアノ曲大全集第三巻』じゃ。このフランス-クリダいうのが、どうしたわけか、ひどくわしのこと好いてしもうてな…。わしも、もうこの年じゃからな、そう若い時分のように無理がきくわけでもあらへんし、まったく、せがまれてはえらい苦労したもんじゃ」
 「あいかわらず、お元気で結構じゃないですか。それで、どうなんですか、クリダさんとは、もう過去形ですか?」
 「フフッ、もう最近はな。いうても、向こうもそろそろ年じゃしな、ヒヒヒ。
 ありゃりゃ、余計なこと言うてしまった。あんたが、うまいこと言うから、ついうっかりして…。そんなことより、ま、ちょっと聞いてください。
 —— 孤独と沈思とによって無限なる理念すなわち宗教の方に向かって、抑えられることなく高まっていく瞑想的な魂が存在する。これらの人の思考は熱狂に変わり、また、祈りに変わる。彼らの存在は、神なるものと希望との、無言の賛歌である。彼らは自らのうちに、あるいは、自らを取り巻く万物のうちに、神にいたる段階、神を知り、神に己を知らせるための表現や表象を捜し求める。私は彼らに、その幾つを与えることができるだろうか。哀しみに打ちひしがれた心、世の中に押し潰された心は、彼らの思考の世界、彼らの魂の孤独の中に逃げ込み、泣き、待ち、愛するのだ。彼らは、彼らに同じく孤独なミューズの来訪を許すだろう。そして、その奏でる和音に共感し、耳を傾けながらこういうこともあろう… われらは君の言葉とともに祈り、君の涙とともに泣き、君の歌とともに願を立てる。——」
 「いやあ、すばらしい。やはり、あなたは愛の伝導者だ。まるでピアノ演奏を聞かせていただいているような感動です。ありがとうございました。
 しかし、といってはなんですが、その訳は何とかならなかったんでしょうかねえ。もしも、作者が、神であることを自認するなら、こういうところでこそ、その力量を発揮すべきなんですよ。ま、この辺に作者の神たりえぬ限界が見えるってことでしょうか…」
 「ま、ええでしょう。とにかく、感動いうなんを共有でける豊かな感受性さえあれば、こと足りるんじゃから…。この感受性いうなんがあればこそ、感動は、常に技術を越えたものとして存在でけるいうわけじゃ」
 どうやら、黙った聞いていればいい気になって、行者の私に対する誹謗中傷が過ぎるようだけど、まあ、これはいずれ決着をつけることにして、とにかくリスト老人は、自らの存在理由を愛という不滅の実体として確信しているからこそ、死の沈黙を平安のうちに受け入れられる魂として再来できたというわけなのだ。
 「ところでリストさん、エリック-サティをご存知ですか?」
 「はて、聞いたことがあるような、ないような…。ふむ、どうじゃったかなあ…。ほんでその人が…」
 「はい、実は、このレコードがそれなんですが、いやあ、久しぶりにレコードなんか買ったもんですから、つい心が高ぶりましてね、それででしょうか、思わずドーナッツでも食べて行かなくちゃ、どうにも納まりのつかない気分になりましてねえ…。
 ところがどうしたわけか、とんでもない精神世界なんかに迷い込んでしまったもんですから、それでリストさんをこんな情況でお呼びする結果になってしまって、誠に申し訳ございませんでした」
 「いや、わしゃ、どこでもええんじゃ。呼んでくれさえすれば、どこでもええんじゃよ。ま、そんな気は使わんでください」
 そこへ、ふたりの<太モモ>たちが戻ってきた。
 「ふうん、そうか。そうすると、やっぱ、このミスタードーナッツは、とんでもない世界になっちゃってるんだ」
 「それも行者さんが来てからのことなのよ。この責任はちゃんと取ってもらわなくちゃ、ねえ?」
 「おおっと、聞いてらしたんですか…。いやあ、そういう言い方をされると、なんかドキッとしてしまいますが、おっしゃるように、この事態の原因に私が関与しているとするなら、この顛末はなんとしてでも克服しなければならないと覚悟している次第ですよ」
 「またまた本気なの? そんなこと言っちゃって、本当にあたしたちの面倒でもみる気になっちゃってるわけ?」
 「そっ、そういわれると返答に困ってしまいますが、とっ、とにかく僕は…」
 「いいのよ、そんなにマジにならなくたって」
 「行者さんって結構真面目なのね、ハハハ」
 「ウッヒヒ、あんたも若い娘にはタジタジじゃな」
 「いやあ、リストさんまで、からかわないでくださいよ。とにかく、話は、このレコードなんですから…」
「ねえ、まさかド演歌ってわけじゃないでしょうね」
 「ま、演歌も結構ですが、これは『エリック-サティ/ピアノ曲集』です」
 「ふうん、全然有名じゃないわねえ」
 ここで作者から一言つけ加えるならば、いまやサティもマーラーも時代的気分を語るのにはなくてはならない存在であるが、まだまだこのころは常識的な感性で当たり前に語られるまでにはなっていなかったのだ。
 「だけど、それが何か訳有りってことなんでしょ?」
 「まあ、そういうわけです」
 「だけど、それって、迷走世界からの脱出を見い出すよりも、さらに混迷の度を深めるだけにしかならないんじゃないの?」
 「フッイッヒヒ、なかなかええ感をしとるじゃないか。わしゃ、こういう娘らは好きじゃなあ…」
 「へえ、やっぱ、さっきとはかなり感じが違うもんねえ…。コーヒーが効いてきたってことなの?」
 「そう、ごく普通のスケベジジィってところかしら、ハハハ」
 「スケベジジィとは、手厳しいんじゃなあ…。わしかてなあ、ピアノさえあれば、まだまだ若い娘なんぞ、ものの数ではないんじゃが…、どうじゃ、なんならピアノバーでも行ってみんか、わしゃ、実力のほどを…」
 「まあまあ、リストさん…」
 「んん?」
 「リストさん、あなたの天才はすでに周知の事実ですよ。ですから、今更そんなに向きにならなくたって、いいじゃないですか…」
 「ほうか? しかし、この娘らは、どうもわしのことをよく理解しとらんように思えたもんじゃからな…」
 「いや、大丈夫ですよ。まだまだ物語は始まったばかりなんですから…。それよりリストさん、ピアノバーだなんて、よくご存知でしたねえ」
 「ん? それは、わしが知っとったらおかしいことなんじゃろうか?」
 「いや、そういう訳じゃないんですが…。どうやら、これは私の方が、リストさんの情況設定を見誤っていたということのようです。どうもリストさんと聞いただけで一九世紀的サロンが、すぐ浮かび上がってしまうもんですから…。
 それにしてもリストさんは、かなり見事にこの物語の時代的気分に適合されたもんですね」
 「ふむ、わしは自分では気がつかんのじゃが…、そういうもんじゃろうか…。まあ、そんなことはええが、どうじゃろうか、あんたらさえよかったら、わしゃ、そのピアノバーへ諸君を招待したいと思っとるんじゃが…、どうじゃ、どこかええところを知らんか」
 「ええっ、ウッソオーッ!! あたしたち、誘ってくれるの?」
 「で、でも…、行者さん、ピアノバーなんかに行って遊んでていいの?」
 「ん? ああ、作者のことですね。そうですねえ、私としては…」
 「なにを言うとるんじゃ、わしより若いもんが、ピアノバーくらいのことでグズグズしとってどうするんじゃ」
 「そうよ、平気だって。どうせあたしたちの方からチョッカイ出さなけりゃ、向こうだって、いますぐどうこうしようってわけでもないんじゃないの…」
 「ふむ、確かにそうかも知れませんが…」
 「じゃ、決まりね」
 「ほうか、じゃそれで決まりじゃ。店の方は、あんたらが、決めてくれればええからな。いやあ、ここにこられて、ほんとによかった。あんたのお陰じゃな」
 「そっ、そう言って頂けると、私も肩の荷が下りるんですが…、それにしても、ピアノバーまで行かなくたって…」
 「じゃ、あたしたちが、お店終わるまで待っててくれるんでしょ?」
 「ああ、はい。で、終わるまでって、あとどれくらい掛かりますか?」
 「そうねえ、閉店までじゃちょっと時間があるから…」
 「大丈夫よ。今日は、もう暇になっちゃったから、少しくらいなら店長に任したって…」
 「そうね。じゃ、三〇分くらい、待てる?」
 「おお、何分でもええよ。わしゃ、別に用事いうて、あるわけじゃなし…」
 「リストさん、私に対する仕事だけは、忘れないでくださいよ」
 「ああ、分かっとるよ。まだ、これからずっと一緒におるんじゃから、心配せんでもええよ」
 「そうと決まれば、いまのうちに、ちょっとばかし、店長にお上手しておかなくちゃ、ねっ」
 「そういうこと…。じゃ、待っててね」
 「ムフフ。楽しみじゃなあ。ん、あんたも、そんな顔ばかりとしらんで、もっとおおらかにやらにゃいかんな…」
 「は、はい。そ、それで、この…」
 「ああ、そうじゃった。わしはうっかりして、あんたの話の腰を折ったままにしとったんじゃな。これは、えらいすまんこって、かんべんしてくださいな」
 「いやあ、すっかりリストさんに翻弄されてしまいましたよ。まったく、お元気なのには、驚かされます」
 「うんにゃあ、あんたの方が、ちょっと元気がなさすぎるんじゃよ。ありゃりゃ、いかんいかん。また、余計なこと言うてしもうた。それで、なんじゃったかな…」
 「あ、はい。このレコードです」
 「おお、そうじゃった」
 「実は私、普段は、あまり人目につかない山のなかで隠遁生活をおくっているわけなんですが、その荒ぶる自然の中に身を晒してみると、何につけても反省的にならざるをえないという情況が拓かれてくるわけなんですが、そこではどう転んでみても回避しえぬ生存のための自己保身と、しかしこのまま自己愛で武装した野良犬のごとき自然人になるだけでは、到底生きられぬという自責の念にさいなまれるばかりの自己矛盾に突き当ってしまうのですが、そんなときに、たまたまサティの曲がラジオから流れるのを聞きまして、思わずこれだと叫んでしまいました。
 ん? ああっ、隠遁生活といってもラジオぐらいはあるんです。ちょっと横道にそれますが、私の考えでは、隠遁者は世捨て人でない限り何らかの方法で世間と繋がっていなければならないのです。
 ここでサティに戻りますが、ここには問答無用の霊性で納得できる欝的な感性による自己矛盾のどんでん返しがあると気付いたわけなんです。それは感動的な出来事でした。それでこんど山を降りる機会があったら、ぜひともこのレコードを買って帰ろうと決めていたのです。
 ま、サティの雰囲気なるものをありていに言ってしまうなら、正に世紀末的気分の退廃的な倦怠感から醸し出されるエキゾチックなメランコリー、しかもそれが冗長になることはなくあくまでも端正にして簡潔、つまり重い気分でありながら軽妙洒脱な語り口、そして、ことごとくの糞真面目を惑わせる言葉遊びの数々というわけです。それは、多分に演奏者たるジャン=ジョエル=バルビエという人物の感性が影響していることも見逃せません。
 そこで、<どんでん返し>なんですが、こんな言い方がお許し頂けるならば、とめどない中年肥りを始めたかつての憧れの恋人に、まことに優しい自然食の提供者でありながら、そのくせ端っからダイエット志向のトレーニングなど、一言も口にする気配がない中年男の心境という感じなのです。
 つまり、どっちみちたらふく食ってしまうのだから、せめて自然食にした方が宜しかろうという程度のことなのです。食欲を抑えられない自堕落な情念を、わざわざ呼び起こしておきながら、ああかわいそうにと涙をともにしつつ、救われぬかつての恋人を葬り去るという辛辣なロマンチストというわけです。
 ま、ちょっと飛躍しすぎたかと思いますが、たとえばサティの喚起する矛盾ということをいうならば、どんなに鍛練を積んだ舞踏家の身体にしたところで、それが<芸術家の身体>であるかぎりは、所詮は表現者として何事かを表現せずにはいられない欠落と余剰という矛盾を抱えてこその、卑屈にして貧困なる心身の発露としてしか、創造的活動を為しえないということに対応していると考えるわけです。どういうことかと言いますと、卑屈にして貧困なる精神に磨き上げられた身体は、まかり間違っても崇高なる絶対的美を具現化する心身一如の器などではありえないということです。
 しかしながら、それでも自らの身体を芸術作品として提示しうると思い込んだ神憑った芸術家が出現するときに、そこに唯一の奇跡が起こり、どんなに崇高なる美も所詮は醜悪なる欲望の産物にすきないというどんでん返しが起こり、絶望の脊梁でかろうじて悍しいほどの肉塊に寛容なまでに豊饒なる美が宿るというわけです。
 つまり、これが、年中町の酒場に入り浸り生涯風呂には入らなかったとかいわれる変人サティの芸術的偉業の構図と言うわけです。言い換えるならば、大理石のビィーナスにお前のはらわたは腐った果実だと囁いているような、いたって控え目な芸術論的揶揄とでもお考えください」
 「ヒィッヒヒ。そりゃ、辛辣でええわ。ほうすると、そのサティいうたな、彼の企みいうのんは、わしらの贅肉になってしもうた芸術をあざ笑おういうところの道化を演じとって、ほな、最後に笑える芸術家いうのは誰じゃと、言うわけじゃな。
 要するに、彼が踏み切りおったロマン的気分いう地平を、己が笑い飛ばしてしもうたら、それは降り立つ足場を失のうたただの愚か者にすぎないけれど、彼が、ほんまに明晰であるならば、わしらの時代的精神いうもんを、退廃への前衛いう意味で担おうとする道化に徹することなんじゃな。
 まあ、なんじゃよ、なにも聴いてもおらんサティについて、とやかく言うたってしょうがない。下手して、こっちが道化になってしもうたらいかんからな、ヒヒヒ」
 「はい。私としましては、こう考えるわけです。
 つまり、私たちは、無意識のうちにおいてさえ自分が負化してしまう部分に付きまとわれているわけですが、これが克服しえぬ痛みであると知ってしまったのならば、それこそを笑いの対象として掘り起こす道化にでも託さない限り、そんなとめどもない無言の欠落感はいかようにも補完のしようがないのではないかというわけです。そして、その欠落感とは、この物語世界に置き換えて言うならば、読者たるヒトビトの平安と安心に他ならないというわけです」
 「んん? わしらの欠落感が人々の平安と安心じゃと?」
 「はい、私たちは、作者の意向というものを意識して物語を生きることが課題であったとしても、作者が読者を意識するようには、ヒトビトの平安と安心への思いを双肩に担って生きることが第一義ではないということです」
 「ふむ、まあ、そうかもしらんな。
 しかし、なんじゃな、わしら芸術を志すもんは、往々にして神の愛を見失ったときが自分を道化へと陥れてしまうときなんじゃな。ところが、これには、よお気付かんのじゃ。ま、いうたら、ここいらが芸術家の泣き所じゃな」
 リストのみならず理想主義的な宗教者というものも苦悩という身体性に引きずられている限りは、それなりに現実的な救済を見逃さない平衡感覚に長けているはずであるが、しかし救済がたとえ死後のことであったとしても、それが確実であると納得できれば救済されたも同然というのだから、所詮救済願望のヒトビトは誰もが楽観主義者だと呼ばざるをえないけれど、ここで行者はどうかと目を転じてみれば、いまだ私の神話的欲求に対して明晰なる回答を用意することもなく、わけもなくハッピーからロマン的気分へと擦り抜けてそれでもなお違和感を湛えた不明性を引きずったままで、この思考の遊園地で行く当てのないスペーストラベラー気取りでいられるというのだから、行者こそは現実的感覚も自堕落なただの楽観主義者にすぎないのではないかと思えてならない。ムハハ。
 それにしても、私の計画など意にも介さないリスト老人と行者を抱え、いつ終わるのか想像もつかない作業に追われていれば、『ミスタードーナッツ』ならずもこの仕事場で、せめて欝的に冷めたコーヒーを一服の解毒剤としなければ、作者たる神の身も心も晴れぬというところなのだ。
 この秋葉原の電気屋街もすでにほとんどの店が日曜日の面影を喪失しているこの時間に意固地なまでに日曜日の最後を担いつつ、それでも明日は早々に街の目覚めを喚起する新鮮なる月曜日を実現するであろうと思われる『ミスタードーナッツ』に、保健所のみならず税務署からも表彰されて不思議のない花マル印の健全経営さえも売りものにしてはばからないハッピー気分なんてものがあるとするならば、それはヒトビトの何の気なしの気楽な気分さえも資本という欲望の戦略に取り込んで、なおかつ売上向上や市場拡大がお題目のとめどない欲望さえも営業実績で評価する倫理観に擦り替えて、結局は<ハッピー気分>の一言でヒトビトに愛される『ミスタードーナッツ王国』が実現可能と洗脳された純真なる信者の若き店長を送り込み、このころはまだまだ女学生の羨望と欲望を担って余りある王国のアルバイトとしてハッピーで濡れ手に泡の労働力を吸い上げて、一日中どこを割ってみてもハッピー気分しか出てこない金太郎飴店舗を維持しえたころではあったかもしれないが、しかし閉店間近の金太郎飴は誰がどんなに上手に割ろうとしても、歪んでしまう金太郎さんの一人や二人はしょうがないやと諦めて貰わなければならないこともあるように、そんな揺らぎの真只中にわれらが二人の<かたぶとりの太モモ>がいて、所詮は労働にすぎないハッピー気分に拘束されて毎日「何かいいことないかな」へと自己解放の欲望を高めつつ、そんな「いいこと」がどれほどの幻想に支えられた「何か」であるかなど誰も知るよしはないというわけで、毎日の「いいこと幻想」を育む不成就性ゆえの楽しみを、労働という穢れをそこそこの後片付けという祓いの儀式で取り繕うことで辛うじて破綻させずに済ましてみせるきわどい遊びにしておけばいいものを、うっかり遊びきれずにのめり込み「何かいいこと」が所詮はありえぬ王国幻想ゆえに不成就性でありながら、それと知りつつもとめどない幻想の豊かさに見合った虚構の大きさを抱え込む自己喪失に陥ってしまったとするならば、結局は荒廃した休耕田のヒステリックなバギナのように、淫靡にして神聖なる聖犯の快楽的祝祭を準備するしかないという無垢な欲望に捧げる日々を生きてしまったことの事実が重くなり、期せずして誰はばかることのない祭りの準備が整って、未だ知りえぬ「いいこと幻想」の現前で肉質の高なる穢れを醸成したことになり、もはや閉店の約束よりは早過ぎるそこそこの「毎度ありがとうございました。また明日のご来店をお待ち致しております」程度の祓いでは、到底解消しえぬ現実が聖犯の期待で緊迫し、いつのまにか「どれほどのこともない現実」では納得できない祝祭へと踏み出して行くことになる。
 「ところで、どうなんじゃろうか。あんた、そのケースに残っとるドーナッツを、少しまとめて買ってあげたら、あの娘たちも、早引けするのに気が楽になるじゃろうが、どうなんじゃ?」
 「ああ…、そっ、そうですかね。それで、私が…」
 「ああ、あんたが買うてやったらええじゃないか」
 「はあ…」
 「ちょっと、すまんが…」
 「はい、ただ今」
 店長が歪んだ金太郎さんを丸抱えにしてなおかつ余りあるハッピー気分で現れる。すでに<かたぶとりの太モモ>たちは帰り支度に入ったようだ。
 「店長さんじゃったな、あの、わしらな、ちょっと子細あってあの娘らをお借りしますがな、あんたらが心配するようなことはないから大丈夫じゃ。それというてはなんじゃが、あんたに、ご迷惑をお掛けすることになって申し訳ないからの、そこに残っとるドーナッツを少し頂いて行きたいんじゃが…」
 「あ、あの…、僕は、別に保護者ってわけじゃないから…。それに、今日は、もうこれだけですから…」
 「ほうか、すまんこってすな。それでどうなんじゃ、あんたぼやっとしとらんで、なんかよさそうなもんを、適当に選んだらええじゃないか」
 せかされた行者が不本意ながらドーナッツを選ぶ。
 「じゃ、それと、それを混ぜて、一〇個ほど…」
 「はい、かしこまりました。
 …そうしますと、七四〇円になります。有り難うございました」
 行者が釣銭を受け取って赤貧の隠遁生活に降り懸かる思わぬ散財を納得すべく、これから期待される物語未来を取り込んでささやかなる収支決算を整えながら、同時にそれが、さらに予期せぬ大きな負担のささやかなる前兆にすぎないのかもしれないという、思わぬ不安を過ぎらせているあいだにも、リスト老人はテイクアウトの箱を受け取って出口へと向かう。
 おや、帰り支度を整えた行者が店長の目を気にすることもなく何かやっている。
 素早い連続技で印契を結び早口の呪文を唱えながら瞑想的バイブレーションを発しているところからすれば、やはり予期せぬ不安を払拭し物語未来を好転させるつもりの<護身法>と思われる。
 どうやらこの物語世界の未だ語られていない希望とその現象力を手繰り寄せ、私の神話的欲求が無意識に負化してしまう言葉の闇を無意味のままの虚空にして、それが沈黙であることの思いを解かれ、唯一静寂という意味においてのみ空気の凝結が目に見えるものになるように物語的時空間を停止させて、それがまるで表現者たる私の創造的なる想像力のジクジクとした情念の欝的な自己顕示欲までも拘束しかねないのだから、私にしてみれば、とりあえずは快適なまでの昂揚感で反省的表現力を取り繕い、行者の思惑など到底届かぬ言葉たちを手繰り寄せることになる。
 とはいうものの、はたしてうまく行くか…
 それにしても『ミスタードーナッツ』は、ただ呆然と立ち尽くす店長をよそに、いつまでもエンドレスのハッピー気分なのだ。

 

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