「<何>の循環法」〜戯れへの誘い

(「<何>の錬金術」続編として)
   

 「循環」するということ、それは表現活動がスケッチブックの6Fというサイズに「絵空事」として毎日続けられていくということ。そしてこの「反省的循環」こそが日々のしがらみを戯れへと誘うのだ。
 ここでは循環する「絵空事」の1987年の一部と、1997年の一部を取り出して合成し、1999年に新たなる「絵実物」として循環させようという企みなのだ。
 とりあえず1987年の仕事を「引用の戯れ」と位置づける。87年といえば世間はまだバブルの真っ只中で、これに則していえば「引用の戯れ」とは増殖する表現意欲のバブルということになるか…
 ある日、スケッチブック6Fは雑誌から写真を引用する、翌日、引用された残りの写真を引用する。さらに後日、引用が繰り返されて「正体不明になった写真」あるいは「雑誌のページそのもの」をも引用する。この営みは引用する表現意欲が反転して引用されていくことになり、引用が繰り返されるたびに表現意欲は自らの抜け殻を表現し続けることになる。
 つまり、引用は引用されなかったものを引用して反省的に循環することになり引用をとめどない戯れへと誘う。すると、表現意欲だけはよく分かったが、何をいいたいのか分からないといわれかねない事態となり、言えば言うほど言いたいことが言えないことと区別がつかなくなる。正に表現意欲のみのバブルなのだ。
 しかし、ここで腰を据えてよく見定めてみると、語り続ける表現意欲が語りたいものを隠そうとする企て、さらに、隠された何かあるいは抜け殻によって明らかにされる表現意欲の正体が透けて見えてくるのだ。それはそもそも6Fが絵空事と呼ばれた「初めから隠されていた<何か>」が意味するものであり暗示するものなのだ。もはやここではその<何か>について語ることはしないが、あえて言い換えるならば、「饒舌なる戯言」が語りうるものについての考察ということになる。
 (と言ってみても、所詮は「引用」が「饒舌なる戯言」なのだから「引用しつづける」ことこそが考察の実践にほかならず、「引用」は戯れへと循環する、ハハハ)

 つぎの1997年を「切り捨ての戯れ」と位置づける。すでに世間のバブルは崩壊し、巷には大不況の風が吹き荒れているのだ。それをふまえていうならば「切り捨ての戯れ」で崩壊する表現意欲のバブルというところか…
 ある日、6Fは色紙を切り抜いて使う、翌日、切り抜かれた色紙を再び切り抜く、さらに後日、残りの色紙を切り抜く。ここでいう「切り抜く」とは「切り捨てる」ということと背中合わせ。言い換えるならば「切り捨てなければ切り抜けない」作業によって6Fは語り続けられていく。したがって「切り抜き」を循環させれば切り捨てた表現意欲が切り捨てられて、 表現意欲は切り捨てる欲望に切り捨てられる。
 つまり、ここでも「切り捨て」は切り抜かれたものを切り捨てて反省的に循環することになり戯れへと誘う。すると今度は「切り捨てなければ切り抜けない何か」を語るまでもなく、「切り捨てる」ことがすでにその何かを語っていると言われ、その何かが何であるかを語らないつもりでいても、語らないことがすべてを語っている事態となる。もはや過剰な表現意欲は崩壊し何も語らないことになる。
 と、ここまで「語らないこと」を語ってしまえば何がいいたいのか明らかになる。つまり沈黙を続けることが意思表示になってしまう矛盾、あるいは、黙秘することが事件の当事者であることを物語ってしまう矛盾のように、語られないことによって「語るべき何か」が明らかになる戯れを仕掛けるのだ。それは、すでに表現意欲が崩壊した後に表現意欲だけでは<何(回答としての何か)>も語れないと言わせて<何(問いかけとしての何か)>しか語らない企みとして、「沈黙ゆえの饒舌」が語らないで済ませたものの考察ということになる。
 (と黙っていても、所詮は「切り捨て」が「沈黙ゆえの饒舌」なのだから「切り捨てつづける」ことこそが考察の実践にほかならず、「切り捨て」の戯れへと循環する、ハハハ)

 さらに1999年は「共存=混在の戯れ」と位置づける。世間ではバブルの清算期に入ったものの未だ大不況を抜け出せる気配はない。様々の欲望が錯綜して共存、混在する現在こそ、87年と97年の合成を試みるには絶好の時かもしれないと思われる。何はともあれ、ここで10年の戯れの隔たりは共存し混在する。10年の隔たりがすでに戯れにすぎなくて、隔たるものが共存しあるいは混在するものが隔たりを抱えている。
 といいつつ何行者たるオジサンが自戒を込めて語るならば、まことに不本意ながら、世を忍ぶ仮の姿で労災適用の怪我をして、約3ヶ月ほどのモラトリアム生活を送ることとなった。これは思わず世を忍びすぎて仕事に追われ、Macによる絵空事の画像データ入力もままならないオジサンの断末魔の叫びが、幸か不幸か労災適用の有給休暇として実現したということに他ならない。この降って湧いた僥倖は、しばしばナースに「いつも優雅でいいわね、好きな音楽を聴いて、好きなことをして…」といわれるものとして、かつての高原における15年間の隠遁生活を条件付きながら再現するものとなった、ハハハ。
 そんなモラトリアムの生活は天下無敵、不死身(を標榜する、ハハハ)の何行者にはふさわしくないが、今もっとも何行者らしい生活を保証するものとして生きられて、勢い反省を循環させれば、ことごとくが語り散らかされたまま放置された表現意欲のバブルが摘出されて、これを清算すべく「共存=混在の戯れ」を語る場が用意されることとなった。

 では、99年の絵実物的手法とは…
 「引用する欲望=引用される欲望」と「切り捨てる欲望=切り抜く欲望」」あるいは「切り捨てられる欲望=切り抜かれる欲望」が合成されて、表現意欲は相殺されて無力化したり、あるいは相乗効果によって増大する。この欲望の揺らぎを循環させて戯れへと誘うのだ。
 何行者は「循環する戯れ」というまるでお役ご免の人工衛星のようなとめどない表現生活に埋没し、時を進めているのか退行しているのかも定かでない迷走の真っ只中で、ただひたすら循環することに精進していれば、いずれは宇宙の藻屑になり果てる人工衛星の定めが、思わず宇宙的生命の循環に目覚め、かろうじてこれでいいのだと「生命」そのものを了解することが出来るかもしれないと夢想しつつ、いつの間にかそれを確信することになる。そんな戯けた戯言の戯れが何行者の行者たる所以であるが、すでに語ったけれど「饒舌なる戯言」を語り「沈黙ゆえの饒舌」に沈黙しつつ考察することがとりもなおさず生きつづけることであるように、絵空事のみならず絵実物においてもまた「循環する戯れ」を生きることが信条なのだ。
 ここで目指す「循環の戯れ」とは、かつてどこかで遭遇しているような何か、と同時に、これから遭遇するはずの何かであるような、そしてその遭遇がいまここに新たなる感動の時として拓かれていることを願いつつ、循環する何かに目覚めつつそんな何かを循環させる事件の現場に立ち会う事なのだ。
 はたして絵実物において何行者が循環させた戯れが、あなたに「何の循環」を喚起しうるであろうか…
 あなたにとっての<何>とは何か…


「はじめに」はここで終わりです。

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