ぼくの発生

不安な心が絵を描いた。

蒸発してしまいそうな一つの心が細い柱となって現れる。

柱は怒り、抵抗し、そこに自分を見る目を捜し出す。

そのとき未来のあることを知る。

その空間に大きく伸びて爆発し、自分を求めて飛びまわる。

ここに自分の力が示される。

すべてのもの貪欲に。しかし、常に醜い争いがあり、不安と怒りが心を奪う。

その心は、さらに自分を示し、自分を求める。

この世界には喜びも悲しみも許されない。

喜びは自分の力を信ずることの出来たことに姿を変える。

悲しみは、未来の自信と希望の他には何者でもない。

そんな中で許されるものは現在の生活だけである。

小さい自分が中にあり、そこにあるものだけが自分であることを強く感じる。

そんなとき、その心を問いただす。意を決して自分を示す。

大きな爆発… 新しい自分の発生である。

それは常に自分に忠実であること。

いずれにせよ、大きな渦の小さな出来事。すべては自然である。



 1964.10/高校3年文化祭に個展を開く

「さんにん《》のための会 その美術展」パンフレット前文




岡本太郎との邂逅


  昭和39年 (1964年) 11月。私は不本意なまま正体不明の自責の念に呪われた高校3年、すでに家業を継ぐべき状況で営業兼販売員としての生活は確保するものの、将来に確たるビジョンがあるわけではなく、鬱屈した家庭環境の抑圧された自意識という真っ赤な欲望に翻弄されていた。
 それ故にこの時期は、悶々として書き殴る絵画を生きざるをえないことが、己のおぞましき欲望と苦悩の所産であることを知っていたのだから、そんな作品は己の惨めな心を人前にさらけ出すことに他ならないというわけで、人目をはばかり隠し続けるものになっていた。
 にもかかわらず私の心の痛みに無頓着で脳天気な父親は、自分が呪われた作品とも知らないで、その作品のいくつかが知人を介して岡本太郎に紹介されることを喜んでいた。私にしてみれば、表現者としての動機は棚上げにされて作品の出来不出来を評価されてなんになるのだという程度の乗り気のない出会い。
 さて、我々が南青山のアトリエに到着したときは、予想外の交通事情もあり予定の時間をかなり遅れてしまっていた。太郎先生は昼食の時間になっていたが、知人の取りなしでわざわざ時間を割いて頂くことになった。独創的なアトリエですき焼きの香りが漂う中、横目に以前どこかの展覧会で遭遇している岡本太郎の前屈みの蝋人形に取り付かれそうになりながら、庭では「座ることを拒否する椅子」にありきたりの命名でガーコと呼ばれるカラスが鎖に繋がれていて、それでも何か野性的な威厳を持って立ちこちらを警戒しているなかで、持参した大小数点の絵を並べ太郎先生のお目通しと相成った。
 そこで私の安易な岡本太郎への思惑は、その芸術への真摯な情熱の前で挫折した。何と太郎先生は一瞬にしてテレビに出ているときと同じ超越的表現者へと変貌し、正に爆発せんばかりに芸術的気力を全身から顔面へと凝縮し狂気を秘めた眼差しで私の卑屈な心の一枚一枚に「ウウッム、ウウッム」と唸りながら対峙した。
 「おっちゃん、それはやり過ぎと違いまっか」と身を引いた私をよそに、一通りの謁見が終わった後で、一枚の大きなクレパス画を指さして、「これが一番いい。これはどこも、誰の真似もしていない。これは君の絵だ」、さらに「絵は真似をしちゃダメだ。だから、無垢な子供の絵が一番いい」とこれはすでにどこかのテレビで太郎先生から聞いたことのある名台詞。正に「君はガキだからいい」というご託宣を頂いたわけだけど、「だからといって俺の苦悩が救済されるわけじゃない」と知り尽くしている私は「それでどうする、それでどうする」と自分に問いかけるしかなかったのだ。
 ところで、ここにいう太郎先生の最初の一撃は如何なる意味を持つのか。私自身、無頓着ではあったけれど、実は表現行為が芸術へと踏み出す最初の関門がここにあるといえる。つまりそれが「芸術におけるオリジナリティ」。極論するならばオリジナリティ無くして芸術が語れるのかという問題。つまりは「この仕事は俺にしかできないはずだ」という自負心、あるいは「俺の言い方で言わずにいられない」必然的な切迫感、さらに不器用にも「自分でやるしかない」「俺はこのやりかたでしかできない」といいつつそのやり方を貫けるという闇雲な情熱、そんなものを無意識の表現者であるときにすでに持っているかどうかということ。これを太郎先生は評価の第一義に置いていた。
 しかも太郎先生の持論によれば、このオリジナリティとは如何なる作為を労することも無く、無垢な子供のように根拠を問うまでも無い表現欲求に、従順に無作為に突き動かされて表現することよって獲得できるという段取りなのだ。まさに小賢しさの無い天然のガキでなければならない。とはいえ、はたしてそんな無垢のガキは存在するのか。事実、オリジナリティの発芽を評価された私はガキの頃から目先の効いた小賢しいませたガキではあったのだ。ハハハ。
 ま、無駄口は置いといて、ここにいう「小賢しさの無い天然のガキ」とは、まずは表現技術の未熟さと、それ故に技術の制約を受けない自由度の広さが、稚拙な思い込みをそのまま直截な表現意欲に転化することができる状況として了解されてしまう程度のことかもしれない。
 さて、言葉のない青年に太郎先生は、「君はもっと描かなければいけない。もっともっと描きなさい。描けたら持って来なさい」と、当時の私には到底理解しえぬ訓戒を頂いたのだ。
 それはガキで居続けるために画家のように上手にならないための特別な絵画技術の習熟という摩訶不思議を意図していたのか、あるいはまだ芽が出たばかりのオリジナリティを確固たるものにするための絵画的人格形成の修行ということだったのか。そもそもマインドコントロールにすぎない苦悩者の青年は、画家になるための修行を希望しているわけではなかったのだから。
 それはさておき、太郎先生は画風の違う鉛筆絵を指し「君がこちらの絵に進みたいと思うのなら、僕が教えるよりはもっといい先生がいるから紹介してもいいけれど、でも僕はこっちの方がいいと思うけどね」と先ほどのガキの絵を評価してくれた。言い換えるならば、この程度の私の能力でも絵描きとしての自立に可能性を見てくれていたということとして感謝するに留まるのだ。
 さらに、「絵を描くのに画材なんて何でもいいんだよ、君の家はスポーツ用品店なのだから、油絵の具を溶くのなら店にある亜麻仁油でいいんだ。スポーツオイルだって何だっていい。描くことが大切なんだ」と技術技巧の超越によるピュアな芸術的欲求の重要性を語り、ガキ的表現者の裏付けとなる太郎的芸術論の骨格を示された。
 「いま、僕はあまり描かなくなったけど、君はまだまだもっと描かなきゃダメだ。描けたらまた来なさい」と、もはや絵画表現に留まらない太郎的芸術論の実践のために不可欠の要因である持続的表現行為を示された。つまり正体不明の青年に闇雲な爆発的表現行為の持続が喚起され、正に弟子を取らない太郎先生に弟子入りを許されたようなものだったけれど、私は不幸にして絵描きになることに人生の展望が見えるほど脳天気な青年ではなかったのだ。
 現に、岡本太郎さんに紹介されることを喜んでいた父親が、そのくせ心の中で「おまえ、絵描きなんかで飯が食っていけるほど世間は甘くないぞ」と言っている声が聞こえていたような気がしていたのだから。
 さて、帰路についたとき紹介者の知人が「いや、僕は驚いたよ。あの口の悪い先生が、君のことを褒めていたからねえ。気に入らなければ口もきいてくれない先生が、また来なさいとまで言ってくれたんだから、いやあ、君はすごいよ」と手放しの絶賛ではあったけれど、その後、太郎先生のアトリエへ伺ったことはなかった。
 今更いうまでもないが、それからも私に絵を描く時間が保障された生活があったわけではなかったし、青年期特有の社会との軋轢が、鬱屈した肉親相克をさらに先鋭化させていき、兄弟が差し違えて浴びる返り血でかろうじて絵が描ける程度の時期を過ごしていたにすぎないのだから...
 
 繰り返しになるけれど、いま翻って考えてみるならば、48年前、なまじな画家になるために美大に入り芸術的技能者としてトレーニングを受けた者とは無縁の、正に無垢な表現者として立ち上がったばかりの青年期に岡本太郎に受けた訓戒とは、第一に「人の真似をするな」というオリジナリティの確立、第二が「君はもっともっと描け」と無作為に爆発的に表現し続けることであり、第三は「描くものなんか何でもいい」という技術技巧の超越であったといえる。
 しかしその後、ザワザワとした心の居所が見つからない私は、表現者としては10数年もの停滞期に留まり、「心が疲れたら旅に出ます」を口癖の鬱屈した苦悩者のままそこそこの社会人として彷徨し続けることになる。
 ようやくこの苦悩者の閉塞状況に爆発的気力を温存する手立てを獲得させてくれたのは仏教であった。そしてキーワードは「因縁解脱」。この古色蒼然たる仏教的変身論に心の騒ぐものを感じ、その可能性に魅せられたのだ。当初、出家という手段を考えたが、ご縁を頂いたのが在家の仏教団体であり、どうしても譲れない大前提が絵を描くことを因縁解脱の方法論にしたいということであったために、宗教生活を出家という形で規定されては絵を描く時間の確保ができないと判断して出家は諦めた。
 そこで出家と同様に捨てられるものはすべて捨てる覚悟で「心の旅に出る」決断がかたまり、生活のスタイルは正に宗教的隠遁者と言った様相であるが、己を爆発させる道は他にはないと確信し、勝手ながら「何行者」などと名乗る仏教的表現者に目覚めて一人生きる道を踏み出すことになった。
 太郎先生の言う「爆発的表現者」などそう脳天気に生きられるものではないけれど、それを今更ながら無謀にも貫徹しようという端緒とは、「自分とは何か」「いかに生きるべきか」という青年期の熱病といえる青臭い哲学的大命題を引き受けてしまったということだった。
 そんな「爆発的表現者」を引き受けて表現生活に入ってからすでに37年経過しているが、この「絵空事」ワールドの中でいう koya noriyoshi とは、いつまでも、そう死ぬまでは確実に続く「生きがたき表現者」としての試行錯誤なくしては、もはや生きられぬ生き方のことであるのだから、今更ながらに思うことは、岡本太郎との邂逅が、「いまの自分を生きる」を語る「言葉と意味」を暗示していたというわけなのだ。
 しかも、ここで取り上げられるキーワードは「何だ」。岡本太郎は否定的な「なんだ、これは!」で人々のひんしゅくを買うほどの驚きを仕掛けることで自らを奮い立たせ、爆発的な感動と表現力を喚起し続けてきたが、奇しくも私は、己に「自分とは何だ」と問いつづけ、問いつづける自己を引き受けることにより肯定的な「何だ?=何だ!」に踏み留まり「何って何!?」の持続的な表現力を獲得することになった。つまり言葉で岡本太郎を引き受ければ「なんでもねえょ、これは(私は) !」と人々と自身に対して開き直りうそぶくことにより、「何だ」を宙づりにして正体不明の爆発的な表現力の持続を企てることなる。
 思い起こせばテレビの画面に降臨された太郎先生は、「売れなくても構わない」「好かれなくても良い」「認められなくても良い」「成功しなくても良い」と、芸術の世俗的価値におもねることのない崇高な芸術至上主義を提唱しつつ、自らはマスコミにおける芸術的トリックスターを演じ続けたが、ここで私が太郎先生に用意できる回答は、未だ孤立無援、無名の表現者ということ、ハハハ。
 未だ誰にも似ていないガキのままで、技術技巧は職業画家を超越したままに幼稚園で使うクーピーペンシルだったり、コラージュが昂じて色紙に埋没したままで、何はともあれ闇雲な爆発状態で一日一画を続けている有様なのだから、たぶん岡本太郎的「爆発的表現者」の精神を遺伝子のように受け継いでいるだけの脳天気はひょっとすると私だけかもしれない。
 もはや長生きがめでたいとは言い切れぬこの時代に、後ろ指さされながらそれでも「爆発的表現者」を生きられるというのなら、それはそれでめでたしというところか。
 ショウエネ、シヨウエネと呪文を唱えながら、エコエコと蛙のように鳴きながら、
 出来れば蛙程度の擬態で「なんでもねえょ」と姿をくらましながら、ハハハ。


追記

 ところで、あなたは 1960年代前期に風間スキーというメーカーからタローモデルというシリーズが出ていた
ことをご存じか。当時としてはかなり奇抜なデザインで、新しいものに敏感な若者でさえ「岡本太郎か、それは分かるけど、これを履く気にはなれないな」というほどに奇抜で天下無敵の顔付きをしていた。現に、店頭ではいつまでも店の守り神をしていたタローモデルの記憶がある。

 このスキーメーカーの方がこのときの知人というわけで、我々が太郎先生のアトリエで予定外に長居することになった大方の時間は、実はスキー談義あったと記憶する。太郎先生は、フランスのドロミテ社に特注で作らせたスキー靴に夢中だった。品物が到着するのを首を長くして待ったいた様子ではあったけれど、得意満面でどこか悪戯小僧のような愛らしさをたたえながら解説されるところによれば、当時としてはまだ目にすることのなかったバックル式で、その内部構造は柔らかく素足を包み込むような感じになっていて、厚手のスキーソックスなど必要としないものだと力説されていた。話の中で太郎先生はすでにそのシューズを履いてアトリエを滑降しているのだった。

 

2010.7

 




 
63.10.30              63.10.31
(鉛筆/19.2×27.0)         (鉛筆/17.3×25.2)


 
63.11.02              63.11.05
(鉛筆/17.3×25.2)          (鉛筆/17.3×25.2)


 
63.12.04           64.03.06 
  (鉛筆/?)         (鉛筆/38.0×53.7) 


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