(1) ドーナッツの好きな中年男は変態か



プロローグ



 いま (1990年) アメリカのマスコミでは、あのプレスリーの生存が賞金付きで取りざたされているけれど、彼がすでに帰らぬ人であったにしても、あるいは金満家の世捨人として隠棲していようとも、まだまだ夢多き時代であったアメリカの一九六〇年代を衝撃的なセックスシンボルとして席巻したという、そんな伝説の人であることに変わりはない。
 一九七七年の夏、彼が中年男の発育不全という、いや、発育不全の中年化という悍(おぞま)しきノイローゼのために曰くフルーツゼリーのたっぷり入った甘い甘いドーナッツをたらふく食って、ものの見事に欲求不満の白豚と化し、全身金色の産毛をバーター色の脂汗で固めた肉塊に成り下がり、ブヨブヨに膨張した容積分を母性愛への飢餓で満たしていたとすれば、そんな癒しようのない苦悩の自重に耐えかねて、たとえ闇雲に神の愛に華麗なる最後の快楽を求めざるをえないという哀しい賭に出ていたとしても、結局は消極的な自己逃避という無惨な死によってしか辻妻を合わせられなかったはずなのだ。
 それにしてもアメリカのみならず同時代者たるわれわれの青臭い情欲が、プレスリーという羨望の伝説とともに永劫に浄化されつつ遠ざかり続けるはずが、よりによってドーナッツとの心中で崩壊させられてしまったのだから、何も知らないドーナッツは予期せぬ役柄を演じたことになり、あまねく中年男の宿命的なる自己矛盾に対峙して、ひとつの変態性の伝説を語り起こすものになってしまったのだ。
 そんな思いが中年男の哀しい不成就性の感性を横滑りさせ、たとえばニューオリンズの『カフェ・ド・ムンドウ』なんかに迷い込んでしまったときに、なぜか四角いドーナッツにかぶりついたその目を上げたとたん、虚ろに開いた瞳孔の真っ只中に飛び込んできたのが、パウダーシュガーで赤い唇を真っ白にして、時代がかったアイシャドゥで縁取られた潤んだ瞳が、やたらと意味ありげなブロンドの美しい中年のオカマだとすれば、あるいはまた、Tシャツから溢れ出た褐色の筋肉をピクピクさせながら、白い唇のおじさんがジットリとした眼差しで見つめ返しているとすれば、何につけても心貧しい中年は、訳もなく潔癖で崇高で鈍重な感性をエイズの恐怖から守るべくあわてて身構えたとしても、すでに神聖なる性欲が凌辱されてしまったとでも言いたげな衝撃的な不幸を抱え込み、まるで無垢なシュガーがエイズパウダーとでも言いうるものに変身していたと思わずにいられない、肛門処女の処女懐胎という破廉恥な貞操破りの快感に委ねてしまうはずなのだ。
 「ああ、僕の性欲は犯されていく…」
 そんな口にできない思いの現前で、まして屈折するには明るすぎる白日の下で倒錯した快感を醸成する闇などあろうはずもないけれど、それでも止めどなく押し寄せる破廉恥な興奮を、わざわざ確認してからでなければ捨てられないという錯綜した愛欲への憧れを弄んでいるうちは、いつまでも店の出口さえ見つけられないというわけで、冷やかし半分に顔の前を過ぎる女のヒップの訴求力のみならず冷たい視線にはじかれて、かろうじて貧しき知性の回復に辿り着けることがあるならば、遅まきながらドーナッツを変態性の象徴へと祭り上げる余裕を取り戻し、なんとか食い掛けのドーナッツを放置して、いそいそとテーブルを離れることができるかも知れないが、それでもしばらくは男蒸れのする濃い化粧品の臭いに呪縛され、とうとう肉化してしまった妄想世界に抱きしめられて何度も何度も身震いしつつ、呪われた性欲の哀惜に屈辱的なる自己撞着を抱え込まざるをえないのだから、旅の一夜は消化不良の股間を慈しみながら無駄にしてしまうことすら覚悟しなければならないのだ。
 そもそもここに言う中年男とは、いつも若い娘のむっちりとしたバストやヒップや太股の大好きな常識的な助平で、あの六〇年代には栄光のミニスカートに取り付かれ、まだまだ見果てぬ夢であった女の股間に視姦の欲望さえも完結しえぬままに時の流れで失速し、もはやエイズ怖さに視姦の眼差しさえ虚ろにしたままで、今はただ呆然とハイレグの水着やレオタードに切ない心を遊ばせるだけの小心者ではあるけれど、いやいや、思い起こせば、すでに語り始めた物語を挫折したままにしているうちに解決してしまった数々の問題というのがあるわけで、そのうちの一つがよりによって物語の情況設定になっている<ミニスカートの終焉>ということでもあるのだから、幸か不幸か八〇年代から九〇年代に掛けての<六〇年代への回帰現象>が、混在錯綜する価値観の中でささやかにミニスカートを復権させている有り様で、今さらながらに戸惑いの中でほほえましい娘たちの自己顕示欲に感謝する次第ではあるけれど、だからといって過去の悶々たる思いの中から見定めた自己認識が、私のみならず中年男の人格形成の中から抹消されてしまうわけでもないと気を取り直してみれば、ま、それはそれとして、それでも中年男たるものは、空白の七〇年代にはひたすら場末のピンサロや、今はすでに改称されたソープランドに入り浸っていたという、まるで成り行きまかせの楽天家であったはずだから、もはや成金ニッポンでは探すことさえ困難な貧しさゆえのションベン臭い淫靡な夜にさえ、金で換算しうる性欲の道徳的経済感覚を身につけた現実主義者でもあった事実を見据えれば、それはかつて赤線による人格形成を容認し奨励さえしていた性欲の帝国主義者たちに、いかなる自己欺瞞も反省をも見い出しえぬままに生き延びられた好運な強者たちの末裔なのだ。
 しかしそんな自らの来歴に対してさえほとんど無自覚で、しかもあの七〇年代でさえささやかなる性欲に交際接待費を垂れ流す権能も才覚もなく、ひたすら屋台で己の無能を嘆きつつ理不尽なる世の摂理を恨みながら、切々たる憂さを晴らしていた哀しい助平たちもいたわけで、いやいやそれが大方の助平的実相であったとすれば、彼らは風営法施行以前の歌舞伎町にも近づかずひたすら家内安全の古女房を抱きながら、それから先の当てのない定年までの日々を数えていたのかもしれないが、そんな忍従の助平も今では然したる羞恥心を問題にするまでもなく、行きがかり上の欲望をたまたまの出来心に擦り変える自己了解のタイミングさえ逃さなければ、明るく楽しいアダルトのレンタルビテオに陰棲し取り残された助平を温存させることが出来る算段ではあるけれど、ところが、いま物語を始めようとする一九七八年の二月には、まだまだ哀しい助平たちが鬱々として成金ニッポンの夜明けを待っていた時代なのだ。
 そんなわけで、気が付けば、ちょっと場違いな顔はしてるものの、『ミスタードーナッツ』なんかに紛れ込んだか弱き中年男がいて、その当時一杯一〇〇円ゆえに絶大なる価値を認めていたコーヒーの煮詰まった臭いにめげることもなく、そこそこの幸せ顔を決め込んで、到底一〇〇円以上では有り得ない温もりだけをぼそぼそとすするだけではあるけれど、そんな幸せの実態はこれだとばかり、ささやかに太股むき出しのウエイトレスのマニュアル仕立ての動きに心を委ね、たとえ無心の機械仕掛でも元気にかがんでくれさえすれば思わずこぼれる肉感が見られるはずと身構えて、それさえも思うようには果たせぬままに、いつの間にかショーケースの中の太く長くそして堅く捻り上げられたドーナッツが、小さな柔らかい素手でむんずと握られる様を夢想し続けることになったとしても、そんな一時の楽しみにさえ、想いもよらぬ家内安全への後ろめたさが頭をもたげ、もはや己の体臭にまでなってしまった古女房の、充分に脂の浮いた性欲を顔を歪めて思い出しては持て余し、何事も<当たり前>でしかない倦怠感を、今さらながらに背負い直しては吐くため息で、望むべくもない新鮮なる女体への思いをひたすら<若さ>への憧れへと高めつつ、はからずも神秘的になってしまった<若さ>の下で、己の欲望をことごとく閉塞情況へと貶めて、然したる根拠もない悲哀なんかを噛みしめていれば、それはそれでまだまだ健全なる精神の中年男と言うわけだったのだ。
 だから、そんな中年男の鬱々とした助平が、ふっと通りかかった『ミスタードーナッツ』で、「そうだ、何かやり忘れていることがあったっけ?」と突然立ち止まり、後ろから来た女の娘が避けきれずにぶつかって、「なによ!?」なんて険しい顔で罵倒され為す術もなく立ちすくんでいても、所詮忘れ物は、それまで言葉にすることもない至って日常的な不成就性の思いの中でのことだから、今さら何が何んであったかさえ思い出せない焦りに落ち込んで、いつの間にかやり直す動機も目的も見当たらない失われた物への郷愁だけが切なくこみ上げて、訳もなく自己喪失へと駆り立てる自分だけが浮き上がり、ただ立ち止まるだけのことでさえ、ヒトビトのささやかなる約束ごとからほんの少しずれてしまった自分が見えてきて、すでに、今さら掘り起こしてもどうにもならない欲望が、不意に目覚めたうたた寝のやり場のない勃起のように未解決の矛盾と確執に引き裂かれて蘇り、自虐的な感動が脳天へと突き抜けて止めどなく甘美な痛みが沸き上がり、回春へのうれし泣きにも似た感動の中で艶かしいほどの熱い嗚咽を漏らしながら、思わず「ああ、こんなはずじゃなかったのに…」なんて呟いてみても、それがいつの間にか朝まだきの青白い光の中で、諦めばかりが浮いて見える古女房の寝顔を眺めてのため息に擦り変わっていたなんてことがしばしばなのだから、何はともあれ『ミスタードーナッツ』あたりに紛れ込み、まだまだ燃え残りの温もりを宿すシナモンクルーラーなんかを慈しみながら、とりあえずの現実に目をつむり情熱だけで生き延びる幻想と夢想の空間で、妄想にも似た救済の世界に向けてささやかなる反省力を射精することができるなら、たとえそれが家内安全夫婦円満のお守り付きセックスのカラ元気だとしても、そんな闇雲な性欲を貫徹できる情熱に目覚めるだけのことで、変態と呼ばれてもめげることのない脂ぎった厚顔無恥を、ヒトビトの眼差しに晒されただけで鮮血がほとばしり出るほどの繊細さで回復し、白目も黄色く濁ったおじさんたちの起死回生の道を探ることができるはずなのだ。
 ところが、私は、そんな起死回生の道をほんの出来心で<物語>に求めてみたけれど、気が付けばそれもすでに九年の歳月をただの不成就性の助平として浪費したにすぎなくて、たびたびの挑戦にも関わらず、そのたびにとめどもなく沸き上がる言葉の欲望だけに翻弄されて、物語の約束を貫徹できぬ非才に泣きながら為す術もなく物語の闇に立ちすくんでいたのだから、今ここで己の体たらくを白状してしまっては今更どれほどの<助平物語>でもないけれど、そこは誠に勝手ながら、心のすきま風が止められない助平心を持て余す中年男の業と見なしていただいて、無為のまま放置したために遠の昔に解決してしまったことごとくの問題の挫折の現場に立ち会いながら、もはやいかなる問題もヒトビトの心優しい好奇心に喚起してさえも、結局は「それがどうしたのさ?」と移り気な顔で看過されてしまう程度のことと了解しつつ、それでもヒトビトのことごとくの約束世界に切ない風穴を明ける程度の企みと腹をくくり、失礼ながら元を正せばただの出来心というわけでもないけれど、ヒトビトの心優しい助平心からも助平で逸脱し続ける楽しみを温存して、ことごとくが不成就性で塗り込められた中年男の慚愧の思いを語り起こそうという魂胆なのだ。

 

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 一九七八年二月、秋葉原の中央通りを上野方面に広がる電気屋街の賑わいも日曜日にはせいぜい『ヤマギワ電気』辺りまでだから、こんなにも冷たい風が強い夕暮れ時は、その先より上野の輝きの直前までは電気の栄光も届かぬ闇となり、正に無明へと誘う寒風だけが形のない欲望を抱え、言葉の届かぬ精神世界へと吹き抜けるだけなのだ。
 『ミスタードーナッツ28号店』はそんな異次元の入り口でいつも変わらぬハッピー気分をまき散らしながら、未だ語られていない物語のことごとくのアンハッピーな欲望を招いている。
 ほら、ご覧なさい。いま、北風を孕んだ一つの影がハッピー気分に吸い込まれていく。
 「いらっしゃいませ!!」
 いや、まったくよく教育された明朗快活なウェイトレスが、私のささやかにして未だ無意味にすぎない作為的なる憶断を一掃し、あたかも<ミスタードーナッツ的真実>のために与えられたハッピー的函数などというものがあるかのように、いかなる客も捕らえて放さぬ均質の笑顔で立っている。
 「ご注文は何にいたしましょうか」
 冷気に縛られたその客が一つの変項としてまだハッピーという回答の手がかりさえ掴めぬうちに、笑顔が物語を始めてしまうのだ。
 「お客様、こちらでお召し上がりでしょうか、それともお持ち帰りでしょうか?」 「いや…」
 「はい、お召し上がりでございますね。かしこまりました」
 はたして客はハッピーのためにいかなる変項たりうるのか、そんな私の想像など到底届かぬ無表情のままであるが、客は私の老婆心などまったく受け付けぬ的確さで二本のシナモンクルーラーとコーヒーを注文する。
 「はい、そういたしますと二四〇円になります。少々お待ちくださいませ…。
 お席はこちらでよろしいでしょうか?」
ウェイトレスがレジの脇のカウンターにトレーを運べば、客はことごとくの約束を破棄するかのような思い詰めた顔で言う。
 「いや、こちらにしましょう」
 カウンターに向かって左の奥へ移動する。
 「はい、かしこまりました。ただ今コーヒーをお持ちいたします」
 ところで当世の少年少女たちは知る由もないことだとは思うけれど、当時はテレビでもしばしば耳にした『ミスタードーナッツ』のコマーシャルソングという代物があって、これが終日店内に流れていたのだ。そんなわけでエンドレスという戦略自体がそもそものあからさまな目的を語っているわけでもあるけれど、コマーシャルソングが企む執拗なる感性の整形化という笑顔の押し売りは、たとえばいつまでも注文しない自閉症的優柔不断の硬直化した沈黙者のみならず、いかなる冷気を纏った正体不明者も、ことごとく溶解させてまったく過不足ないハッピー気分を一つずつ担わせることになるのだ。そして、それがたとえ「お一人様二四〇円也」のことにすぎなくても、それだけで充分に語り得る<ミスタードーナッツ的真実>というものがあることに思い至らせるのだから、すでに客足の途絶えたこの時間にエンドレスの情報は、崇高なる真実のことさらなる<空しさ>と<無力感>を顕在化させるばかりなのだ。
 そこで、崇高なる「お一人様二四〇円也」の真実に思わぬ揺らぎを抱え込むことになる『ミスタードーナッツ』の<空しさ>と<無力感>を<違和感>と言い換えてみるならば、それは多分この客の容貌にも関わることかも知れない。
 この人物の様相を端的に言うならば、正に中年的でありながらなぜか非生産的で脱社会的であるけれど、だからといってヤクザな暴力的気負いもなくましてヒロイックな悲壮感などもなく、たとえ陰険な眼差しで挙動不審をあげつらうつもりでも、むしろ実直堅実なる風情がそれをこともなげに挫折させてしまうのだから、それは嫌みな私の憶断が、剃上げた頭の反社会的な訴求力と、当時としてはまだ珍しかった僧侶の作務衣を街なかで着ていることによる違和感に幻惑されての早とちりかも知れない。
 しかしその作務衣にしても上着だけのことで下は正統的なカッティングのジーンズを着いて、さらに素足に履いたゴム草履がことごとくの違和感を至って日常的な領域に引き戻しているというわけで、ただ時期外れの軽装が唯一際立った違和感であると改めて見定めることができるという次第だから、言い換えてみれば場違いな坊主の軽装がかろうじてジーンズの日常性に救われて、例えば、有ろう事かわざわざ繁華街に現れては托鉢をして歩く此見よがしの雲水が修行の非日常性を押し売りしては、ヒトビトの一切皆苦という情況認識の無関心に衝撃の一喝を入れてやったと陰でほくそえむなんていう、そんなわざとらしい愚行に陥らぬ抑制力になっているというわけなのだ。
 しかしどう見たって抹香臭い人物であることに違いはないと思えるけれど、だからといってそこいらの金満家に成り下がった葬式坊主や、檀家喪失で寺院経営に戦々恐々の生臭坊主といった凡俗の気配もなく、まして未だ親から住職の座を譲ってもらえぬままに、とうとう中年になってしまった道楽坊主という発育不全を背負った気配もないのだから、ここは宗教家と言うよりはむしろ自己目的的な修行者とか、あるいは隠遁者と呼ぶ方がふさわしいのかもしれないが、それもまるで無理のない欲望の年金生活者といった風情なのだから、たとえ彼が恨み辛みにまみれた異次元者たちの泥々とした欲望と陰謀を担い、幽谷深山に隠棲して人類滅亡を画策したとしても、まったく人畜無害と言っていいほどに非暴力的な穏健さなのだ。
 これがとりあえずこの人物によって喚起される<ミスタードーナッツ的違和感>というわけであるが、もう一つ見落としてならないものがある。それは『石丸電気』で買ってきたとわかる黄色いパッケージのレコードが、膝に乗せたベージュ色の在り来たりのショルダーバッグの上に置かれているという事実なのだ。
 それは<ミスタードーナッツ的違和感>と同様に<石丸電気的違和感>と言いうるものであるが、なぜかこの中年男が喚起するアンハッピーな違和感が『ミスタードーナッツ』のみならず『石丸電気』に至るまでの『秋葉原』という物語的状況設定を、当たり前たりえぬものへと横滑りさせてしまう気配であることを記して置かなければならないのだ。無論それは私の勝手な思いこみであるかもしれないが、しかしこの人物の風貌に立ち入るならば、どうやら<当たり前な街を当たり前に語る>よりは、<当たり前足りえぬ人物を当たり前に語る>ことで<当たり前足りえぬ物語を当たり前に語る>方が面白そうだという、そのへんの事情はご了解いただけるものと思われる。
 まず、冬なのにほどよく日焼けした乾性の顔は、すでに禿上がっている額を計算ずくで剃り上げた頭に調和させ、決してスポーツなんかではない屋外の風を纏った表情が、多分彼の自然観とでもいいうるものによって保証された日常作務とでもいう軽作業で培われたものであることを想像させる。それはもともと肉体労働者ほどの逞しさを持ち合わせてはいないものの、荒れた大きな手が作業効率のいい実務的な様相を示しているところを見ればわかることでもあるが、そんな実践的な生活が醸し出す充実した表情は、とりもなおさず心身の調和からくる安定感ということになるけれど、その表情があくまでも端正に感じられるのは、ひょっとするとただ単に経済的な、あるいは意図的計画的な粗食による栄養不足の諸相といったところかもしれない。
 ところで彼の痩身にして骨太の体型とは、ごく一般的な社交辞令を踏まえて言うならば動作機敏にして頭脳明晰というところであるが、ここでその明晰さを伺い知る根拠を探るならば、牛乳瓶の底ほどもある近視鏡の奥で、澄んだ眼差しが、時として鋭い眼光で抜け目のない洞察力と思考の純粋性を示しているなんてところかもしれない。それは同時にその見据えた眼力が自己顕示の強さを暗示して、場合によっては何事にもかたくななる態度を取り続ける偏狭さを想像させるけれど、ただ二重瞼にしてかなりの出目が、幸いにも人の心のささやかなる機微を見逃さぬ機知を感じさせて、もしもそれが豊かな感性によって補完されることがあるならば、その眼差しは、いかなる冷たさをも克服しうる理知的な優しさへと変貌させる事が可能なのだ。
 では、そんな感性をどこに求めるかといえば、とりあえずは骨相学的視座で語るときに、側頭部の顳かみから耳の上部にかけて発達したラッキョ型の絶壁頭と、それを支える首が細くて長いところにその顕著な特徴を見ることになる。しかもそれが本人の厳密なる自己認識に支えられた過不足のない了解事項になっているならば、それは正に本来の性格と呼びうるものとして、かなり鋭利で豊かな感受性を体得する事になるけれど、それが純粋であればあるほど観念的傾向を強め、性的な意味においては典型的な早漏型のオナニストということにもなりかねず、その観念的に過ぎるほどの感性は当然ながら利己的で激しやすく、しかも繊細さに拘泥し過ぎることに無自覚ならば、何事にも潔癖な病的完全主義に陥る危険を孕んだ性分が想像できるというわけなのだ。
 いや、どうやらそれも単なる想像の領域にとどまる事でもなさそうだ。なぜならここで想定される性格ゆえのことごとくの独善性が、あろう事か頬がこけていてエラが張っているように見える顔つきの総体的な訴求力に対応している有り様で、私が勝手にあげつらう憶断の一つ一つが、ことごとく偏狭な我の強さを暗示するものとして了解されてしまうのだから、この頑固さは己を律することの出来る反省的な純粋性で制御されることよってのみ、自己の信奉する理念への意志と確信を育むものになり得るという体のものなのだ。
 それにしても、この薄い眉毛が発達した骨格に支えられている様は、なんという不幸としてみるべきか。つまりここで想定される短気にして孤独なる性分が、自ずと肉親相克の相を暗示しているというわけで、それは自らの抱える信念に拘泥するあまり、そんな態度がまわりからは自己愛の欲望にまみれた主張としてしか理解されなくて、かかる人々の一層の反発的な我執を喚起して家庭崩壊を招くという、やりきれないほどの悪循環になっているのだ。したがって、彼の信念がもしも家族愛に支えられてのことならば、彼は自らの愛で身を滅ぼすというとんでもない矛盾構造を抱えている事になる。
 そこで、このどんずまりの顔にせめてもの救いはないものかと気を取り直し、かろうじてバランスよく発達した唇に理性と感性のほど良い調和を見い出してみるが、しかしこれも豊かな肉質がかえって愛欲の深さを示すことになり、すでに明らかになっている有り余るほどの自我と観念的な想念が、言い換えるならば理想と現実の軋みに引き裂かれ続ける理想主義的理性と現実的感性の相克が、さらには繊細な感覚と泥々とした欲望がことごとくの決断と自己主張の現場で確執となり、ここではそもそもの内省的な自己完結性が足かせになって、ある時は禁欲的に、いや場合によってはもっと自虐的なまでに昂揚して屈折することさえ想像されるのだから、拮抗する肉質が、ことごとく裏目になって倒錯的な愛欲への執着を阻止できぬ退廃的な人格性を秘めていることさえ伺わせる始末なのだ。
 もはやここまでくると、われわれがごく当たり前のものとして考えていた『ミスタードーナッツ』や『石丸電気』に対して、彼が喚起しうる違和感とは、実はありていの健全さというやつが常識・文化・制度という無言の抑圧になっていて、純粋すぎるものの危険性や倒錯的になるまで貫かれた愛欲を、ことごとく排除し隠蔽しようとする企みになっているということを、事も無げに平然と露呈しているところに遭遇することの居心地の悪さ、いや、むしろわれわれの常識的な価値観が、彼の倒錯的な存在感によって強烈に糾弾されているということへの不快感からくるものだと言えるのだ。
 それにしてもわれわれは、プロローグ以来中年男が関わるドーナッツに変態性といいうる違和感を見定めてきたという事実を取り消したりするつもりはないのだから、いささかも『ミスタードーナッツ』と『石丸電気』を異端視するつもりはないけれど、しかしそれにしてはなぜかこの中年男の屈折した存在感が『ミスタードーナッツ』という状況を破綻させることもなく、いやむしろ二四〇円也という<ミスタードーナッツ的真実>以上の何ものかを担って余りある風情であることに驚かされるのだ。
 そこで私はこの中年男にことさらなる違和感を付与するという策略を退けて、私とこの中年男との間に見い出しうる違和感にこそ問題を見定めて、この物語を語り続けたいと思う。
 さて、彼に対する私の勝手な憶断が物語を停止させてしまているが、彼がカウンターに座りその端然たる様で身を整えるまでもなくコーヒーが運ばれてくる。
 「お待たせいたしました!」
 閉店間近のコーヒーはすでに煮詰まった臭いをあげている。
 軽い黙礼を返した彼は何やら両手を合わせて呪文を唱えている。
 「オンアボキャホジャマニハンドマバジレイタタギャタビロギティサンマンダハラサラウン…」
 われわれは、つい忙しさと目先の豊かさにかまけて食事のできる幸せに感謝の気持ちを捧げる純情を忘れかけて久しいが、だからといって食事が生命という掛け替えのない存在の維持発展に根ざす即自性の無垢な欲望に支えられた厳粛な営みであることを、不都合に思うほど荒んでしまった覚えはないけれど、しかしここで彼が示す<当たり前足りえぬものの当たり前さ>は、ドーナッツなどに象徴されるハッピー気分の食行為というものを、どうやらおやつ感覚へと横滑りさせてしまったわれわれ凡俗のふしだらな欲望に、辛辣な反省力のメッセージを投げかけているように思えてならないのだ。
 しかし、それにしてもあの謙虚にして瞑想的な眼差しはいかがなものか。前言を覆すような言い方で申し訳ないが、相手はたかがドーナッツなのだから、あの精神的にすぎる身のこなしは到底尋常とは思えないし、おまけに有りもしない神聖さを取り繕って余りあるほどの確信に満ちた充足感は、何にもまして意識過剰ではないかと言いたいけれど、それがどうしたわけか、なんとも居心地の悪いものを感じさせながらそれでも幻惑的でエロチックであるというのだから、私は知らないうちに己の感性の危機に立ち会っているのかもしれない。
 ほら、あのシナモンクルーラーのはちきれそうな肉塊が、いやいや厳しいまでにサディスティックに締め上げられたその充実感が、今にも破裂してしまいそうな危機的情況の真っ只中で…、ああっ、見よ、至高の精神的領域で決断された厳粛なる儀式がいま唐突に始まろうとする予感、それは悍しいほどの歯形がことごとくの欲望を無惨にも遮断していく快感なのだ!!
 ああ、いかん…、どうしたことか思い入れが過ぎるようだ…
 そもそも彼の清楚にして端正なる風貌に宗教的な意味を認め、すでに欲望の年金生活者たりえているはずだと言い出したのは私ではあるけれど、だからといって彼の生真面目な部分が反照的に喚起しうる生々しい情念に、私の言葉が感応しないはずもないのだから、たとえ私の思い入れがすでに己の告白にまでなっているとしても、彼とて中年男であることを回避しえぬ以上、必ずや中年になってしまったために未解決にしている禁欲的諸相として語りうるものを、しかも今さら言葉にはしえぬほどのささやかなる想念にすぎないものを、私のみならず彼でさえ、自らが感知しえぬ自分という存在の根幹に隠していて不思議はないのだから、そんな時間の地層に埋没させてしまっているものを抑圧された反省力で掘り起こしてみれば、たとえそれが、ごく在り来たりの感傷的な快感に成り下がった観念的なる自己崩壊の記憶にすぎなくて、もはや軌道をそれた放物線を止めどなく降下するだけの無重力感の中に、子宮を出たての胎児ほどの無防備な姿を垣間見るなんていう想像を弄ぶ結果になったとしても、それが荒唐無稽ではない物語がすでに語り起こされてしまっていては、いまここに放置されていて未だ彼がいかなる意味付けもしていない食行為が、その沈黙ゆえに私の言葉を孕む油断になっていることに彼自身が無頓着でありつづける限り、寡黙なる儀式が彼の存立に致命的な揺らぎを与える欠落感になるであろうことを、私は密かに期待せずにはいられないのだ。
 そう、「ドーナッツの好きな中年男は変態だ」という確信に向けて…
 とは言うものの、私が勝手にあげつらうドーナッツ的偏見なるものを、無防備な彼に押し付けるのは、作者たるものの傲慢さだとご批判の向きも有ろうかと思うので、より開かれた物語未来の実践こそを身上とする私としては、ここで彼に、未だ沈黙のままになっているもののみならず、彼の精神生活についてまで自由に語ってもらうつもりなのだ。
 おおっと、読者は不審に思われるかもしれないが、ここでは劇中作家たりえぬ私が物語に参入したり、場合によっては劇中人物が物語を逸脱することが認められた物語なのだ。そもそも彼の精神的な食行為のみならず瞑想というものは、精神世界の想像的創造力により身体性をも解放していく営みであるのだから、そんな瞑想空間を足掛かりにすれば、身体性によって存在を拘束する物語に風穴をあけることぐらいは朝飯前なのだ。われわれはこの風穴を自在に操ることにより相互理解のみならず物語の可能性を広げることが出来るのだ。
 現に私はこの物語によって己の内なる反省力に目覚め、あるいはヒトビトに対して自己表出する動機と場所さえも獲得しているのだから、この物語では劇中人物のみならずこの場を踏まえて表現者たらんとするすべての者に対し、誰がどのような主体性を主張し獲得しようとも、誰もそれを阻害したり拘束する権能を与えられることがないというわけで、主体性の確立とは無差別に保証されたわれわれの権利というべきものになっているのだ。ムハハ!
 いかがかな? これほど寛大なる作者なんて、そんじょそこいらの小説家ごときを探したって、おいそれと見つかるもんじゃないと自負している次第なのだ。したがって、これを作者の怠慢とか無責任だなんて思うのは下種の勘ぐりと言うもんですぞ、心して反省されたし。ムハハ!
 さて、いつまでも無駄口をたたいている暇はない。さっそく彼にメッセージを送らなければならない。
 「ちょっと失礼。私は今きみの瞑想的な食事を拝見しているところですがねえ、そのことについてちょっとお尋ねしたいことがあるんだけど、どうだろうか?」
 ほらご覧なさい、彼は別に驚いた様子も見せない。あの瞑想的な顔のままドーナッツを持つ手を静かにテーブルに下ろした。
 「どなたか知りませんが、突然何事でしょうか?」
 「いや、これは失礼。実は、私は今この物語を書き進めている者なんですがね、どうも、君の様子が気になってしょうがないんですよ。言い換えるならば、私の言葉が無性に君のことを語りたがっているというわけです。
 それでね、そんな私の勝手な憶断で言葉を弄んでいては、君のことを歪曲して読者に伝えてしまいかねないという気がしたわけなんです。ですから、出来れば、その瞑想的な食事についてでもいいんですが、何か君の所見なり自己紹介といったものをお聞かせ願いたいというわけなんです」
 「ちょっと待ってください。あなたは、私について何かを語っているというのですか?」
 「いや別に、君を陥れようなんてことじゃないんだ。私はあまねく中年男が抱える<不成就性の欲望>について物語を進めようと思っているんだけどね、そうしたらどういうわけか、その『ミスタードーナッツ』における君の存在が気になってしょうがないんだよ」
 「どういうことですか?
 私がここにいることが不都合だとでも言うのですか?」
 「そういう訳じゃないんだ。だけど、私の言葉を刺激するほどの違和感を君が抱えているということは無視できない。つまり、私がお尋ねしたいのは、その違和感に対する君の弁明といったものなんだ」
 「ふむ、違和感ですか。すると、あなたは私のこの格好に興味が有るんですか?」
 「まあ、確かにそれも要因の一つではあるけどね、それだけじゃないんだ。
 実はね、その『ミスタードーナッツ』のハッピー気分というのが、余りにも画一化されて硬直化した笑顔というやつを感じさせるもんだからね、そういうものが無言のうちに負化し排斥しているものが見えてしょうがないってこと。そう、ハッピーに対峙するものとして言えば、たとえば愚劣な政治によって引き起こされる世界の飢餓なんてものが象徴するアンハッピーってやつだね。
 そこでだ、どうしたって『ミスタードーナッツ』の中で異質に見える君は、何かの意図があって、われわれにその世界のアンハッピーにまつわる問題を提起しようって魂胆じゃないかと思ってね」
 「確かに、今あなたが言われた世界の飢餓はゆゆしき問題ですがね、しかしアンハッピーという観点からいうならば、私の関わる問題ではありません」
 「じゃ、まあ、アンハッピーと世界の飢餓は置いておくとしてね、君は<ミスタードーナッツ的意味>が負化しているものを担って存在しているという自覚をお持ちかな?」
 「ちょっと待ってください。私はあなたのいう<ミスタードーナッツ的意味>とか<物語>っていうのが分からないんですから、なにも言うことはありません」
 「んん、そう言われてみればそうか。じゃ質問を変えよう。
 いま君が、そこでドーナッツを食べるという行為がね、どういうわけか、私には、何か禁欲的なものによって疎外されたものが、やむにやまれぬ思いで吹き出しかねないような緊張したものを感じさせるってことです。
 そこで、その瞑想的な食行為が負化しているものとは一体なんなのか、それが知りたいのです」
 「むむ…。私は、あなたに言われるまでもなく反省力というものを推進力にして生きるような生活をしている者ですがね、だからといって、あなたの、その作意的な質問に答えなければならない理由はないでしょう」
 「ふうん、ま、そう答を焦ることもないか…。
 だけどねえ、どうも私が見てるとね、ドーナッツを食べるってこと自体がすでに禁欲的に感じられるってことが不思議なんだなあ…。
 だってそうだろう、禁欲っていうのは<好きでもないものを食べる>ってことよりも、むしろ<好きなものは食べない>っていう発想のはずだからね。どう見たって君がドーナッツを嫌っているとは思えないしねえ。その意味で言えば禁欲的であるはずはない。まして禁欲性なんてものは問答無用にして無理難題の抑圧みたいなもんだからね、かえって脂ぎった欲望ってものを感じさせるはずなんだけど、君の場合はそれもない。
 そんなわけで、君の様子が端正で禁欲的であればあるほどかえって何か抑圧されて屈折した陰性の快感が垣間見えるってことなんだ。
 ちょっと立ち入った言い方になって恐縮なんだけどね、ひょっとすると<僕は断じて猥褻ではない>なんていう自己欺瞞が、君の神秘的空間に向けてジクジクとした羞恥心を昂揚させているのではないか、なんてことが言いたくなるほど不思議に切羽詰まったものを感じさせるんだね」
「……」
 「どう? ちょっと挑発的にすぎる言い方だったかな…、でも当たらずとも遠からずってとこでしょ?」
 「失敬な。私は、あなたにこんな形で自己批判を迫られる理由は持ち合わせていないつもりですがね」
 「いや失礼失礼。君を怒らせるつもりはないんだ」
 「だったら、唐突にそんな言い方はないでしょう」
 「まあそうなんだけどね、実は、君に対する私の立場というものが、そういうことを自由に言えるところにあるってことを、是非知っていただこうという気もあったもんだからね。ま、それでちょっと辛辣ではあるけれどエールの交換といったつもりなんですよ」
 「大きなお世話ですよ。だいいちあなたの言う立場にしたって、それはあなたの勝手な物語にすぎないんですよ。つまり、あなたは人に自己批判を迫る以前に自分の問題としてそれを捕らえるべきなんです」
 「いやあ、結構結構。それでいいんです。本日のエールの交換はそんなところにしておきましょう」
 「ちっともよくありませんよ。非常に不愉快だ」
 「まあまあ、そんなに向きになると余計に勘ぐられますよ。
 とにかく言葉にしえないジクジクとしたものを、隠蔽し続けようなんて姑息な欲求を持っている限りは、君自身の屈折した欲求からも、私の執拗な追求からも逃れられないというわけです、ハハハ」
 「それはどうかな、何事かを隠蔽して屈折した欲求を抱えているのはあなたの方じゃないの…」
 「ハハハ、おっしゃる通りそうかもしれません。しかし、君もすでに中年男と言われて言い訳の出来る歳ではないはずなんだから、私としては、私と同様に屈折した欲求の一つやふたつは持っていて当然だと考えているわけですよ。
 まあ、そんなわけですからね、中年男の不成就性というものを問題にしていこうとする限り、自己批判というアプローチはわれわれに共通の手段足りうるってわけですよ」
 「とにかく自己批判とは、正に言葉通り私自身の問題です。今さらあなたに不成就性などという問題を押し付けられる理由はありませんね」
 「ふむ。まあ、いいでしょう。話題を変えましょう。
 どうやらお見うけしたところ、そのドーナッツに対する思い入れたっぷりの食事方にも、いわゆる君の宗教的理念なんてものがあるように思われるんだけど、その辺の事情を一つお聞かせ願えませんか?」
 「しかし、あなたはずいぶんな勝手な人だなあ…。次から次へといろいろなことを言ってくるけれど、結局のところ、あなたは私にどうしろと言うのですか?」
 「いやあ、そう開き直られると困っちゃうんだけど、私としては、もっと君のことを知りたいと思ってね…」
 「ふうん、なに考えてるんだか分かったもんじゃないね。でも、ま、いいでしょう。きっと何かのご縁というわけなんでしょうから…」
 「さすがですねえ。情況認識が早い。そして決断も早い」
 「いまさら煽てたってダメですよ」
 「ハハハ。そこで早速なんですが、その宗教的理念ってやつを…、おおっと、その前に、君をなんと呼んだらいいのかね?」
 「ん? そうですねえ、とりあえずは行者ということにしておいて下さい。そしてこの行者という呼び名こそが私の宗教的理念を体現させているというわけです。
 つまり行者たる私の目的とは密教にいう即身成仏ということになります。ただしここで断っておきますが、私は既存の宗派に出家し帰依した僧侶というわけではありません。その意味においては孤立無援の行者というわけですから、いわゆる伝統的な出家者からすれば、その目的も所詮は成仏のパロディーにすぎません。
 むろん、そういった批判は重々承知の上で言うことなんですが、私にすれば密教にいう<即身成仏>も釈尊の解脱あるいは涅槃ということに照らしてみれば、やはり空海の創造力に負うところの一つのパロディーにすぎないという想いがあるわけです。現に空海は再び回帰することのない<涅槃寂浄>に入らずに、あくまでも善意の霊的存在として生き続けているというのだから、私の言うパロディーとは、時代的要請によって変容を余儀なくされるものという意味でもあるわけです。言い換えるならば<横滑りし続ける真実>ということです。
 ま、この辺の能書きは、またいずれ機会があったらにしましょう。とにかく、ここで私がいいたいことは、釈尊の知恵を体得するのに伝統的な手法しかないと考えるのは、至って偏狭な権威主義にすぎないということです」
 「ほほう、なかなか気骨のある発言で結構じゃないですか。その心意気は大いに買いますよ。ところで私としてはね、君の成仏論とそのドーナッツとの関係について何らかの説明が欲しいわけですよ」
 「それは密教の食事作法で唱える<普供養真言>によって明らかにすることが出来ます。普供養真言とは先ほど唱えた呪文のようなものですがね、あれを和訳すると<如来が、効験あらたかにして決して空しくない供養の顕現として認知されている金剛の宝珠蓮華よ、あまねく十方に現れてください>というわけです。
 そしてこの真言を唱えるときのイメージは、<前世現世来世の十方を司る宇宙の原理によって存在する諸仏諸菩薩ならびに先祖代々の諸精霊にあまねく供養いたします>ってわけです。しかし、結局は供養する立場の自分がそれを食べてしまうわけですから、ここで私が食べることは仏の身を借りて食べることでなければなりません。つまり自分が供養されていることになります。
 むろん自分への供養とは、己の存在に負の意味において関わる霊的な欲望とか意志に対する供養というわけで、いずれにしても供養を受けたことに対する応供ということ、つまり食べ物が与えられるという様々なご縁に感謝し、その善意に報いる努力が要請されているわけです」
 「ほほう、それは面白い。それはそれで、なかなかのご高説として承りますよ。しかしねえ、私が見たところでは、その君が、この『ミスタードーナッツ』で平静さを取り繕うその奥で、ドーナッツへの抜き差しならない情念ってやつを抱えているんじゃなかろうかってね、思えてならないのですよ。
 そんな根の深い欲情に身を焦がし心を乱しているはずなのに、それでも仏として食べるってのは、どうも押しが太すぎるんじゃないかと思ってね…」
 「なんべんも言うように、あなたがドーナッツ物語をでっち上げるのはあなたの勝手ですがね、だからといってそんなもので私を拘束しないで貰いたい。
 いま私にとって、このドーナッツを食べることは、仏として<あるべし>ことの行為そのものでありつつ、それは同時に仏として<ある>ことの経験へと誘うのです。実はこれこそが私の宗教的な知見というわけです。
 ついでですから、ちょっと補足の説明をしますとね、『いかなる行為もそれを反省的に対自化する経験性がなければ行為として認知しえず、いかなる経験もそれを支える即自的な行為性がなければ経験を語りえない』。つまり行為と経験とは一切の<表現>を成立させる表裏一体にして同時成立の要素であり、<あるべし>ことと<ある>こともまた<自己表出>を成立させる表裏一体にして同時成立の要素なのだ、というわけです。
 とにかく、ドーナッツが猥褻でなければ納得できないというのは、あなた自身の問題であるはずなのです」
 「ふむふむ、そのご忠告はありがたく承っておくことにしましょう。
 ところで、私としては、君に聞きたいことがまだまだあるんだけど、ま、物語は始まったばかりだから、またいずれの機会にしましょう」
 そんなわけで、彼への瞑想的な接触は一応の成果が得られたと考えて、私は『ミスタードーナッツ』の現場から撤退することにした。


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 そこで、われわれは彼があえて問題にすることを避けているドーナッツの宗教的な意味について考えてみたいと思うけど、しかしこの試みは、真摯な表現者になれという彼の忠告を意図的に無視するつもりはないものの、すでに独断と偏見による言葉遊びとして語り始めてしまった物語のことだから、到底、彼の忠告に答えられるものになるという保証など与えられる代物ではないのだ、ムハハ。
 そもそもシナモンクルーラーは、素手で握りしめるのをはばかられるほどに無垢な欲望を露呈しているのだから、中年男にしてみれば、まるで思春期の剥き身の亀頭に戸惑いと期待を込めて触れたあの痛いほどの充足感に、いま挫折する己を見る思いを払拭できなくて、パラフィン紙に包んで持つ持ち方にまで、もはやありえぬ回春への屈辱的なためらいの痕跡を隠しきれるはずもなく、まして中年男の現実的な欲望で粘りに粘った唾液が絡む口腔を、辛いばかりの不成就性のタバコなんかでヒリヒリに枯渇させ、中年ゆえの捨てられない生活を勝手な哀しみで塗り込めて、禁欲的なまでの快感を醸成するのが落ちだから、たとえ行者とて中年の真っ只中にいて、自己崩壊によってしか成就しえぬ快感を知らないと言い切れるはずもなく、孤独なシナモンクルーラーは自虐的に勃起し続ける男根へと意味充実しているはずなのだ。
 そんなわけで、ナルシシストの中年が戸惑いの中でくわえつつ握りしめる男根の担う宗教性を、一気に神話世界を支える生命賛歌の信仰へと横滑りさせることが出来るなら、それは神話的祭儀を司る動機を<男根崇拝>と<女陰崇拝>に見定める世界観によって、たとえば男根が豊饒を招きあるいは邪気悪霊を祓い、女陰が生命の源泉として繁殖、豊饒、多産の大地母神へと象徴されて、正に性器露出の祝祭が<笑い>によってこそ社会の秩序と生命力を回復したであろう底抜けの滑稽さを思いつつ、そんな祭司にして神官たるに不足のないこの中年男を<性器崇拝の行者>へと位置づけて、『ミスタードーナッツ』がハッピー気分の真っ只中で、自己忘却的に抱え込むことごとくの違和感を担わせるつもりなのだ。
 とすれば、はたして<性器崇拝の行者>は、あのシナモンクルーラーをくわえたままで、この欝的なる中年男的世界観にいかなる救済の楽園を実現しうるのか。
 見よ、行者の瞑想という助平の擬装工作が、あの食行為という悍しき自意識をまるで無表情に見せてはいるものの、それは、そもそも硬直化したハッピー気分によって相対化されたあの違和感のなせる技だから、『ミスタードーナッツ』であまねく中年男の欲求不満が目で犯すことしか許されぬミニスカートの<かたぶとりの太モモ>が、その<かたぶとり>という健康さで独占する躍動感を振りかざし、自らが無意識のうちに排斥し軽蔑し負化する陰湿なる倒錯的欲情こそを打ちのめしてしまうときに、今さらながらに哀しき中年男が己の空しい快感を託すシナモンクルーラーは、<かたぶとりの太モモ>に突き立って、果たせぬ妄想の崩壊に立ち会うことで不成就性の羞恥心を背負わされ、もはや不本意なる慚愧の念いにさいなまれるだけだとしても、そんなことごとくの一切を無表情で取り繕う余裕の中で、美人でもないのに圧倒的に魅力的な<かたぶとりの太モモ>に畏敬を捧げる優しささえあれば、<太モモ>は、ホームカットやオールドファッションからフレンチクルーラーに至るまでのドーナッツにおける正統的意味を贈られて、正に<ミスドーナッツ>の称号と栄光を身に纏い、そのまま女陰を象徴する宗教的意味へと昇化され、わけもなく行者の性器崇拝を相対的に構築する確固たる原理性を獲得することになるのだ。
 そしてこれこそが、この物語を神話として語りたいと願う私の基本的な情況設定というわけであるが、『ミスタードーナッツ』に関わってしまったために、男根と女陰というふたつの原理に自らの性欲と快楽を分裂させられてしまった行者は、彼が主張する即身成仏をいかにして実現することができるのか。
 もっともこの問い掛けは、彼にしてみればわれわれが捏造しうる安易な問題にすぎないけれど、それも承知であえて勝手な物語と開き直り、この見果てぬ夢を模索することが許されるとして、至って当然に行者が大地母神<ミスドーナッツ>のご託宣を受ける神憑りの男根というカリスマ性を獲得し、<かたぶとりの太モモ>的世界構築のために、ありとあらゆる女陰に自らの意志を神の欲望として実現しうるかと考えてみても、それが哀しい中年男の助平の延長で語られる物語にすぎないのならば、たとえば結婚したいと願いつつ夢からあぶれた女が遠の昔に三十を過ぎて、今さらジムに通ってみても筋肉のない<かたぶとり>など望むべくもないというわけで、今では成熟が評価されない街角で若すぎる男の視姦を誘ってみても、誰も声さえ掛けてくれない視線の前で、驚くほどの早さと悲惨さで腐肉化してしまう肉塊は、ただブヨブヨの性欲に成り下がり、必死に<されたい>欲望ばかりを浄化させ辛うじて生き返るしかないはずだから、不覚にもそんな思いが切なく見えるおじさんや、けなげな痛みを見過ごせない気の好い酔っぱらいのみならず、たまたま成りゆきの性欲だけでくわえ込まれた助平たちは、限りなく遠ざかりつづける<かたぶとり>幻想へと、昇らされては突き落とされるなけなしの屈辱に、そんなはずではなかったのにと思いつつ、すでに性器崇拝の霊力さえも空しくしてしまった男根を握りしめ、もはや崇高たりえぬ女陰に埋没し生と死を支配する魔性の中で、ただ欲望世界の救済のためにスケープゴードにされた業罪が、結局は生まれ変わり死に変わりに流されて絶倫たりえぬ助平の当たり前の結末だとしても、ことごとくの助平が崇拝されるべき男根を失念しつつ、女陰に抱いた心優しい信仰心に己の足元を掬われてしまう危機感とは、たまたま運の悪い一時の発情期の悪夢として看過できるものとは思えないけれど…
 われわれは、ささやかなる男の夢を託すことになるかもしれない行者のために、さらに検討を重ねてみなければならないが、だからといって性器崇拝の神話的原理を呪術的な聖性行為なんかに見定めて、穢れと祓いの循環構造でとめどもなく繰り返される聖性行為に神秘的な快楽を探ってみても、それはまだわれわれの思い過ごしの域を出るものではないのだ。
 ところで行者はどうしているかといえば、われわれの心配をよそにすっかり『ミスタードーナッツ』における非人称的な顔を獲得し、すでに二本目のシナモンクルーラーの太く確かな存在を掌中におさめ、いま正に、いや、どうしたことか、今度はなぜか食いちぎることもなく…、あらら、なぜかいつまでもくわえたままで涙ぐみ、まるで露骨な異物を包み込む口腔の粘膜を、女陰へと自己移入なしえた至福の表情ということなのか、褐色の欲望を非情なまでに締め上げてザラザラとした甘い想念で凝結したシナモンクルーラーの、未だ果たせぬ念いだけが充血した哀しみさえも優しく許して受け入れて、しかも生暖かいヌメヌメとした肉質の切ないほどに寛容で潤沢な自己愛の襞でからみつき、もう傷だらけにされてもいいと切なく媚びる妖しい情欲で取り乱し、ザワザワと波立つ女の腹を細い首に纏わせて、絶え絶えの息をなおも詰まらせてはまた涙ぐみ、永遠に果たされぬ充血と知りながらいつまでも決別の歯型さえつけられぬままに、ただとめどなく涌き上がり滴る体液が母なる泉を潤すにまかせれば、後はただシナモンクルーラー自身からは決して語り起こせぬ空しささえも、深い慈しみの中で溶解しうる奇跡を願うばかりのことだから、もはや己の男根をくわえ込む至難にして究極のマスターベーションは未完のままに放置するしかないというわけで、中断こそが唯一の回答にすぎない空しさを、そのまま飲み込んでしまわなければ納まりのつかない昂ぶりの境地では、犯しつつ犯されて永劫にたゆたう母性の欲望に身をまかせ、寄せては返す快感のうねりで生き延びるゼリーフィッシュの純愛のように、ただ理性の浜に打ち上げられたくないと自己忘却の達人を決め込むようなものだと納得することもできるけど、それはまた、男の男根崇拝においてさえ、その無意識にはアニマ(女性性)を探り当てなければおさまらない信仰という名の快楽を堂々巡りに追い込んで、気がつけばマザーコンプレックスという憂欝の現前で、憂欝ゆえの小賢しい直観が自らの足元に、たとえば視姦されたがる<かたぶとりの太モモ>が秘蔵するアニムス(男性性)的快感をたぐりよせ、自己喪失した母性に追慕の苦悩で引き裂かれた繊細な感性が、自虐的なまでに屈折している様に遭遇するようなものかも知れないが、それとてもムズムズとしたアヌスの快楽が閉鎖的に昇華するホモセクシャルな自慰で完結しつつ、自己目的的に享受されるだけの精液がベチャベチャにしてしまった<かたぶとりの太モモ>を呪いながら、あとは変態の烙印を欲しいままにするオナニストとして、そんじょそこいらの健全なる精神では、到底及びもつかない高貴な倒錯を至福のうちに体得するだけのことだから、いまわれわれが棚上げされた感性の中で垣間見てきた性器崇拝の地平とは、たとえ多感な子供たちに色狂いと呼ばれても一向にめげない至って健康な夫婦の性生活が、自らのふしだらな情欲を卑下することすら知らない暴力的な愉楽の他力本願で、気がつけば無垢な欲望が知らないうちに完結し自らが<荒ぶる神>に成り上がり、交接したままでタバコなんかを吹かしながら引き延ばされた快感を弄び無意味な笑いにまどろむことがあるように、破廉恥にして怠惰なほど純粋に目的と化した行為世界の戯れと見定めざるをえないとしても、そもそもは、男性性と女性性というこの残忍なまでに異質にしてしかし同根の欲望を司る生身の神々を、単に男根と女陰という原理において中年行者ひとりの創造的想像力に委ねるなんて、どんなに荘厳な快楽を捏造しようとも到底至難の技といわなければならないのだ。
 しかし性器崇拝の行者には、何んとしてでもこの物語を担って立てるだけの確かな存在理由を与えたいと願う私は、もはや神話的世界の集団的祭儀性で共有される快楽に、そのささやかなる手掛かりを探るしかないのではないかなどと思ってみたりするのだが…。
 それとても今思い当たるものといえば、たとえば行者が<かたぶとりの太モモ>との共軛的な瞑想世界を切り拓き、<男性のアニマ>と<女性のアニムス>が<男根具有の女性>と<女陰具有の男性>による<聖性行為>として、自己矛盾によってしか語れぬ止めどない弁証法に覚醒するだけのことだから、両性的感性の男と女が単に二人のヒトによる<両性器具有の一人の超人>として、それはまったく荒唐無稽ではあるけれど、<無性的超越者>という統一原理を捏造することにより普遍的といいうる快楽を享受するしかないといったことなのだ。
 はたしてこの中年行者に、そんな限りなく醒めて燃える不死鳥のような感性を要求することが出来るのか。
 それは下手をすれば、この禁欲的風貌の中にこそ、解放されることのない瞑想的マスターベーションが醸成させるはずの自己愛へと逃避しつづける意志薄弱を探り当て、そんな感性の土壌にマザーコンプレックスゆえの自虐的な性格を見据えつつ、そこで与えられた回答にすぎない感覚によって、もともとの問題である優柔不断な体質を糾弾するなんてことになりかねないのだから、こんな本末転倒の繰り返しに捕らわれかねない発想では、いかようにも不死鳥を飛びたたせる保証が得られない。
 おおっと、私の言葉遊びが過ぎたのか、それとも自分の言葉に迷いあらぬ妄想に陥っていたということなのか、行者はいつの間にか瞑想的マスターベーションをすり抜けてシナモンクルーラーを切断し、なぜか残した食べかけを丁寧にパラフィン紙で包んでいるけれど、それは唐突な充実感の遮断によって瓦解した想念の肉質の伽藍の壮麗さに見合うものを、取り残されたものが担う虚脱感のまま口腔の納まりのつかない空間と見定めて、もう昇りつめることのない快感の中途半端な余韻を、ただ消滅していく空間としてのみ与えられた時間として慈しむようなものだから、たとえば非日常的な解放感の中で思わず大胆にして露骨なカーセックスをしてしまい、愛されていると自覚する女が自らの因って立つ羞恥心をかなぐり捨てて、こんなところでなかったらもっと喜ばしてあげたのになんて言い出してしまったときに、ここでこそ発情しえた純情を霧散させ男の消化不良の欲望が、屈辱的で淋しい不成就性の意味を凝結させてしまうことでしかないともいえるけれど、ことごくの食べかけがどんなに冷めた念いで置かれたにしても、この静寂なる行者のあるものとしてはありえぬシナモンクルーラーの確執は、いままでミスタードーナッツ的笑顔に整型されて非人称的に振る舞っていたウェイトレスを逸脱させて、たまたま中年男だけが店に取り残されたたった一人の客であるという思わぬ事態に引き戻し、売上二四〇円以外に問う必要のない違和感に無言で対峙する客に回答のないまま直面させてしまうのだから、彼女たちは硬直化した笑顔でミスドーナッツたりえた神秘性を喪失しつつ、今度は単に<かたぶとりの太モモ>という若さゆえの快活な排他性を身に纏い、中年男の回答のない挫折感に眉をひそめ、所詮は好奇心を満足させるだけの貧欲な快楽志向が未開発の性感帯を放置したままで、新たなる快感へと存在投企してしまう若さそのものとなるように、自らの感覚的貧困を卑下する苦悩など無意識のうちに回避してしまっているとしても、ほとんど快活な欲求不満だけでは辻褄の合わない思いは、言葉としては期待しえぬ未回答のままにして、中年男の挫折感を弄ぶことで納得しなければならないのだ。
 「ねえ、あのひと、ちょっと変だと思わない…」
 「よしなよ、そんなところで。聞こえちゃうよ」
 「大丈夫よ。これくらいの声なら。だいいち、そっちいったら、店長がいるじゃない…」
 「だから、よしなよ」
 「ふうん、そうやって、好い娘ぶるんだ…」
 「そういうわけじゃないけど…。だって、お客さんのこと話題にしちゃいけないって…」
 「だってさ、ちょっと変じゃないの?」
 「どうして? シナモンクルーラーくわえて涙ぐんでたからって、いいじゃない」
 「ああ!? そういう言い方するんだ。あなたねえ、中年男がドーナッツくわえて涙ぐんでるなんて、どう考えたって普通じゃないでしょ?」
 「普通じゃなくたって、いいじゃない。ちょっと服装というか、センスが変わってる程度のことでしょ。別に迷惑になってないんだから…」
 「あなた、そんなこと言うけど、じゃ後から入ってきたお客が、あの人の隣に座ると思う?」
 「そんなこと知らないわよ。そういうのって、偏見よ」
 「偏見とは何よ。あたしは、常識的な平衡感覚が鋭いだけよ」
 「よく言うわよ。ああっ、見てるわよ…」
 「あ、あたしは結構、あなたにお任せするわ」
 「んもう…」
 「何してんのよ、何か言いたそうな顔してるじゃない。行ってあげなさいよ」
 ドンっと後ろから突かれて、一人のウェイトレスが前に出る。突かれた拍子にミスタードーナッツ的笑顔へと、とりあえずの変身は済ませたものの足取りは重い。
 「は、はい、何か…」
 「いや、別に、用はないのですが…、実は、あなたがたのお話が聞こえてしまったもんですから…」
 「ああっ、す、すいません!!」
 取ってつけた笑顔がそのまま引きつって蒼白になり、ぎこちなく深い礼をひとつする。
 「いや、いいんですよ。変わってるのは顔だけじゃないくらいのことは、充分承知してますから…」
 もうひとりのウェイトレスがおずおずと出てくる。
 「ごめんなさい、聞こえちゃいました? あの、ずいぶん耳がいいんですね」
 「な、なに余計なこといってんのよ。すいません、この娘、気がきかないもんですから」
 「いや、普通なら聞こえないんでしょうが…、このところ、こんなことがよくあるんですよ。何て言うんでしょうか、霊感みたいなもんとでも言いましょうか」
 後から顔を出した娘が、まるで自分には落ち度がなかったかのような顔でいう。
 「そっ、そうでしょう。それでなきゃ、あんな小さな声だったんだもの、聞こえるはずないと思ったんだ!」
 「霊感って、そういうので、遠くの話が聞こえちゃうんですか?」
 「ふむ、最近ね。今までは、自分でもあまり気にはしてなかたんですが、このところ、ちょいちょい、こんなことが有りましてね。あとは、目に見えない人の声が聞こえたりするんですよ」
 「ほ、ほんとですか!?」
 「ウソォミターイッ」
 そういえばこのころから、すでに女学生の間では発育不全の感嘆詞が使われていたが、それと同時に女の娘の間における霊感や占いへの好奇心も、すでに醸成されつつあるころだった。当然ながら<かたぶとりの太モモ>もそんな娘たちのひとりなのだ。
 「目に見えない人って、それじゃお化けじゃない!!」
 「んん、まあ…、そういうことになりますか。ハハハ」
 二人のウェイトレスはすっかり自前の笑顔に戻ってしまい、エンドレスのコマーシャルソングだけが、弛緩してしまった<ミスタードーナッツ的真実>を歌い上げようと焦っている。ここで<好奇心の太モモ>と呼びうる娘が、いささか目を輝かせている。
 「おじさん、ハハハなんて気取ってるけど、そういうのって、普通じゃないんじゃないですか」
 「ん、まあ、そうですね。でもあなたが言われるように、私は普通でなくても、それでちょうどいいんじゃないですか、ハハハ」
 「ああ、まいった。そういうことか…」
 「あなた、そういうのって、失礼よ」
 「またまた、ひとり好いかっこしちゃって」
 「ちがうわよ。お化けなんていうのは、ちょっと普通じゃないけれど、でもあたしのお友達なんかにも、よくお化けを見る娘がいるもん…。あ、あの、ちょっと聞いてもいいですか?」
 「ああ、どうぞ」
 「その目に見えない人って、どんなこと言うんですか?」
 「そうですね、いろいろですよ。ただ私の場合は、いま皆さんが考えていらっしゃるようなお化けとは、ちょっと違うかも知れませんよ」
 「どう違うんですか?」
 「実は、先程から、ドーナッツを食べ始めましたら、そんな声が聞こえていたもんですから…。それで、皆さんにも、ちょっと変な奴だなと、思われてしまったんじゃないかと思いますが…」
 「やっぱり…、なんか、そういう感じだったもんね」
 そこで行者が軽く両手を合わせて金剛合掌し、迷いのない眼差しをスッと天井に向ければ、<太モモ>たちでさえ疑うことのなかった<ミスタードーナッツ的真実>が、まるで柔な幻想として失墜するのが垣間見えて、ことごとくのハッピーがアンハッピーとさえ名付けられることもなく、ただ<神なきハッピー>として凝結してしまう異次元が拓かれてしまうけど、思わぬパラダイムチェンジにたじろぐ二人にしてみても、所詮は気軽な暇潰しと割り切ってのことだから、あれよあれよというまに中年男の眼差しが神秘的に変わっていく顛末は、木っ端役人まるだしの、たとえば保健所の女の娘にさえインケンムシと呼ばれ、それを誇りに思うド近眼の定年間近の小心者が、あの天井の一点にそれはそれは大きな大腸菌がゴキブリくわえてへばり付く様を、これこそは千載一遇の大発見とばかり、もうなけなしの権力を振りかざすだけで思わず歓喜の涙にむせってしまうのを呆れ顔で見るようなものだから、客に見られてはならない約束が店長の泣きっ面とともに瓦解する、そんなときめきに身構える程度のことなのだ。
 「たぶん皆さんにとっては、思いもよらぬ戯言のように聞こえるかもしれませんが、まあ、適当に聞いてください。たとえば、私がここにいることが皆さんを意味づけることになっているのか、あるいは皆さんによって私の存在理由が与えられるのかという、こんなことに何等かの回答を用意せざるをえないような問い掛けをしてくるわけです。
 ああ、そっ、そんな哀れみの笑顔は不必要ですよ。私はいたって正気ですから。ただちょっと変わっている程度のこととしてご了解ください。
 とにかく、私が苦慮していることは、この問い掛けてくる意志が、いったい誰であるのか未だ特定しえないということなんです。
 たとえば私自身の無意識的な反省力と考えられないこともないのですが、それにしてはかなり他者性の意志というような、場合によっては超越的な意志とでもいいましょうか、そういうものを感じさせるってことなんです。ちょっと面倒な言葉を使わせて頂くならば、直観的な理性によって決断しなければ特定しえないような、いたって抽象的で形而上学的な存在ということなんです。
 ただこの正体不明の意志が、どういうわけか、このドーナッツに対して異常なほどの興味を示すということなんです。その意味では、かなり霊的な存在といってもいいほどの肉感をもっているわけです」
 「ウッソォ、ドーナッツに怨みでも持って死んだ人があるっていうの?」
 「さあ、ドーナッツを怨んでいたかどうかは知らないけれど、あのプレスリーなんかは、ドーナッツを目の仇のように食って、その挙げ句に死んだって言うじゃないですか…。
 ま、この際プレスリーはどうでもいいんですが、ただ、いま心配していることは、私に問い掛けてくる意志の超越性みたいなものを安易に認めてしまうと、後でとんでもないことになってしまうのではないかという不安なんです」
 「あの、おじさんねえ、今日はもう暇だから付き合ってあげてもいいんだけど、おじさんが何を言いたいんだか、全然分からないのよ。おじさんが、何か心配しているのは分かるけど、それとあたしたちが何か関係あるわけ?」
 「ええ、そういうことです。
 たとえば、今日ここに来たことが、私のごく個人的な動機によるものとしましょう、ところがこの事実が、ほんの行き掛かりにすぎない皆さんの運命に少なからぬ影響を与えてしまうということです」
 「待った待った、おじさんがここで何か変なことしようっていうの?」
 「いや、そんなつもりはありません。ただ、そんな予感がするということです」
 「あたしたちを、からかってるんじゃないの? 何んか怖いこと言って…」
 「ははん、そうか、そういうのが中年の手なんだ!! 脅かしたり宥めたりしといて、ちょっとすきを見せたらものにしようっていうんじゃないの…。なんかやらしいなあ…」
 「いやあ、これは参りました。そんなに変わって見えますか…」
 それを取り繕うように、もうひとりが受けて立つ。
 「いや、そ、そういうつもりじゃないと思うけど…、ねえ、あなた、そうなんでしょ!?」
 「ヘヘヘ」
 「またあ、そんな笑い方して…」
 「ま、ご安心ください。ところでねえ、皆さんは、神様なんてものの存在を信じますか?」
 「ああ、これだ。あたし、そういうの駄目。あなたは神を信じますかあ、なんていうのが駄目なのよ。そうか! そうすると何? やはり、おじさんって、そういう人だったの?」
 「そう言われても困るんですが、たぶん、あなたが言われるような布教者とか伝導者とは違います」
 「じゃ、どうして神様なの?」
 「ええ…、たとえば皆さんが、ごく普通に暮らしていて、神の意志というようなものを感じることがあるかどうかと思いましてね」
 「まあず、あたしは無いわね」
 「どっちかっていうと、あたしは有るほうかな…」
 「そうですか。じゃ、ま、とりあえずその神がいると仮定しましょう。ところがです、この神が、どうしたわけか、かなり自分勝手だということなんです。よく言うところの神聖さとか、崇高さなんかとは、ほとんど無縁と言ってもいいようなものだっていうことなんです」
 「どういうこと? それじや、その神様とやらが、おまえはカワユイから、犠牲にして食べちゃうゾなんていうわけ?」
 「ハハハ。まあ、そういうことも有り得るわけです」
 「ウッソォ!! それじゃただの変態じゃないの…」
 「すると、どういうことなの、おじさんに語り掛けてくる誰かっていうのが、その変態ってわけ?」
 「いや、変態かどうかは分かりませんが、ただ、心配だと言ったのは、私に語り掛けてくる意志というのが、実は、皆さんに対しても同様の意志を行使しうるのではないかということなんです」
 「どうして、そういうことになっちゃうの?」
 「ねええ、信じられない!!」
 「まったく、この世は、理不尽なことばかりです」
 「そっ、そんなあ…、おじさんはただの理不尽で済むかもしれないけれど、あたしたちは、そういうわけにはいかないわよ、ねえ」
 「そういうこと!!」
 「いや、私にとっても大問題なのです。たぶん生きるか死ぬかのね…」
 「またまた、そうやって話を合わせなくたっていいわよ」
 「どうして、あなたって、そういう言いかたをするの?」
 「いけない?」
 「当然でしょ。だって結構マジだもん…」
 「そおお? そおいう感じでもないけどなあ…」
 「まあ、生き方、死に方は、それぞれ各個人の問題ですから、私の問題がそのまま皆さんに該当するかどうかは分かりませんけどね。実は、私は、ご覧の通りの格好ですから、とりあえずは宗教的なことに関わる人間とお考えください。
 皆さんには、なかなかご理解頂けないこととは思いますけどね、私の場合は、即身成仏というものを目指す行者というわけなんです。まあ、そんな顔をしないでちょっと聞いてください。
 私の立場では、仏という救済の境地とか理念というものはあるんですが、唯一絶対の神というものの存在を想定することがないのです。その意味においては無神論というわけです。ところが、そんな私に対して、あたかも神の存在を認めざるをえないようなことが次々と起こるということなんです」
 まったくどういうつもりなのか、行者は<太モモ>たちをすっかり掌握したつもりなっている。これは私の作為を超えた偶発的な展開と言わなければならないが、こんなところにも、ささやかなる男の非現実性と女の現実性との不毛の確執を読み取ることが出来るような気がしてならない。
 それは、ただ話がかみ合わないというだけのことではなくて、不毛の確執からくる行き違いに彼らが気付いていないということだとすれば、そもそもはごく日常的に散在している誤解程度のことにすぎないけれど、そんな不毛に迷い込みあまねく<かたぶとりの太モモ>とでも言いうる若い娘が、下町も南千住界隈に見定めて、三の輪のイトーヨーカ堂のナイロンのひと山から拾い上げた1枚のスキャンティーに、かたぶとりのヒップに相応の刺さるほどに強質の陰毛をからめて締め上げて、それがどう見ても不安定な位置に安住しようとする、一度座ったらツルリと剥けてしまわないのが納得できない、それゆえにヌード写真では雑誌の表面を掻きむしりたくなるほどに「見たい」という焦燥感を充血させてはばからない、女の下着におけるインターナショナルな戦略が、ほとんど若い男が知らぬままに西欧的感覚へと擦り替えられて、男の民族主義的心情を逆撫でされていることなど知るよしもないけれど、ただ見せないだけのことかと思ってみても、今どき赤い腰巻で処理するわけにはいかない生理用品の実用的機能の最前線で、西欧的感覚こそが女の体臭をしたたかに隠蔽しつづける現実にたじろぐまでもなく、それがどんずまりの現実で「さあ、どうするの」と荒唐無稽な決断を迫られる男と女の互いのプライドをいかに守りぬくかの戦場においてさえ、どんなに傷だらけでもハッピーエンドでなければ納まらない、今となってはすでに古典となった南こうせつの『神田川』に思いを馳せるまでもなく、あまねく同時代者にとってのみ哀しい風景が都会の路地裏感覚として見えてくれば、いかに饒舌に抽象化した若い男と女の性欲も所詮は制御不能に陥って、「今がいいんだから…」と言えばすべての不毛が愛情で整う事後処理的夢物語を弄び、どこにでもあるそれでいてもう回帰できない時代の中で、甘く切ない少女趣味の四畳半一間の安アパートは、仕送りというワナに絡め取られて逃げられない陰険なる親への空々しい罪悪感にさいなまれ、男が通ってきて何日も帰らない女学生の生活のすることすべてがわざとらしくて照れ臭く、オレンジ色と黄色の快感が特価で彩なすカーテン下げて、もう何日も続く異常乾燥の吹きっさらしの夜に、安普請の底の見えた建物がほどほどに古くなりすぎて、昼でさえへばり付いたビルが哀しくて日陰に暮らす臭いが辛くても、裸電球ひとつに哀しさ委ね、せめてもの小さなサークライン灯してみれば、やたらと白らけた光の中に赤いばかりの布団が目立ってしまう電気コタツが恥ずかしく、昨日とて昼過ぎから数えてみれば三つ四つと抱き合って、空しさばかりを暖めてみても、温もり漂う哀しみの生々しいばかりの芳香が愛のないほど優しく薫り、あろうはずのない愛をまさぐりながら、指にからまる陰毛の捕らえて放さぬ情欲に身の毛のよだつ痛みを引けば、たちまち男の現実が、今さら世界と社会と自分を語るまでもなく、ただ訳もなく誇らしげに約束の地に眠るために快楽の時を吸い込んだティシューと名付ける白い花片に飾られて、お花畑が切なくて「俺はこんなことしてていいのかな」なんて言ってみても、もはやいいはずのない深みに落ち込んで「こんなこと」ばかりを充血させるだけだから、気まぐれに「コーヒーでも入れてあげようか」なんて<太もも>が、食い散らかしたクッキーなんか拾い集めては口に運び、虚ろな雑誌のグラビアに男根と結婚の両立しないスウィートホームを築いては崩し、見え透いた溜め息の「あたしもバカな女ネェ」でさえも、聞かせる男がいればこその幸せに、心地のよい沈黙を勝手に純愛と名付ける信仰へと高め、今さら誰にはばかることのない聖性欲は、若さだけが人並みで後は屈辱的なまでに比べることの多さに生活が重く、それでも「生きるためだから」の愛の信仰生活は、「あなただけを愛してる」のお題目さえあれば、アルバイトという仮面だけでどんな屈辱だって偽ってみせられる現実に、まだファッションヘルスのないころは新興地方都市に現れて駅の裏手のピンサロで、面の割れない利点を活かし手堅いことで空洞化された自尊心を癒すという、もうまったく金だけが頼りの子宮的思考のセルフコントロールは、ほとんど無言のうちに了解されて行く行くはヒモと名を改める心優しい若者を、ただ情欲の中に隠棲させることにすぎないとしても、「こんなこと」に落ち込んだままの若者が、女のいない小さな部屋で、今はまだ女学生の『国語学原論』なんかをめくってみてもどれもこれもが腹だたしくて、「こんな女につかまって、俺はもう駄目かもしれない」はずなのに、充足した性欲が思考を止めて意味喪失のいらだちだけを弄び、いつのまにか寝返りうって気がつけば、女の膝が股間にあたり玉潰れる思いで逆上し、「畜生、俺も男だ」なんて、当たりたいのに当たられて訳もなくはじけた心情は、「所詮、俺たちは遊びだったんだ」とうそぶいて、まだまだエイズを知らない気楽さが、はじけたついでに転がって上野、浅草、吉原とピンサロ、ソープに入り浸り、もう臭うばかりの酔いどれの若くもない男根が、売春なんて言葉さえもが遠すぎてプレイなんて名付けてみても、高値安定の女陰を見詰めるだけで、為す術のないいらだちは不成就性の金に擦り替えて「くそ、面白くもねえ」と吐き捨てるだけのことだから、ここはひとつ一念勃起の流れ者に身をやつし、結局は吹き溜まった憂さの酒を飲みついでに気が好いだけの女にしがらんで、ふいっと酔い気ざましに店を出て裏手に回った立小便が潰した農地の宅地なら、手抜き工事の建て売りをそれと知ってて買わされて、地震も怖いが台風も怖い、おまけにローンも怖いままにかしいできしいで歪み続け、インチキ業者はどこだと探してみてももう遠の昔に計画倒産で姿をくらまして、今更誰にも担保責任など問うに問えず神と仏を恨みながら涙ながらに建て替えるならば、欲に見合った貧乏くじを回し切れずに引き受ける無念無念が身振いさせて、思わず、だまし切れずに取り残された休耕田にさえ荒廃した勤勉の残響までも聞きながら、化学肥料に頼りすぎベチャベチャにして放置してペンペン草の苦笑いまでもが見えてしまうその陰で、人知れず真っ赤な口を開いたバギナたちが、もはや死を掌る生殖の神でしかないように、ヤクザな金が東南アジアの女をあさり、まるで虫けらのように搾取して、津々浦々の町に流し込みあだ花咲かせる無気味さの貧しい女を貧ぼる暴力さえも、厚顔無恥が無言で支えてしまう成金の新植民地主義とさえ言われる悍しさを見定めれば、そこそこの反省力くらいは望めるものを、それでも金と女で検証したい立身出世に取り付かれ、呆れるばかりの男根振って、わけもなく上州高崎あたりの空っ風に吹き飛ばされついでの旅の宿が、今さら人の心をなじってみるまでもなく、風に逆らい谷間を上り、いつの間にか赤城、浅間の山麓の枯木林にからまった落日が、短気なままに凍てついた西の空を紅に染め、もう望みのない紫雲を孤高の裸木に委ねてまでも、いつまでも沈むに沈めぬやる瀬なさを慈しむ荘厳なまでの終焉は、ひょっとすると集団ヒステリーで総括された連合赤軍の革命という理不尽を恨む涙の風景が重なって、ほんの一時の感動も薄ら寒い不成就性の無念へと掠め取られてしまうけど、思わぬ身震い一つの閃きが、辿ることさえないままに埋没していた記憶に走り、喉に絡んだ異物を手繰り舌に絡めて押し出せば、縮れた陰毛の強質の女がおかしくて、指先の抜けた手袋で無邪気につまんだ飴玉さえもが懐かしく思い出され、もはや漆黒の闇に迷い込みあてのない夜明けを望むはかなさで、さしたる希望もないままに未生以前の暗黒にたゆたえば、やはりいかなる男根も女陰からしか生まれ出られないという、いたって当たり前の事実に逢着し、思い返すまでもなく、心凍てついた休耕田の哀しいバギナたちに、熱血の男根という思い上がりを打ち込みつづける空しさこそは、まったく強姦に等しい愚行と懴悔して、もはや発情した街で神憑りの勃起した男根振ってさまようこともなく、いまここで、在り来りの四畳半に青春という哀しみの大き過ぎる思いを散らし、投身大の女陰が蘇る日常的なる祝祭を祝えば、投身大に見合った「まだこれからさ」が息づいて、まあ、子供が出来てしまったのならそれも良しと決意して、今日ささやかに快感を生きたことの約束が整い、ついこの間までの自慰的夢想を現実の重さが崩壊し、またあした生きようと思うだけの自由を獲得させてくれるなら、まずは性欲として回復する希望は、男の非現実的な現実と女の現実的な非現実の互いに自己欺瞞を打ち明けることのない優しさで、思いやりという身の毛もよだつ物語を予告するだけのことだから、潔癖好みの天の邪鬼は、とめどない自己矛盾に引き裂かれつつ自己喪失に涙して一人遊ぶのもいいかもしれない。
 おおっと、これはいけない。われわれは新たに構築しなければならない思考の遊園地で、とめどない感性のブランコを漕ぎすぎてしまったようだ。行者を見失っては面倒なことになる。

 


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 「ねえ、おじさんにテレバシーを送ってくる人みたいのがいるとしてさあ、その人は、運命の予告っていうのかしら、予言って言うようなことはしてくれないの?」
 「そうそう、そういうのは興味あるわよね」
 「ふむ、それは、重要な問題です。
 いいですか、たとえば神の存在を認めるとしますとね、そもそも神というのは全知全能の創造主でなければなりませんから、この世もあの世も、この神がその権能において一切の現象を取り仕切ることになるわけです。ということは、ありとあらゆる予定も結果も、すべて神のたなごころのうちにあるということになるわけです。われわれ人間のみならず、すべての現象が神のシナリオによって動かされるのです」
 「ゲェーッ、何んか嘘っぽいなあ…」
 「でも、そういうのを運命っていうんでしょ?」
 「そうです。こういう考え方を予定調和といいますが、このような神の存在を認めることによってしか運命を語ることは出来ません。その意味において、予言というのは運命を想定しなければ成り立たないことになります。
 つまり、ここでいう運命とは、アミダクジのようなものなのです。クジを選ぶ人間は結果を知らないが、答えは初めから決まっているというわけです」
 「アミダクジかあ…。でも、あたしとしては、もっと人間の可能性っていうの、そういうのを感じるけどなあ…」
 「そうですね。そういう考え方に立てば、未来は、過去と現在を原因とする必然性と可能性の相乗効果によって語ることが出来るわけです。そしてここにあるのは、予言ではなく予測です。改めて言いますとね、予言というのは神の言葉を語ることなのです。そして予測というのは、われわれ人間の言葉というわけです」
 「へえ、聞いてみないと分からないもんねえ…」
 「そうすると、おじさんの聞いているのは、神の声ってわけ?」
 「ふむ、どうも、そう思えてならないのですが、しかし予言ばかりというわけでもなさそうなんですよ…」
 「どういうこと?」
 「ふむ、実は、いま言ったこととは多少矛盾してしまいますが、私の場合は、神の言葉がすべて予言というわけではないってことでしょう。つまり神にしたところで、人間の未来にばかり関わってもいられらいってことかもしれません」
 「だけど、おじさんにとって神が存在するとすれば、おじさんの未来はすべて決まっているってことなんでしょう?」
 「まあ、そういうことなんですね。でも私は、そうとばかりは思えないんですよ。さっきの予定調和にもいろいろありましてね、ある程度の人間的な有意性を認める立場もあるってわけです」
 「なんなの、どういうこと?」
 「神から人間に任された裁量の範囲があるということです。神も細かいところは手が回らないというわけです。しかし、これとても神の承認を必要とする。そして、いつ承認を貰うのかということについても、かなりの幅があるわけです。たとえば事後承諾なのか、自由契約か、あるいは計画段階での承認なのかというわけです。
 いずれにしても、この考え方をとれば、予言では語りえない部分が出来てしまうわけです」
 「事後承諾って、どういうこと? もしも、何か悪いことしちゃったとしてよ、そういうものに神様が承認を与えるわけ?」
 「そこはよくできてるんですよ。すべての善を司る神としては、あらかじめ計画が分かっていれば、そんなものを承認するはずはない。ところが人間が勝手にやってしまったものは、たとえ結果が悪くても事実として認めようというわけです。そして悪い結果とは、愚かな人間が善に目覚めるために神が与えた試練として考えるってわけです。
 ま、こうなると神の存在を前提としたご都合主義って感じがしますけどね」
 「へえ、面倒なんだ。でも、あたしの場合は、全部事後承諾って感じかなあ…」
 「というよりも、あなたの場合は、もともと神様なんかいなってことでしょ?」
 「あっ、そっか。ヘヘヘ」
 「でも、ちょっと変よね。神様の存在を信ずる人と、そうでない人がいて…。ということは、神様の計画通りに生かされている人と、そうでない人がいるってことでしょ?」
 「そういうわけです。ですから、神を信ずる人は、不信心な人に対しては、神の存在に気付かない不幸なヒトビトだと考えているわけです。ところが、神など信じなくてもやっていける人は、信仰など心の病だと考えているわけです」
 「ああ、それで宗教患者ってわけね、ハハハ」
 「そうすると、おじさんも宗教患者ってわけ?」
 「まあ、それに近いですね。しかし、宗教にもいろいろありましてね。なにも信仰の対象が神でなければならないということもないのです。つまり、仏教では、仏を信仰するわけです。実は、この仏様にもいろいろありましてね。神様みたいなのもあれば、人間みたいのもあるし、まるで人格を問えない真理とか原理だけみたいのもあるってわけです」
 「ちょっと待って、そんなにいろいろなのがあったんじゃ、どれ信じていいか分からないじゃないの?」
 「ふむ、それは信ずる人の自由です」
 「そんなのおかしいと思わない? だって、どうせ信ずるのなら、一番偉い神様がいいに決まってるじゃないの。自分が信じてた神様が偉くなかったなんて…」
 「そうね、そういうこともあるわけだ」
 「しかし、その心配は実際の宗教生活においては大した問題にはなりません。どういうことかと言いますとね、それまで自分が抱えていた苦悩を救ってくれた神とか仏こそが、その人にとっては一番いいというわけです。ま、相性といってもいいんじゃないでしょうか」
 「でも、なんか不公平っていうか、納得できないなあ…」
 「それは神の身分に差があると考えるからですよ。しかしそれは、神は常に唯一絶対であるが、ヒトビトの生活、環境によって様々の顔を持つと考えることによっても解決します。あるいは、神というのは、実はそれを信ずるヒトビトにとってのみ唯一絶対であって、宇宙的規模まで包括しうる唯一絶対者は存在しないという考え方によっても解決できます。 いずれにしても、<信ずる>ということは、芸術的体験と同じように総毛立つほどの感動によってご縁を頂くという体のものですから、個人差があって当たり前なんです。ですから、そこで優劣を問うのはナンセンスというわけです」
 「へえ、おじさん、結構語るじゃん」
 「あんた、失礼よ。ひょっとしておじさんは、宗教の先生かなんかですか?」
 「いや、別に先生ってわけじゃありません。先程も申し上げたように、ただの行者です」
 「へえ、行者さんねえ…。それ、何する人なんですか?」
 「そうですね、お坊さんと同じようなもんですが、どちらかと言うと、修行ということを中心にした<宗教者>ってところでしょうか…。ですから、宗教で飯を食う<宗教家>とは限りません」
 「修行って、どんなことするんですか?」
 「それは、荒行、苦行なんてものから日々の勤行なんてものまで様々ですよ。結局は、個々の宗教者の生き方そのものの問題ってことになりますから、正にケースバイケースです」
 「へえ、決まったものってないんですか?」
 「宗派とか教義によってそれぞれの方法はあるでしょうけど、結局は宗教者個々人の問題ですから、そこには創意工夫ってものがあって当然なんです」
 「それで、話はまた元に戻るんだけど、さっきのおじさんに話掛けてくる神様っていうのは、どんな神様なの? それ、あたしたちにも関係があるっていうんでしょ?」
 「皆さんは、小説とその作家の関係なんてものについて考えたことがありますか?」
 「べつに…」
 「ああ、それ、ひょっとすると小説家が神にあたるってこと…」
 「そうです。実は、私たちは、普段そういうことについては非常に無頓着なんですが、ある日突然、自分が誰かに書かれた物語の登場人物にすぎないなんてことに気づくことがある。これは、誰にとっても衝撃的な事件といえるわけですが、そんなに特別なことではありません。
 つまり、自分にとっての最善の回答が分かっているはずなのに、それが出来なかったり、しなくていいことをしてしまう。こういうときに無意識の自分を支配する何者かの意志を感じるというわけです」
 「なんだ、そういうことか」
 「いや、そんなに気を許してはいけません。たぶん、あなた方は気付いていないと思いますが、私たちは、ある人物によって書かれた同じ物語の登場人物にすぎないのかも知れないということです」
 「ええっ、ウッソォー!!」
 「そんな!! それじゃ、このお店はどうなっちゃうの? この『ミスタードーナッツ28号店』も、その誰かが書いたフィクションってことになるの?」
 「まあ、そういうことになりますね。しかも、ここで私たちが注意しなければならないことは、この作者といえるような神は、まったく気まぐれだということです」
 「ふうん、そうか、そうよね。もしも小説家みたいな神様なんかがいるとしたら、あたしたちなんか、何されるかわからないわよね」
 「ま、そういうわけです。極論しますとね、そもそも神などというのは、それを信仰して生きるヒトビトの数だけあるようなもんですから、どれも唯一絶対などではありえないのですよ。その意味でいえば、神と名乗る者は、誰もが俺が一番だと思っているわけですから、まったく自分勝手だってことになります」
 「ねえねえ、おじさんって言うか…、行者さんって言うか、とにかく、まるで人ごとみたいな口ぶりだけど、あたしたちがみんな、その小説家みたいな神様に操られているとしたらよ、あたしたちには、なんて言うのかしら、自由なんてものはないのかしら?」
 「そこなんです。私たちは、まさか自分がそのような人物によって操られいようとは、思いもよらなかったわけです。ところが事態はどうも、それを否定できそうにない。
 しかしね、私たちは、そんな人物の出現以前から生きていて、なんの不自由もなかったってことです。つまり私たちは、まだまだ自分の意志で生きる自由と権利を持ち合わせているということです」
 「ねえ、だけど、そんなことばかり言っててさ、もしも、その小説家みたいなのがすべてお見通しなんてことだったら、どうなるの?」
 「ふむ、そういうことは当然ありうることです。しかし、私たちが操られた物語の登場人物にすぎないにしても、やはり物語には、私たち自身が自分の力で切り拓く可能性ってものがあるはずです」
 「へえ、おじさんって、見掛けより、ガッツがあるんだ」
 「あなた、そういう言い方って失礼よ」
 「いやいや、おほめを頂いて恐縮です」
 「そうすると、あたしたちって、これからどうなるの?」
 「そこです。とにかく重要なことは、いかなる神であれ、つけいる隙を与えないってことです」
 「どういうこと?」
 「そう、とりあえずは、あまり行き当たりバッタリの思い付きで行動したり、感情に溺れて普段ならしないようなことを、思わずしてしまうなんていうのはいけません。つまりは反省的に、自分の目的をもって生きる、とでも言いましょうか…」
 「なんだ、なんか道徳教育みたいじゃん」
 「そう言われてしまうと、それだけのことなんですが…。
 そうそう、こんな言い方ではどうでしょうか、自分のしたいことを悔いの残らない形で好きなようにやるってことです」
 「だけど、そんなことで、乗り切れるの? だって、相手は誰であれ、一応は神様ってことなんでしょ?」
 「しかし、私たちには、これしかないってことになります。いや、これだけあれば充分だともいえます。無論、相手は気まぐれですから、どういう手に出てくるかは分かりませんから、私たちも、あまり迂濶なことは言えませんが…」
 「じゃ、あたしたちは、いま、これからはどうすればいいの?」
 「とにかくは、このお店のウェイトレスさんとして、やるべき仕事を確実にやり遂げるってことが重要です。この先、神を名乗る者が、私について語り続ける気なのか、それともあなた方について語り続ける気なのかが分からないということです」
 「ヤアダァーッ!!」
 「行者さんが、なんとか追っ払うというか、うまく話をつけて、あたしたちから遠ざけるなんてこと出来ないんですか?」
 「ふむ、私も、そのことを考えていたわけなんです」
 「だけどさあ、神様といえば、もともとは、なんて言うのかしら、ええっと…、そうそう、大きな愛で優しく包み込んでさ、祝福っていうの、そういうのをしてくれるもんじゃないの?」
 「そうよね、なにも悪い奴ばかりとは限らないんじゃないの? だから、その神様っていうのが喜ぶようなことをしてあげれば、結構、幸せの面倒をみてくれるなんてことにはならないの?」
 「ハハハ、それはそうですね。ただし、それはあなたが、それで良しと納得してからのことでなければ、後で悔いを残すことになりますよ」
 「ああ、そうか…。でも、ドーナッツが好きだっていうんでしょ。だったら、あたしたちにだって、なんとか幸せのために出来ることがあるんじゃないのかあ…」
 「あなたって、かなりしぶといわね」
 「いま、あなたが言われたことは、仏教では供養というわけです。もっと厳密なこととして考えれば、神仏に対する帰依というものが要求されることになります。つまり、いままで自分勝手に生きてしまいましたが、以後悔い改めまして、神様、仏様の意に添うように生きさせて頂きますという懴悔をしなければなりません。要するに誓いの言葉が必要なのです」
 「ふうん、そうなんだ…、なんか、もっと気軽に好意を示すなんて方法はないの? たとえば、ちょっと恥ずかしいところを見せてあげちゃうとかさ、ねえっ」
 「まったく、あなた、何考えてんのよ。ヤアーッなんだから」
 「また、そんな堅いこと言っちゃってさァ。自分だって幸せのためなら、何するか分かったもんじゃないでしょう」
 「だからって、何もエッチしなくたっていいじゃない…」
 「ああ、そうだ。軽率でした。ねえ、その神様って、男ですか?」
 「まったく、あなた、本気でそんなこと考えてたの?」
 「女の幸せは、チャンスよ、チャンスが肝心。これを逃しちゃうと、後で泣きをみることになるんだから…」
 「まあ、あまり不用心なのはいけません。確かに、私の感じでは、性別は男のように思えますがね、とにかく軽率な行為は慎んだほうがいいですよ。もしも相手が、本当に小説家みたいなもんだとしたら、それこそピンからキリまで、まったく捕らえ所がなくなってしまいますからね。正に純文学なんてものから、そうポルノ作家に至るまでいるわけですから…。
 それと、ドーナッツに異常なほどの興味を示しているのは確かなんですが、それが好物なのかどうかは分かりませんよ」
 「そうなの、だったら、そういうことは先に言ってくれなきゃ…」
 「でも、何んだか、知らなくていいこと、聞いちゃったような気がするなあ…」
 「それそれ、弱気になると、そうなっちゃうのよ、でしょう…、だからこの際、一気に強気で…」
 「なに言ってんのよ。そんなわけにいかないでしょう」
 「そうかなあ…、あなた、ちょっと消極的にすぎるんじゃない?」
 「あれっ、あたしたち、なんだか、ずいぶん、時間潰しちゃったみたい!?」
 「ええっ、ヤッダァー!! 店長に叱られちゃうわよ…」
 「ねっ、ねえ、変よ。何か変よ。ほら…」
 「あっ、あれっ、何よ、誰もいないじゃないの!!」
 「アアッ、何んなの!? 何んだったの!?」
 「てっ、てっ、店長オー!! 大変だってばア!!」
 ふたりは、その場に顔を伏せて抱き合って、何か忌まわしいものを拒否するかのようにしゃがみ込んでしまった。そこへ血相抱えた店長が現れる。
 「どっ、どうしたんだよ? アアッ、すいません!!」
 店長はショーケースの前に立っている客に気付いて当惑の声を上げた。
 「きっ、君たち、お客さまがいらっしゃるのに、なに、騒いでるんだ!? 仕事ですよ、仕事!」
 「店長!? 何いってんよ?」
 「君たちこそ、何騒いでるんだよ!?」
 「店長こそ、何よ? 誰がいるっていうの? 違うのよ、そうじゃなくて、いままで目の前にいた人が、急にいなくなっちゃったのよ!!」
 「お化け!! お化けだったのよ!!」
 「お客さま、すいません。君たちっ、こっち、こいよ!!」
 客は尋常ならざる店員の対応に気後れしている様子なのだ。
 「あ、あのう…」
 「はいっ、ただ今!!
 じゃ、君たち、向こうへ行ってなよ。大変失礼いたしました」
 店長が二人をかき分けてカウンターに出るけれど、二人はしゃがみ込んだ場所から動けない。そして後ろ向きのまま店長のズボンを引っ張っている。
 「ねえ、店長…、その声の人、いるの?」
 「バァカ!! 何いってるんだよ。お客さま、申し訳ございません。なんだか、急に様子がおかしくなって…。はい、それで、何にいたしましょうか? こちらでお召し上がりですか? それともお持ち帰りでしょうか?」
 「いや…」
 「ねえ、店長、何いってるの?」
 <太モモ>たちを無視した店長に二人がアピールするが、店長は取り合わない。
 「はい、かしこまりました。こちらでお召し上がりですね。では、何にいたしましょうか?」
 「ええっと、シナモンクルーラー二本と、コーヒーにして下さい」
 確かに聞き覚えのある客の声に、二人の<太モモ>は恐る恐る顔を上げた。
 「あああっ、ねえ、見てっ、さっきの人よ!! 行者さんよ…」
 「ええっ、ウッソオー!! どういうことなの?
 またシナモンクルーラー二本だって!!」
 「君たちっ、なにボソボソ言ってるんだよ。そんなとこに、うずくまってたら、邪魔じゃないか!!
 ああ、すいません。お客さま、お席は、こちらでよろしいですか?」
 「いや、こちらにしましょう」
 「なによ、なによ、さっき同じこと言ってるわよ」
 「ヤダーッ、同じところへ座るわよ」
 <太モモ>たちはしゃがみ込んだまま、またしても店長のズボンを引っ張っている。
 「店長っ、ちょっと、その人お化けだって!!」
 「きっ、君たちっ、何をバカなこと言ってるの!?」
 店長は二人に取り合わず、コーヒーを出して厨房へ引っ込んでしまった。
 しかし、店長は何やらぶつぶつ言いながら厨房を一回りして、大きなため息一つで気を取り直し…、た、つもりだがまだこわばった顔のまま、今度は二人を厨房に呼び寄せる。二人の<太モモ>は店長にせきたてられて、腰をかがめたままズルズルと厨房に入っていくが、そのまましゃがみ込んでいるふたりの上に、店長が覆いかぶさる勢いで回り込み目を三角にして言う。
 「いったい、何があったんだ!?」
 「だって、あの人、今の今ままで、そこに座ってた人なのよ!!」
 「同じ席で、あたしたちと、話をしてる最中に、突然消えちゃったのよ!!」
 「なに言ってるの? だって、カウンターには誰もいなかったし、ちゃんと片付いてたじゃないか…」
 「そんなはず無いわよ。まだコーヒーも残ってたし、二本目のクルーラー、半分残して、パラフィン紙に包んでたのよ」
 「そっ、そんなバカな…。何を寝言いってるんだ」
 店長はすっかり呆れた顔で身を起こした。
 「それでどうなの、目の前で突然消えちまったとでもいうの?」
 「そうよ。嘘じゃないって! あのお客さんと、ちょっと話してる途中だったのに、急に、その本人がいないのよ」
 「いないって、どういうことだよ」
 「なんか、へんなのよ。それが分からないのよ。なんか、フラッとしたと思ったら…」
 「そう、それと同時にハッとして…、気がついたら…」
 「それで、もう、いないのよ」
 「ったくもう、ふたりして寝ぼけてたんじゃないの?」
 「なっ、なによ。失礼なんだから…。店長だからって、そんな言い方はないでしょう。第一、今までによ、あたしたちが、こんなつまらない悪ふざけなんかしたことないでしょ?」
 「そっ、そりゃ、まあ、そうだけど…、そんなに僕に絡むなよ…、怒りたいのはこっちの方なんだから。じゃ、こうしよう。今、僕が、レジシートを調べてくるよ。なっ、それなら前の客が、いつ来て何買ったか分かるだろ?」
 「賢い!!」
 店長は厨房からお体裁のハッピー気分を取り繕って店に出る。ごく日常的な作業の延長を装ってショーケースの中を見回して、いよいよ何気ない様子でレジシートを覗く。さらに、ちょっと指を入れて前を手繰る。店長は、ここで客に見られているような気がして、非人称的な笑顔を返す。
 「先ほどは、失礼いたしました。どうぞ、ごゆっくりなさってください」
 さしたる訳もなく、いかにも店長気取りの眼差しを閑散とした店内に遊ばして、次のごく当たり前な用事が待っているかのように厨房に引き下がる。
 「店長っ、なに気取ってんのよ」
 「そんなことより、どうだったの?」
 「前の客は、テイクアウトで四時二〇分だから、ええっと一五分前だね。七〇円六個に、八〇円が四個、締めて七四〇円。その後が、いまの、このお客さんってわけ。要するに、君たちの幻想ってわけだ。どう?」
 「そっ、そんな…、その一五分前のお客さんは、確かに、あたしがやったのよ。だけど…」
 「そうよ、二人一緒に寝ぼけたりするはずないでしょう!?」
 「だって、二四〇円のお召し上がりは、あの人だけだよ」
 「おかしいなあ…。ああっ、そうだ! それじゃ、あの人、石丸で買ったレコード持ってたでしょ?」
 「ああ、膝の上に乗せてたよ、それが…」
 「ゲェッ、ほらっ、あたしたち、あの人がレコード持ってたの、見てないのに知ってるじゃない!?」
 「またまた、僕を脅かそうなんて、駄目だね。だって、そこに座ってたって、レジのところでケースを通して見えるもん…」
 気になって店を覗いた一人の<太モモ>が慌てて首を引っ込める。
 「ギョギョ、目があっちゃった…。だけど、さっきの行者さんに戻っちゃったみたい。なんか言いたそうだった…」
 「あ、あたしは結構、あなたにお任せするわ」
 「んもう…」
 もう一人の<太モモ>が冷やかし半分に店を覗く。
 「ああ、ほんとだ。どうなってんのかしら…。ねえ、何してんのよ、あなたのこと待ってるみたいよ。行ってあげなさいよ」
 「あの雰囲気って、さっきと同じみたいに感じるけどなあ…。一体どうなっちゃってるんだろう?」
 「でも、おんなじことが繰り返されるなんて、ちょっとやあねえ。触らぬ神になんとやら。ねえ、店長、行って、お願い」
 「んん…、駄目だ駄目だ。そろそろオイルの後始末しなきゃ、ねっ。もう、君たちのお遊びには、付き合ってられないの、残念でした!!」
 「店長っ、そういう態度取る気なのねっ、いいのねっ。あたしたちが、どうなってもいいってわけねっ」
 「ダメダメ、いまさら脅かしたってダメ。僕は忙しいんだよ…。とにかく、お客さまを、お待たせしちゃだめだよ」
 「ん、もう…。いいわよ、覚えてなさいよっ」
 「どうしようか?」
 「どうしようかって、一緒に行こうよ、ねえ」
 もはや二人のハッピー気分はどこへやら、すっかり怖じけづいている。
 「あっ、あのう…」
 行者が待ちかねたとばかり声をかけてくる。
 「どうしました。話の途中で、急にいなくなってしまったもんですから、心配してたんですよ…」
 「エエッ!? どっ、どういうことなの!?」
 「ヤッ、ヤダァーッ!!」
 「いやあ、私も、すっかり調子に乗ってしまいまして…。どう、店長さんにお目玉でも貰ってしまったんですか? だとしたら、私がお詫びをしなくちゃ…」
 「いえ、そっ、そんなことより、行者さん、さっきから、ずっとそこにいました?」
 「ええ。それが?」
 「ねえちょっと、レジシート見て…。店長が打った二四〇円の時間のところよ…」
 「うっ、うん…。あれ?」
 「何よっ?」
 「だって、掠れて見えない!?」
 「じゃ、前のお客さんは?」
 「ええっと、四時二〇分…。店長が言ってた通り…」
 「今、四時四五分よ。さっき店長が見たときが四時三五分だったから…」
 「あっ、あの、行者さん、失礼なんですけど、あの…、そこに座ってから何分くらいたちますか?」
 「何を言ってるんですか、私は、さっきからいるじゃありませんか…」
 「でも、時間は?」
 「さて、時計を持ってませんので…、でも、そうですねえ、二〇分そこそこでしょうか…」
 今度は二人してレジシートを覗き込んでいる。
 「どっ、どうなってんの? じゃ、これ二四分かなあ…、やっぱし、よく分からないわねえ…」
 「どうなの…、四時二四分なら、ええっと、別に、不自然じゃないわよね。多分それくらいの時間しか経ってないはずだもんね」
 「ねえ、本当の行者さんでしょ?」
 「ええ、そうですよ…。なんか変だなあ…」
 「あら、変なのは、あたしたちの方じゃなくて…、そうよ、確かに、行者さんの方が変なのよ…」
 「どういうことですか? 皆さんが、急にいなくなったことと何か関係があるんですか?」
 「そっ、そんな言い方ってないわよ。だって、急にいなくなったのは、行者さんの方なのよ!!」
 「そうよ、いなくなったのは、あたしたちじゃなくて、行者さんよ」
 「ええっ、どういうことですか? だって私は、ここにずっといましたよ…」
 「そっ、そんなあ…。それじゃ、レジを打って、それからコーヒーを出したのは、誰でした?」
 「いやだなあ、あなたじゃないですか…」
 「どっ、どういうこと…。店長じゃなかったですか?」
 「店長さんって、裏にいる男の方でしょ?」 
 「そっ、そおよ」
 「だったら違いますよ。あなたが店長さんなら別だけど…」
 「ねえ、店長何してる?」
 「ん? うん、オイル抜きしてるわよ…」
 「ど、どうなってんのかなあ…。ねえ、店長呼んで来て…」
 「そ、そうね」
 店長が怪訝な顔でやってくる。
 「なにっ? 忙しいのに…」
 「ねえ、いま、このお客さまのレジしたでしょ?」
 「ああ、しましたよ。それが…。あっ、お客さま、申し訳ございません。なんですか、きょうに限って、この娘たち、なんだか様子がおかしくて…」
 「いえ、そんなに気になさらないでください」
 そう答えた行者は、なぜか行者というよりは、ごく普通にすれ違う見知らぬ人の顔付きに変わっている。
 「んん? あれ、行者さんどうしたの? 行者さんなのに、なんか違うみたい!?」
 「ええっ、あら、そういえば、なんか違うみたいだけど、どういうこと?」
 「きっ、君たちっ、なにを失礼なことを言ってるの? お客さまの顔が急に変わったりするはずないでしょう」
 「ええっ、店長がレジしたお客さまって、この人?」
 「そうだよ…、それが?」
 「ああ、あたしたち、どうしちゃったのかしら…」
 「あ、あのう、すいません、行者さんでしょ?」 
 「と言いますと、どういうことでしょうか?」
 「どういうことって、やだなあ…。急に様子が変わっちゃったりして、あなた、いまそこに座っていた行者さんでしょ? ああ、そんな顔しないで、どんどん違う人になっていくみたい!!」
 客の当惑を取り繕うために、店長は<太モモ>たちを叱りつける。
 「き、君たち、お客さまを引き込んでまで、悪ふざけがすぎるよ。いったい何が言いたいの?
 お客さま、ほんとうに申し訳ございません。どうしたんでしょうか、今日にかぎって、よりによって二人とも様子がおかしいもんですから…。と、とにかく、君たち、お客さまにご迷惑を掛けるようなことは、絶対に駄目ですよ」
 「だって…」
 「だってじゃないよ、とにかく、ぼやっとしてないで、掃除でもしなさいよ…」
 店長は不機嫌な顔で厨房に戻ってしまった。
 「なによっ、偉そうに…」
 「あたしたち、まるでバカみたい…」
 ふたりが尖った顔で店長を見送って振り返る。
 「あっ、あれっ、行者さんじゃないの!?」
 「ええっ、ああっ…」
 そこには合点のいかぬ顔をした行者が座っている。
 「さっきから、どうしたんですか?」
 「どうって…」
 「ああ、あたし、変になりそう…」
 「皆さん、落ち着いてください。どうやら、この事態が見えてきましたよ。これは、あの神的存在である誰かが、正に小説家のように私たちに君臨しうる立場であることを誇示しようと、その超越的能力で仕組んだ悪ふざけですよ」
 「ええっ、どっ、どういうこと?」
 「つまり、神は、私たちが無意識や臆断とか、あるいは暗黙の了解に委ねたままにして、あえて言葉で確認し合っていないことがらを見付けだしては、勝手な物語の組み換えをやっているってわけですよ」
 「そっ、そんなあ…」
 「こんなことばかりされたら、あたしたち気が狂っちゃうわよ。どうしよう…」
 「まあまあ、とにかくね、いま私たちに出来ることは、まず自分について反省的に自覚的であることです。そして私たちにとっての現実を、互いに自分の言葉で確認しあうことです」
 「何んなの、それ? 反省して、それから確認しあうなんていったって…」
 「あっ、あれ!? 行者さん、ひょっとすると、そのへんのおじさんと一緒で、何か変なこと考えてんじゃないの?」
 「あなた、こんなときに、よく平気で、そんな冗談いってられるわねえ…」
 「冗談も出なくなったら、おしまいよ。だいたいねえ、あたしたちを弄んで喜んでいるような奴に、好き勝手なことされてて、黙ってなんかいられないわよ」
 「そ、それはそうだけど、そんなこと言ってて、余計に反感かったりしたら、大変よ」
 「ん、まあ、そういうこともあるかも知れませんが、とにかく私のいう自覚と確認とは、まず自分の言葉で語ることです。いいですか、私たちが物語の中で操られる登場人物にすぎないのなら、この物語における私たちの存在理由っていうのは、私たち自身の言葉だということですよ。私たちが自分の言葉として語ったことは、もはや、小説家であろうとも変更することができない」
 「そうなの? でも、なんか納得できないみたい…。だって、あたしたちが、登場人物にすぎないのなら、あたしたちって、その誰かの想像で作られたってことにならないの…。だとすれば、あたしたちの言葉って、結局は、その小説家の言葉にすぎないってことになっちゃうわよ」
 「そうよね、そうだとしたら、小説家が自分に不都合なことを、あたしたちに語らせるなんてことは、考えられないじゃない?」
 「いや、それがそうとは限らないんですよ。それはむしろわれわれ自身の問題なんです。さっきから言ってるように、私たちが確固たる自覚に基づいた人格、そう、この場合は役柄と言ってもいいかもしれませんが、そういうものを主張できるなら、いかなる作者も、私たちの人格を歪曲してまで勝手な物語を語るなんてことが出来ないというわけです。
 言い換えますとね、作者に翻弄されない主体性を確立するってことです」
 「でもねえ、あたしたちの性格みたいなもんまで、作者に決められているってことはないの?」
 「その考え方が運命論の罠に陥るもとなんですよ。いいですか、私たちには生まれてくるときには、当然ながら遺伝というものを背負い、ある特定の条件あるいは環境を与えられてしか生まれてくることができない。このへんに運命論の忍び込む余地があるわけですが、だからといって、このことがその人の一生を瞬時に決定する条件にはなりえない。つまり、どんな克服しがたい条件が与えられようとも、その条件をささやかに修正しつづけることでいつの間にか変更できるという、その人なりの生き方があってしかるべきなのです。
 ですから、たとえ神の作ったアミダクジでも、私たちには、自分でわずかの修正をほどこすことができるというわけです。たとえばアミダクジの横線を起こるべくして用意された事件とみなせば、これを変更することは困難だとしても、縦線として与えられている条件や環境を変えることはそれほどむずかしくはないと考えるわけです」
 「どうするの?」
 「縦線と縦線の間に、自分が降りられるだけの縦線を発見すればいいのです。線でいうなら、それは破線になっているのかもしれませんが、とにかくは自分が降りられるだけのものでいいのです。すると、この線は新たな事件の横線のうえに降りることになり、本来ならここで進むべき方向の決められた事件を、自分の望む方向へと変更することが出来るのです。これが取りも直さず修正というわけです」
 「そっ、そんなのあり?」
 「それは、当然ありですよ。なぜなら、われわれが自分の運命論を百歩譲ったとして、神の作ったアミダクジを前提にするにしても、自分の人生が神の手に委ねられたアミダクジでしか生きられないとは考えていないからですよ。この言い方が荒唐無稽だとするなら、こんな言い方もあるわけです。神が勝手にアミダクジを押し付けるなら、われわれにもそれに対抗しうる何等かの救済論が与えられて当然だというわけです。
 なぜ当然なのかといえば、この程度のことでは、アミダクジが崩壊するほどの衝撃を、神に与えることにはならないからです。つまり、われわれがここで獲得できる手段とは、せいぜい神の不条理な論法を自分の<決断>によって<納得>するために、自分の言葉として語りつつ変更するにすぎないからなんです」
 「でも、その横線の事件って、必ず起こっちゃうんでしょ?」
 「まあ、そのくらいはしょうがないでしょう。これを変更してしまってはアミダクジになりませんからね。しかし、それほど悲観することはありません。ここで私たちは、起こるべき事件の意味を変更してしまうというトリックを使うことができるからです。
 たとえば親の死とは、遺される子供にとってはやはり不幸というべきかも知れません。しかし、すでに子供も自立して、あるいは自分自身が親の立場に立つほどになっていれば、子供として遭遇する親の死も、それほど衝撃的なものとはいえません。あるいは同じ親の死という事件でも、それが家族離散の悲劇になるのか、それとも思わぬ遺産相続によって潤いなって返ってくるのか、さらには親が酒乱であるとか、ボケられてしまったことで家庭崩壊に直面していたとするなら、やはり親の死が一つの救済になるということが言えるのです。
 これが物語の中で事件の意味を変えるというトリックなのです。ただし、このままでは、意味の横滑りが自分にとってプラスであるのかマイナスであるのかを問うことはできません。つまり、ボンクラ息子に過大な遺産を遺したって、せいぜい身の破滅を大きくするだけにすぎないなんてことがあるからです。しかし、とにかく、すでに与えられている物語の中で起こるべくして起こる事件も、自分が主体的に立ち向かう事件として捕らえ返すことが可能だということです」
 「へえ、そういう考え方するんだ…」
 「いいですか、私たちに与えられている物語はなんであれ、この物語を、まるで封建的な閉鎖された社会にしてしまうのも、希望に溢れたものに作り替えるのも私たち自身の自覚次第だってことです。つまり作者が勝手に支配しやすい硬直化した社会を許してしまったら、正にこの物語は、神の運命論になってしまうのです」
 「そうか、そうすると、あたしたちって、その作者によって生み落とされたってわけじゃないんだ…」
 「あなた、何いってんの? この物語の作者は男だって、行者さんが言ってたじゃない。それなのに男に子供生ませるわけには、いかないでしょう?」
 「ああ、そっか。ねえ行者さん、するとあたしたちって、物語の中ではどうやって生まれたことになるの?」
 「当然、父親と母親のセックスにより、母親の腹から生まれているはずですよ。いいですか、たとえ作者であろうとも、私たちが、ごく常識的に存在しているならば、荒唐無稽な作り話は出来ないということです。つまり私たちは、どんなに間違っても、作者の腹からは生まれないってことですよ」
 「じゃ、この物語って、あたしたちの親も紹介されて出てるわけ?」
 「そうですねえ、まあ、必要があればそういうことになるかもしれませんが、たぶん、その必要はないと思いますよ。
 つまり、作者が私たちの誕生に関与しうる事柄とは、私たちの親にセックスをしようとする動機を与える程度のことなんですよ。要するに、人間にとって、いまだ説き明かすことのできない神秘性、つまりは正体不明の何物かがわれわれの存在存在理由に介入しうる領域と言うのが、実は闇雲な発情とも言える人間誕生の動機にあるからなんですよ。
 たとえば、宇宙の開闢をビッグバンという大爆発で始まったとしますよ、するとそのビッグバンは、それが起こるべき条件が整って起こったとしても、そのことについて、人間がその浅知恵で、ではどうしてその条件が整ったのかなんて問い掛けてみると、その根拠を語る方法を未だ知らないってことになる。つまり、ここに神の意志を想定しうる神秘性が残されているってわけです。
 ちょっと話が大袈裟になってしまいましたが、セックスしたからといって子供が生まれるとは限らない。とすれば、やはり、ここにも神の意志が忍び寄る神秘性が残されているってことになるわけです。その意味においていうならば、作者が一つの物語を想定するときに、私たちのような人物を必要としていたために、私たちが生まれてくるべき条件を整えたってわけです」
 「ふうん、じゃ、自分の言葉で話すことなのね」
 「おしゃべりだったら、まかしといて。一日中だって大丈夫だから…」
 「そうですか、ひょっとすると、それも有効な方法の一つかもしれませんね。だけど、作者がその言葉を追い続けるという保証がないわけですよ。ですから、ひょっとすると無駄骨になりかねないなんてことがあるわけです」
 「そっか…」
 「そうすると、あたしたちの言葉が、物語の言葉として有効であるかどうかってことは、どうしたら分かるのかしら?」
 「それなんです、そこが問題なんですよ。言い換えるならば、私たちの言葉を、確実に物語の言葉として登録しうるような方法を見付けることが出来るなら、私たちの未来はバラ色だってことになります」
 「ホホウ、諸君、なかなかやるもんですな」
 「ええっ、行者さん、なんか言った?」
 「いえ」
 「またまた、しらばっくれちゃって。腹話術なんでしょ」
 「ちっ、違いますよ。もしも、今の声が、あなた方にまで聞こえていたとすれば、それがこの物語の作者の声ですよ。さっきまで、私に次々と問い掛けていたところの正体不明の声の主ですよ」
 「ハハハ。どうやら私の正体を突き止めたようですな。いや、これほど早く、見破られるとは思ってませんでしたよ。ここはひとつ、あなたの洞察力を大いに評価したいところですがね…、しかし、そのお陰とでもいいましょうかねえ、私の計画にも多少の狂いが生じてしまったもんですからね、真に残念だけど、そうあなたを喜ばしてばかりもいられないというわけです。
 ま、そこで…、ですよ、諸君。
 …とは言うものの、せっかく諸君の前に名乗り出たわけだから、ここでは私の神としての神秘的な意志をお教えすることにして、諸君の自覚に見合った未来を称える言葉にしたいというわけです。いかがかな…」
 「なっ、なによ、偉そうに。あんたなんかに、つべこべ言われなくったって、好きなように生きていくわよ」
 「ホホウ、なかなか元気がよくて結構だ。その元気があるなら、尚更のこと、お教えしておかなければならないってわけだ、ムハハハ」
 「ほら、あんたが、余計なこと言うからよ…」
 「まあ、とにかく作者の言うことを聞いてみましょう」
 「んん、なかなか物分かりがいいようですな。それじゃまず、あなた、行者さんについてです。あなたも薄々は感じておられたとは思うけれど、私があなたに与えた条件は<性器崇拝の行者>ってわけですよ。いかがかな、ムハハハ」
 「ねえ、行者さん、セイキスウハイって何?」
 「まったくの悪ふざけだ。下らん!!」
 「ハハハ。そんなに向きにならなくてもいいでしょう。そうやってドーナッツにかぶりついてたんだから、そのへんの事情はお分かりのはずだ」
 「ねえ、行者さん、どういうことなの?」
 「ふむ、性器崇拝とはね、大方の神話が語られるときの動機そのもののことですよ。つまり男根と女陰という二つの原理を想定する宗教観のことですよ。つまり作者が、異常なほど、このシナモンクルーラーに執着していたのは、これに男根という意味を担わせようという魂胆だったってことです」
 「ふうん、それはそんなに不自然な発想ってわけでもなさそうね」
 「あなた、何いってんのよ」
 「なにって、シナモンクルーラーが男だってことよ」
 「そんなこと、わざわざ言わなくたって…」
 「ムハハ。そうすると、もうお気付きかな? ウェイトレス諸君が、フレンチクルーラーなどに象徴される穴開きドーナッツの女陰という原理を担うわけですよ。そこで私が諸君の若さを称えて、<かたぶとりの太モモ>と命名したわけです。ハハハ」
 「なっ、何それ? あんたって変態じゃないの?」
 「よしなさいよ、そんな言いかた…」
 「ヒィッヒヒ、ま、私のことはいいとして、諸君ら自身に、その気がないと言い切れるのかね、ハハハ。とにかく、諸君らには、大いに私の神話を語ってもらう予定にしているわけだよ、いかがかな、フッワッハハ。じゃまあ、宜しくね」
 「なっ、なによっ、何が面白ってんだ。ああ、不愉快!!」
 「皆さん、落ち着いてください。これで、私たちの、この物語における目的が見えてきたことになるんですよ。要するに、作者を神に祭り上げるような神話を語らなければいいってことです。
 いま作者が語った二つの原理とは、なにも取り立てて突き付けられるほどのことではないということです。いいですか、何事にも例のトリックという方法論があるということです。まして私たちが男性であり、女性であるということは自明の理なのです。とにかく、作者の策略、口車に乗せられてはならないということですよ」
 「行者さん、そんなこと言ってるけど、あの変な奴に惑わされずに生きる方法なんてあるの?」
 「ありますよ。あって当然なのです」
 「どういうこと?」
 「だって、そうでしょう、私たちは、自分で自分の主体性を確立する自由があるんですから。さっきも言ったでしょう、私たちの言葉を、確実にこの物語の言葉として登録しうるような方法を見付け出すことなんですよ」
 「だけど、そううまくいくかしら…」
 「大丈夫ですよ。作者が、自分の神話を語らせようという意志をはっきりと示した今になってみると、私には思い当たることがいくつかあるんです。それは、きょう、この『ミスタードーナッツ』に来て以来、シナモンクルーラーを食べようとするたびに、頭の中でグルグルと回っていた言葉の渦が、実は作者の独り言だったということです。しかもそれは作者が想定する読者に対して、私たちの神話的意味づけをしようとする企みの言葉になっていたということなんです」
 「それって、どういうこと?」
 「つまりね、作者が自分のもくろみを語ることが、取りも直さず私たちが克服すべきものを明らかにしていたっていうことなんです」
 「へえ、あいつ、どんなこと言ってたの?」
 「私が、神の存在を認めない、といってもすでに作者が神のように君臨しているわけですが、決して神に帰依することなく、私の標榜する即身成仏という方法で自分の宗教生活を全うしてみせると主張したわけなんです。ところが、作者に性器崇拝という役柄を背負わされた私には、そんなことが出来るはずがないというわけです。
 いいですか、<出来るはずがない>ということは、作者が実現不可能と決め付けて排斥しようとしている即身成仏が、もしも可能ならば、この物語においても、私たちの目的を達成する方法論たりうることを、作者自身が暗黙のうちに認めているということなんですよ。
 しかも作者は、そんな出来もしない御託を並べることは、いいですか、よく聞いてくださいよ、男根を持つ女と女陰を持つ男が、神聖なる性行為によって両性的な性格をもった一人の超人として、すでに性別を超越した者となり普遍的な快楽を享受することに等しいと言っているわけです」
 「どっ、どういうこと?」
 「だけど、なんていうの、いかにもあの変態が考えそうなことじゃん」
 「でも、その…」
 「なによ? なに、もじもじしてるのよ、あんたが言いたいのは、男根を持った女と、女陰を持った男でしょ!!」
 「どおして、あんたって、そう露骨なの? あたし、恥ずかしくって…」
 「なに、気取ってんのよ。いまは、そんなときじゃないでしょう…」
 「まあまあ、そんなことでもめないでください。つまりは、そんな人間が存在するかってことでしょう?」
 「はい…」
 「それは、心理学的な発想によって語ることが出来ます。つまり、男性にもその深層心理においては女性的な要素を持っているし、女性にしてもその深層心理においては、当然ながら男性的な要素を持っているという考え方を踏まえていくことで、何等かの糸口が見付けられるかもしれないというわけです。
 結局は、私たちに与えられた男性、女性という原理の中で、いかにして無性的超越者といいうる神秘体験を獲得できるかということなんです。私の場合、その神秘体験こそが、即身成仏を可能にするってわけです」
 「ふうん、なんか、言葉では分かったような気がするけど…」
 「ねっ、ねえ、そうすると、その即身成仏って、さっきのアミダクジで考えるとどうなるの?」
 「そうですねえ、自分で切り拓いた縦の破線を、事件の横線で左右に流されることなく、一気に突き抜けていくようなものと言えるかもしれません。つまり、アミダクジの回答としてのアタリとハズレには永劫に辿り着かないということになるわけです」
 「そうすると、その縦の破線を降り続けることが、その神秘体験ってことになるのかしら?」
 「まあ、そういうことになるかも知れませんね」
 「だけど、その神秘体験って、なんていったっけ…、ええっと、ああそう、神聖なる性行為なんでしょ?」
 「ええ、作者はそういっているわけです」
 「で、それが普遍的な快楽だってわけなんでしょ?」
 「はい」
 「だとすれば、あとはセックスあるのみってわけね。いかにセックスを為しうるか!? キャアーッ、自分で言っていながら、興奮しちゃうわね」
 「バァーカ。あんたの方が、よっぽど変態よ」

 

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