何行者にとってのコンピュータ・グラフィックス

 コンピュータを使ったプロの画像処理というと、もっぱらグラフィックデザインへとiMacユーザーもなびく。コンピュータ・グラフィックを標榜する雑誌なんかをめくってみれば、さっそくデザイナー諸氏が出てきて、グラフィック作業においてはいかにしてパソコンを使いこなすかというご高説を宣う。あるいは、そもそもグラフィックデザイナーとはいかなる職業人であるかとプロとしての心構えを披瀝する。
 どちらを見てもごもっともではあるけれど、どうもパソコンの画像処理における領域は、デザイン関係ばかりがやたらと元気でそれ以外は影が薄い。そもそも表現者には商品を作るデザイナーと、プロといいつつあまり金にはならない作品を作る芸術家なんて種族もいる。といってしまえば、当節、金にならないものは皆元気がないと見なされているのだから仕方ないか…ということになるが、この芸術家諸氏も、なにやら怪しげなパソコンなんて画材を使わない手はないと考える。
 当然ながらグラフィック作業におけるパソコンの役割と、いわゆる芸術表現におけるパソコンの役割は自ずと違ってくる。
 様々の制約の中でこれを克服しながら商品としての作品制作を進めるデザイナーのグラフィック作業では、パソコンには従来からの手作業によるクオリティの高さを継承する能力が要求されて、なおかつそれ以上の表現が出来なければ高い金を払って設備投資する理由がないと見なされる。
 ところが芸術系では、そもそもは表現意欲を発動する自分以外に発注者(クライアント)なんて気の利いたご意見番的存在がいるわけじゃないから、本来、表現活動は野放し。この脳天気な表現者は、パソコンが画材としてのみならず芸術的発想を担う部分へと入り込みむのを許し、芸術的問題の根幹に関わるような重大な役割を与えていながら、パソコンのあるがままの能力を引き受けてむやみに過酷な要求はしない。唐突ではあるがオジサンの私見としては、そもそも芸術家とはパソコンとかオネイチャン関係には優しいのだ、ハハハ。
 たとえばデザイナーは、解像度の低い画像の粗い粒子をむきなって糾弾するが、芸術系は、そういう体質なんだと了解して不都合はない。その意味において、パソコンがデザイナー 諸氏の要求に応えうる道具ならば、それなりにパソコンへの信頼度は高くなる。ところがひょっとするとパソコンとかオネイチャン関係なんか信用しちゃいない芸術系は、パソコン本来の特性を見定めて、写真画質の模倣や質感の再現という程度の目先の作業に拘泥することもなく、ちがった活用の場を用意する。いうならば、解像度の低い画像の粗い粒子も素材の一つで、あばたもえくぼといった発想になる。

 ところで、話は変わるけれど、オネイチャン関係に拘泥してしまうのも芸術家の悪癖と懺悔して久しいオジサンは、もはや単なる表現者に過ぎないと自覚する次第であるが、だからといって道楽でお絵かきをしている趣味の人というわけでもない。昨今、パソコン関係ではCGアーティストという気取った言い方があるようだが、もしもお許しいただけるなら、とりあえず私の場合はこれに近いか…。
 たぶんどう転んでみてもオジサンは、パソコン界におけるグラフィックデザイナーなんてかっこのいいものじゃない。オジサンにとってのパソコンは、なけなしの金をそそぎ込む腐れ縁になってしまっているのだから、どうやらパソコンとの関係なんて騙し騙されてのお姉ちゃん道楽みたいなものなのだ。といってしまっては、パソコンを使ったお絵かきは自ずと道楽へと成り下がる定めか…、ハハハ。
 ではグラフィックデザイナーがどういう風にかっこがいいかといえば、パソコンを手玉にとって陰で操りしこたま甘い汁をすする恐いオニイサンのようですごいのだ、ハハハ。

何行者の絵実物におけるCGの手法とは

 まずは、何行者にとってCGとはいかなるものかといえば、対自的に埋没しかねない絵空事を対他的な利他行として展開しうる重要な手法ということになるが、そもそもはパソコンによる絵空事の画像データ管理を進める課程で必然的に展開してきたのがCGなのだ。
 ここでパソコンの画像データへと姿を変えた絵空事は、レタッチなどというCGの手法によりいかようにでも変容しうる新たな素材として用意されることになる。この段階で対自としての絵空事はその目的を変容させて多目的性を備え対他的要求を担える絵実物への展開を始めるのだ。そして、ここにいう用途とか目的、あるいは価値の変換システムとしてのパソコンに大いなる意義を見いだすことになる。
 たとえば、スケッチブックに鉛筆で一点を記して提示してもそれを作品として納得させるためには様々な苦労が予想される。ところが、同じ一点でも版画という作業工程をくわえれば問答無用の版画作品として提示できる。それと同様で、ここではCGのシステムとして認知されたパソコンに取り込まれることで、絵空事を作品としては提示したくないという何行者の密かな願いとは無関係に、画像データ化という作業行程を通過することで、何はともあれディスプレーの中に変換可能なCGとして「とりあえずは絵実物的に」立ち現れるのだ。ところで、本来、絵空事は「絵・空事」という了解で成立しているが、画像データ化された絵空事もまたパソコンという仮想空間における「絵・空事」にすぎないといえる。しかしパソコンによって無限に近い汎用性の画像データに変換されることにより、自己目的的な「表現行為=経験」の絵空事は否応なしに他目的的な「表現経験=行為」の場へと引きずり出されてしまうことになる。その意味においても絵空事は「絵実物的な何か」へと変換されているのだ。
 ところで、パソコン本来の機能を考えてみると、絵空事を絵実物に変換させるということとは逆に、世界を満たすアナログ情報をデジタル化することの方がそもそもの役割であることに気づく。CGのみならず、ワープロにしてもいわゆるビジネスソフトにしてもゲームにしても、ごく普通にパソコンを使用するということがデジタルの世界に足を踏み込むことであり、情報管理という領域を覗けば正にアナログ情報のデジタル管理であることに気づく。
 とすれば、あらためてその出生をたどるまでもなくアナログ情報によってこそ育まれたのが絵実物であるという言い方が理解される。
 そこで改めて「アナログ情報=絵実物」をデジタルへ変換するシステムとしてのパソコンをみてみると、「<1-0>神」による世界の再構築を目指すものであるということが出来る。この神の下ではすべてのものがデジタル信号という同じ身分で支配され管理されてしまうのだ。したがってパソコンという世界でこの神の洗礼を受けたものは、「<1-0>神」による世界制覇という野望実現のため<1-0>で流れる血をたぎらせた宣教師となってアナログ界に旅立つ定めなのだ。たとえ異次元からの侵入者である宣教師ももはや見かけはアナログ人と同じなのだから、アナログ界はデジタル宣教師を識別できずデジタル化による世界制覇の陰謀を阻止し得ないことになる。アナログ人はこの宣教師に洗脳されてアナログの血を抜き取られ、次々とデジタルの血に入れ替えられてしまうのだ。ここでは見かけは絵実物にすぎないがその素性は「絵・空事」である侵入者が大手を振って闊歩することになり、パソコンはデジタルによる世界の再構築に成功するのだ。
 パソコンは絵実物で構成されるアナログ界をことごとく「デジタルデータ=絵空事」に変換しつつ、同時にこの「デジタルデータ=絵空事」を「絵実物もどき」へと変換して送り返すのだ。
 実はここに何行者がパソコンへとのめり込む根拠があるわけで、何行者としては絵実物世界とは所詮「絵実物もどき」の誤解の上に成立している幻想にすぎないとうそぶいているのだから、このパソコンの存在こそが何的世界の具現化として吹聴したいところなのだ。
 いずれにせよ、ひとたびパソコンによって絵実物へと変身を遂げた絵空事は、このままプリントアウトされようと、グラフィックソフトでさらに変身に磨きをかけようとも十全たる絵実物性を獲得してはばからない。
 さて、話はちょっと横道へそれてしまったけれど、絵空事の画像データベースを作るのならば、画像はスケッチブック6Fとしての絵空事に限りなく近いものが要求される。しかしこの作業は私の個人的な要求によるもので、何ら金銭的な見返りを期待できるものではないため、自ずと投資できる金額にも限界がある。正直に言えば日常的には限界ばかりが覆い被さっているのだ、ハハハ。
 そんなわけで、多少の不満はあるとしても、何はともあれパソコンの画像データになった絵空事は、入力したデジタルカメラの性能によって画質は決定されてしまう。そんな状況をふまえて、ここで新たに表現され生み出される絵実物は与えられた画像によってこその発想であり、創造ということになる。したがって、与えられた画像の粒子が粗ければ、それはそういうものとして引き受けて表現せざるをえないのだ。
 すると、画像の荒さはそれなりにそういうマチエールとして了解できるものへと変貌する。それは表現者自身のひいき目だといえないこともないが、そこは芸術的表現世界の常として、表現者がそういうものですと提示してしまえばそれですむ問題になってしまう。
 当然ながら、見る人がそれじゃダメだと言うならばそれまでのことであるが、そこでそれを引っ込めてしまうかそのままでいいと判断するかは表現者次第。とはいうもののいやだというヒトはどうせ見向きもしないのだから、自ずと答えは出てしまう… ハハハ。


「はじめに/のまえに」はここで終わりです。

目次