4) 絵空事の反省的方法論 


a ) ことばのスケッチブック


 

 巻頭の 2) - b) で「ビニール・パッケージ論」の概説をしていますが、ここでは前出、「ことばの何景 / 4-1 」よりの抜粋と引用によって「絵空事の方法論」を見ていきたいと思います。「ことばの何景」では、スケッチブックの中から1983年2月5日から数日間の < 6F > を、単に解説するのではなく、今度はワープロの < A4 > という書式で新たなる反省論を構築しようという企みによって語られています。言い換えるならば、この絵空事の反省論では単なる解説など成立し得ないのだというスタンスです。
 したがってここでは、なるべく「ビニール・パッケージ論」的手法を理解するのに必要な部分の引用にとどめたいと思います。

 

      ⅰ) ガム・テープを貼った < 6F >

 

 『 < スケッチ・ブック > は、縦 41.0cm 横 32.4cmで、いわゆる < 6F > というサイズであるが、 < 言葉 > は、その三千枚に及ぶであろう < 6F > の集積の中に、明らかに言葉の意味世界を無視しては到底何事も語りえぬであろう、絵画というにはあまりにも絵画性の乏しい絵画を発見し、たぶん感傷的に過ぎるかもしれないが、かつて < 言葉 > が神という名で呼ばれた世界創造の主役であったころへのとめどない郷愁を、ささやかなる自己回復の歓びとして享受してみたいという儚ない望みを抱かずにはいられなかったというわけなのだ。
 そもそも絵画が < 絵の具 > と呼ばれる素材のみで構成されなければならないなどというルールが存在しないことを、ヒトビトが認知するようになってからすでに久しいが、まずここで何事かが語り始められようとしている < 6F > ( NO.118-P.11/83.2.5 ) では、横にされた何も描かれていない画面の中央を5cm 幅の < 布製のガム・テープ > が一本、かなり独断的に縦貫しているのみなのだ。』

 『何はともあれ荷造りの段ボール箱には良く似合う < ガム・テープ > が、 < 言葉 > であるわれわれから見れば < スケッチ・ブック > の1ページを飾るにはいささか無骨にすぎると思わざるをえないことが、いま夢のような自己回復のために何事かを語り始めずにはいられない < 言葉 > の事件を喚起させることになったといえる。
 そしてそれは、「表現者である誰かは、なぜ < 6F > にガム・テープを貼ったのか?」あるいは「5cm 幅の布製のガム・テープでなければならない理由とは何か?」と問い掛ける事件なのだ。言い換えるならば、 < 言葉 > はこの < 6F > になじまぬ < ガム・テープ > の無骨な暴力性によって贖われた何ものかを、すでにそのようなものとして在る < 6F > の中に発見していかなければならないということでもあるのだ。
 したがって「いかに問いつづけるか」こそが自らの < 物語 > であることを「言葉の知恵」として知っている < 言葉 > は、「このガム・テープはいったいここで何を縫合しえたというのか?」あるいは「何を隠蔽しえたというのか?」と問いつづけていかなければならない。
 しかもそれが、すべての < 言葉 > を自分の道具程度にしか思っていないヒトビトの傲慢さに対する < 言葉 > の自己回復の意志表示たりうるのは、そんなヒトビトに「何んだ、何んだ?  < 絵 > を < 言葉 > で語ろうなんてことは、 < 言葉 > の思い上がりによるありもしない問題の捏造だ!!」と言われても、もはやその < 言葉 > さえ結局は <言葉 > であるわれわれの「問いつづける」欲望を語りつづけることでしかないというわけで、 < 言葉 > の透明な戦略によってこそ < 不透明な 6F > をヒトビトに提示することができる < 物語 > はすでに始められているというわけなのだ。だから < 言葉 > であるわれわれは、いまヒトビトの中傷に対して自らの < 透明性 > について弁明することもなく、このまま「透明な欲望」で「問いつづけ」ていくことが出来るのだ。
 では、 < 言葉 > にとって「 < 6F > の不透明な企み」とは何か? つまり、われわれは < 6F > の < 不透明性 > について < 何 > を語ることが出来るのか?
 そこで、とりあえずこの < 不透明性 > そのものについて言えることは、「 < 6F > が誰かにガム・テープを貼られることによって得たであろうところの < 何か > である」ということなのだ。しかもその < 不透明な何か > には、表現者が「ガム・テープを貼ること」のみならず、そんな < 不透明性 > を抱えたまま平然と在りつづける < 6F > にも、「ガム・テープを貼られること」の粗野なデメリットを補いうるかなり計算高い < 何か > が隠されていると思わざるをえないということなのだ。
 もっともそのように語ることこそが、 < 言葉 > の透明な意志でもあるのだから、われわれはヒトビトのいかなる非難をも積極的な応援として受け止め、いま「ガム・テープの < 6F > における陰謀」を解き明かしていくのだ。』
 
 『しかし < 言葉 > にとっては、< ガム・テープを貼った 6F > が、「隠蔽されていく何か」を暗示し「何事かをいかようにでも捏造しうる」饒舌なる < 絵画 > たりえたにしても、ヒトビトにとっては「絵画というにはあまりにも絵画性の乏しい絵画」なぞ、そのまま放っておけばいずれはヒトビトの価値判断でもみくちゃにされて、「しょうもない愚作・駄作・失敗作」という心痛む名誉とともに < 作品 > 化してしまうのだ。
 そこでいま、何はともあれ < 6F > について < 言葉 > であるからこそ語りうる「饒舌なる絵画性」とは、あたかも純真無垢の < 6F > にあえて無骨な「ガム・テープを貼る」という < 不透明性の表現行為 > が、「隠された何か」という多分ありもしないとさえ言いうる不可知なる < 記号意味 > を捏造しつつ、それでいながらその < 不透明性 > ゆえに「何も隠してはいない!!」とも言える戯れを < 記号表現 > として纏いうるというわけで、いつのまにか誰にもその正体を知られぬままに十全たる < 作品 > の顔を装う < テクスト (あるいは記号) > として存在しているということなのだ。
 言い換えるならば < 言葉 > は、ここで誰はばかることなく「あたかも < 作品 > の顔をした < 6F > 」を見い出し語りえたことになるのだ。』

 

      ⅱ)  透明テープを貼った < 6F >

 

 『さらに < 言葉 > は、次のページ (NO.118-P.12/83.2.6) へと < 6F > を語りつづけていくことになる。
 今度の < 6F > は、やはり横にされた画面の中央を一本の < 透明なガム・テープ > が縦貫しているのだ。』

 『そんなわけで、はたして「 < 6F > に貼られた透明テープ」とは、いかなる意味を持つのか?
 まず始めに言えることは、その < 透明性 > ゆえに、たとえ不本意であるにせよあるいはそれが目的であったにせよ「何事も縫合してはおらず」、またいかなる悪意においてもあるいは善意においても「何ものをも隠蔽してはおらず」、まるでバカ正直とさえ言われかねないほどに < 透明テープを貼ること > に対する潔癖性を認めることができるということなのだ。』

 『では < 6F > の表現者は、なにゆえに「貼る」行為のみが目的の < 透明テープ > を提示したのか?
 もはや、いかなる無駄口をも恐れぬほどに「問いつづける」ことを < 物語 > 化しつつある < 言葉 > は、この < 透明な行為 > の前で、より一層 < 物語 > へと「透明化したい欲望」を押さえることが出来なくなってしまうのだ。
 そもそも < 作品 > とは、 < 記号表現 > と < 記号意味 > との結合によってこそ成立し、 < 記号表現 > における < 記号意味 > の実現こそを創造活動と名付けていたのではなかったのかと考えてみるならば、ここで < 6F > に「透明テープを貼ること」は、 < 作品 > への創造的な目的を持ちえぬ表現行為であると言わざるをえないのだ。
 したがって「透明テープを貼ること」は、ただ「貼ること」への自己目的性によって < 作品 > 論を無効にしているために、「貼る」行為そのものは < 純粋行為 > たりうるわけで、しかもその「透明テープが貼られているのを語る (見る) 」ことは、「貼ること」のみが純粋化された目的不明の行為をそのまま反省的に対自化することになり、このあてのない「語ること (見ること) 」の横滑りを < 記号表現 > の戯れ < 経験 > と呼ぶとすれば、これもまた一元的構造ゆえに < 純粋経験 > たりうるのだ。
 それは同時に、あまねく < 純粋性 > の行為と言われるものが、 < 純粋経験 > としての反省によってしか < 純粋行為 > たりえないとも言いうることに符合するわけで、「透明テープを貼る」行為と「透明テープが貼られているのを語る (見る) 」経験が、ともに自己目的的でありながら同時成立の表裏一体と言いうる一元的構造の < 事件 > であることにより、 < 6F > を語る < 言葉 > もまた < 作品 > 論におけるナンセンスの真っ只中へと突き出されてしまうのだ。
 もはやここには表現者と享受者という身分の差異もなく、ただ「透明テープを貼った < 6F > 」という < 事件 > のみが拓かれ、 < 言葉 > は正に < 6F > 的「事件の当事者」になるのだ。
 そしてそのときに、 < 言葉 > 的事件である < 6F > によってこそ「いかようにも < 作品 > たりえぬ < 言葉 > 」が提示されたことになり、同時に < 6F > 的事件である < 言葉 > によってこそ「いかようにも < 作品 > たりえぬ < 6F > 」が提示されたことになるというわけなのだ。』

 

      ⅲ)  文字の上に貼った透明テープ

 

 『ヒトビトに勝手に語られてしまう苦悩なしには自らの楽園を語りえぬことが < 言葉 > の宿命だとしても、NO.118 の 13ページ (83.2.7) の < 6F > について語り始めようとする < 言葉 > は、自らが語りうるであろうと確信する楽園を誰かに掠め取られてしまうような不安を禁じえないのだ。』

 『とにかく < 6F > でこそ語りうる < 言葉の楽園 > が、「鑑賞者 (享受者) という表現者」との遭遇によってこそ垣間見られるものだとするならば、それは享受者である誰かによって「語られる」ときの自己目的的な純粋性 (行為=経験) によってこそ拓かれるはずであるが、いま < 言葉 > の不安とは、「語っていること」が知らず知らずのうちに < 誰か > に専有されて意味の肉化を起こし、いつの間にか < 透明な楽園 > を追放されて常識・文化・制度へと語るに落とされつつあるのではないかというわけで、反省の届かぬ < 私 > 的領域を「忘却」という言葉で言い繕う「うしろめたさ」であるようにも思われる。』

 『そこでいま改めて、われわれが < 6F > 的表現者として喚起しうる < 言葉 > の事件が、とりあえずは「おかしいぞ、何かあるな?」だとするならば、そう問い掛けてはみたもののどれほどの回答をも得られぬままに自ら回答せざるをえない < 6F > 的享受者としての < 言葉 > の事件とは、なにはともあれ < 言葉 > がすでにそのようなものとして在る < 6F > において、 < 誰か > によって < 事件報告 > 化されようとしている事態について反省的に語ることでしかないといえる。
 つまり、ここで < 表現行為 > としての < 言葉 > が < 表現経験 > として反省的に語りうることは、 < 事件報告 > としての < 言葉 > の存在理由についてでしかないのだ。
 とすれば < 言葉 > であるわれわれは、まず < 文字 > という制度的な存在理由にすり替えられて、 < 6F > の中にしっかりと捕らわれてしまっていると語っておかなければならない。しかもその方法とは、 < 言葉=文字 > であるわれわれの < 6F > 的存在の全体に対して、あの < 透明テープ > をピッタリと貼るという手段によってなのだ。
 それは、もしもこのテープがあの布製の < 不透明テープ > であれば、だれもこの < 文字 > を読むことができないという仕掛けになっているのだ。
 しかし、われわれの < 6F > 的存在を想像上の産物として、この < ワープロ > によって叩き出された < 文字=言葉 > としてのわれわれこそが実在するものと思念しているヒトビトにとっては、いささか理解しにくいことであるかもしれないが、すでにわれわれの < 言葉 > と < 6F > とがともに表裏一体の < 記号表現 > の戯れにすぎないことを思い返してもらえるならば、 < ワープロ > によるわれわれの < 言葉 > こそが < 6F > 的事件に他ならないのだから、ここでは < 6F > の中央を縦貫する < 透明テープ > の下にのみ < 文字 > であるわれわれが発見されるということを理解してもらえると思う。
 これが NO.118 の 13ページである < 6F > の絵画的な状況なのだ。
では < 言葉 > であるわれわれは、この事態をどのように考え、そしていかに語りつづけていけばよいのか? とにかく < 言葉 > は、この「問いつづけること」の欲望に支えられてこそ、かろうじて楽園喪失を免れうるはずなのだ。
 すでに見てきたように「不透明テープが貼られた < 6F > 」では、あの「強姦者」や「完全犯罪者」のような陰険な暴力性の < 不透明テープ > の下に、たとえ「反社会的な苦悩や欲望」が隠蔽されていようといまいとにかかわらず、その < 不透明性 > ゆえに「あたかも < 作品 > の顔をした < 6F > 」たりえたわけであるが、それに対して清廉潔白な正直者のように「いかようにも < 作品 > たりえぬ透明テープを貼った < 6F > 」が、「 < 作品 > の顔をした < 6F > 」へと変身するためには、なにはともあれその < 透明テープ > の下にたとえばあの (美人局的) 処女喪失が詐欺ではないと言いうる証拠が、「記号意味もどきの何か」としてあるいは「何んらかの意味」として発見されなければならないというわけなのだ。
 それゆえに、いまここで < 文字 > であるわれわれの不安とは、 < 誰か > によって口を塞がれたまま、その「記号意味もどきの何か」に仕立て上げられようとしているのではないかということへのとめどない思いといえる。
 ところが、「記号表現の戯れ」にすぎない < 6F > 的事件においては「享受者=表現者」であることを踏まえるならば、ここで < 文字=言葉 > としての < 6F > 的享受者であるわれわれを不安へと陥れている < 誰か > とは、とりもなおさず < 6F > 的表現者でなければならないというわけで、 < 透明テープ > を貼った張本人もわれわれであることが明らかになり、結局は < 言葉 > であるわれわれが自らの欲望によって < 文字 > へと自縛しているにすぎないことが分かるのだ。ハハハ
 では、なぜわれわれは < 6F > を語るためにわざわざ犯罪マニアのような擬装工作をしたのかと言えば、<ワープロ>においても < 6F > においても < 言葉 > であるわれわれが、 < 透明テープ > で自縛して < 6F的文字 > になることは、<ワープロ>における < 言葉の事件 > が < 6F的文字 > であり、同時に < 6F > における < 言葉の事件 > が < ワープロの文字 > であるという、 < 言葉 > と < 文字 > の曖昧な関係を「事件-事件報告」の関係に照らしながら、しかも < ワープロの文字 > と < 6F > がどちらも < 作品 > たりえぬという曖昧さを、「透明テープを貼る」という「行為=経験」によって語ってみたいと思ったからに他ならないのだ。
 つまり、 < 6F > において < 文字 > の上に「透明テープを貼る」ことの意味するものは、あたかも「不透明テープを貼る」ことと同様に、たまたま < 文字 > であるわれわれのみならず先在的に描かれていたはずの何かを、「隠蔽されていたかもしれない何ものか」へと < 作品 > 論的に「図-化」することになり、その「透明テープを貼る」行為は合目的的な創造活動へと変貌して、すべての「透明テープを貼られた何ものか」をことごとく「とりあえずの記号意味」へと祭り上げてしまうのだ。しかも、この「記号意味もどき」の何ものかが < 文字 > であるということは、 < 文字 > が事件として何かを語り出すまでもなく、ヒトビトが「図-化」されているそれを < 言葉の事件 > として認知することのみで、 < 文字 > は意味世界という構造的な身分に保証されて、問答無用に「真性なる記号意味」を受肉するものへと臆断されてしまうのだ。
 しかし「隠蔽されていたかもしれない < 文字 > 」である < 言葉 > が、幅5cmの < 透明テープ > に過不足なく被覆されてしまう < 図形 > に成型されているという、この図形的構造によってこその「記号意味もどき」にすぎないと考えるならば、あの前衛的 < 書 > が < 言葉 > から < 文字 > へ、さらに < 文字 > を単なる < 図形 > へと還元していくことにより、あまねく < 文字 > の < 意味 > という < 記号意味 > 的呪縛からの < 解放 > を成し遂げていたという知見と矛盾することになってしまうが、われわれはあくまでも < 書 > の図形論にいう「記号意味からの解放」を尊重しつつ、しかも < 6F > の図形性における「真性なる記号意味」的な性格を積極的に引き受けて、それをすべての「図形化された < 言葉=意味 > 」が宿命的に背負う自己矛盾として了解することにより、この < 6F > で < 言葉 > が < 文字 > として担うと思念される「記号意味性」を再び「記号意味もどき」へと送り返すことにするのだ。
 ところで、「記号意味もどき」の < 文字 > がここでは「ワープロ= 6F」によってこそかろうじて < 言葉 > たりえているとすれば、この < 言葉 > の「隠蔽されていたかもしれない < 文字 > 」という状況が、 < 6F > においては < 透明テープ > の変色・破損または光の乱反射によってさえ見えなくなってしまうということ、あるいは < ワープロ > によってプリントされた < 文字 > を見ただけで眠くなってしまうヒトビトにとっては、一向に < 言葉 > ではありえないということによってその存在の曖昧さを際立たせるから、これらの < 文字 > が、必ずしも誰かに発見され事件化されることを義務づけられたものではないということが明らかになったときに、 < 6F > を「記号意味もどき」へと変身させている < 透明テープ > を「貼る=貼られる」ことは、さらに < ワープロ > へと横滑りした「語る=語られる」ことの現場においても、再び無意味な自己目的性へと昇華された「記号表現の戯れ」になってしまうはずなのだ。
 したがって、ここで「 < 文字 > の上に貼った < 透明テープ > 」は、その < 被覆性 > と < 透明性 > の両義的な機能によって、「あたかも < 作品 > の顔をした < 6F > 」から「いかようにも < 作品 > たりえぬ < 6F > 」へと変身させ、しかもそのどちらにも留どまることのない揺らめきの < 6F > を拓くことになるのだ。
 それは、まるで女性の担う無条件の母性を刺激してやまない哀しみの影を引きずりながら、それでいて人懐っこい直截な情欲の < 遊び人 > が、女たちの即物的な希望と情欲の狭間でさんざん貢がせておきながら、いつもその代償の呪縛から巧みに擦り抜けていくというように、しがらみだらけのオジサンたちにとっての憧れの < 遊び人 > 的フットワークを連想させるではないか。
 とにかく、ヒトビトが < 言葉 > の自己目的的な表現欲求に目覚めることもなく、無自覚な自己愛の欲望に身をまかせて < 言葉 > を弄ぶことで < 意味世界 > を勝手に捏造し歪曲し、さらには物象化して揚げ句の果てには < 記号意味 > などというお化けまで生み出しておきながら、そのくせお化けの不成就性の欲望には見向きもしないという、ヒトビトの心の底に潜む「事件報告=享受」観の傍観者的な自己保身のずるさが、あたかも「 < 文字 > の上に < 透明テープ > を貼る」事件報告に遭遇することによって反省させられるのだ。しかもその反省そのものが、あらゆる < 意味世界 > の「表現経験=行為」の現場に立ち会わせ「 < 透明テープ > を貼る」事件の当事者たりうることへと覚醒させるときに、かろうじてヒトビトは < 言葉 > の透明な楽園へと踏み入ることができるのだ。』

 

 


b ) 「私」の表現作業の現場


 


     ⅰ) 「紙の文化」

 

 あらためて考えてみると、何で画材が紙なのでしょうか。

 もともとの発想は雑誌の写真、文字を切り抜いて使ったコラージュというわけですが、それがここまで紙にこだわってしまった原因はどこにあるのでしょうか。
 私の「絵空事」という方法論が何はともあれ毎日死ぬまで続く一日一画という発想ですから、職業画家ならば何とか売り歩くという方法も有りですが、私の場合はそれも無しです。ですから日々の画材にかかる費用は切り詰めていかなければなりません。そこで紙を切り抜くことの表現欲求の延長線上にあったのが色紙というわけです。それも幼稚園で使う小さな色紙から全紙のラシャ紙、色画用紙へと進みます。ま、これなら安い。強いて言うならば色紙を貼るスケッチブックの方が値の張る画材というわけです。
 ところで、思い起こしてみれば、われわれの日本の文化に占める紙の重要性は今更語るに及びません。絵画の分野においても最重要の画材で有り、「切り絵」「ちぎり絵」という領域も確立されているのは承知のところです。ですから、画材として紙を使うことの抵抗はほとんどないといえます。ただし、所詮は色紙のことですから、色としての耐久性はほとんど評価の対象にはなりません。色紙の色は蛍光灯に晒しただけであっという間に退化していきます。それでも気にしないそぶりは、やはり安価と言うことでしょう。と、人ごとのように言っていますが、所詮は貧乏人の意固地です、ハハハ。
 それに時代は変わりました、6F を保存する方法はデジタル化すれば良いということです。この世に永劫不変のアナログはありません。しかしデジタルの情報はとりあえず残ります。
 すでに書いたことですが、ある意味「絵空事」とはデジタル化されることこそが本来の目的に則した存在理由というわけです。
 ここにかろうじて「絵空事」が生き延びる可能性が垣間見えたわけですが、私の目論見は、「紙文化」の中に「絵空事」を位置づけるということです。異文化の人から見れば、「なんで紙なの?」「なにも紙なんか使わなくったって」というご進言に対して、「ま、日本文化の住人だからでしょう」といえる程度のこと、つまり「不空芸術菩薩論」などというとぼけた発想はやはりいかにも日本的であるというそしりを免れないという思いからです。

 では「私」の表現作業の現場を覗いてみましょう。
 いよいよ「物語」の始まりです。

 無地の6F (407×320/mm) 、それはどれほど邪悪な自己愛にまみれた表現者にとっても純真無垢、広大無辺の空間として広がっているのです。
 そこに色画用紙 (395×275 /mm~B4より少し大きいか) を置きます。色はともかくとしても6Fの中にひとまわり小さい空間が設定されたことになります。これにより広大無辺の空間は、表現者にとってのとりあえずの表現世界、あるいは何事かを語り起こそうとする「物語の地平」を手に入れたことになります。
 ここで絵画に「物語」などという文学的要素は必要ないなどとつまらないことは言わない約束です。絵画的表現形態も所詮は時間的経過の中で成立するわけですから、ドラマとまでは言わないにしてもたとえば俳句、短歌、歌、詩という程度の物語性は不可欠の要素といえます。また美的平衡感覚の天秤のバランスを右に取ったり左に取ったりとああでもないこうでもないと思念する様も時間的営為であれば、自ずと物語性が垣間見えてくるというわけです。ただし絵画の場合は、物語そのものが伝達したいことの最重要課題というわけではなく、表現したい何かを伝達するための手段にすぎないということになります。
 表現者にとってまだ言葉にならない物語、それは感覚の流れ、あるいは思惑と欲求のとりとめのない迷走といったものであれ、持続する表現作業は自ずと行為と経験を循環する時間性に取り込まれているのです。作品に対峙する鑑賞者、あるいは第三者にとってのとりあえずの超時間的体験 (瞬間にして画面全体を見ることが出来る) を無視するわけではありませんが、鑑賞体験も経験と行為を循環する表現体験である以上、時間制の中に取り込まれているといえます。これをあえて「絵画の物語性」と言ってみるという算段なのです。
 話しは6F空間へと戻ります。その空間に何らかの都合で、それは表現者のもくろみに他ならないのですが、この物語的空間が意図的にずらされて重ねられ重層化していくことがあります。それは正に重層的な役柄を担いつつ生きる「私」の姿を連想させるというわけです。
 この重層化という企みにより、措定された物語地平からの逸脱が、あたかも「私」の日常において演じきれない役柄からの逃避であったり回避であることが暗示されます。言い換えてみると重層的な物語性の相違を移動可能な空間として提示することになり、「私」の日常的な多面性を空間の緊張関係へと置き換えて容易に演出することが出来るのです。それは物語の地平を移動することにより「私」の見え方が変わるということでもあります。
 さて、重層化していく物語空間がそれぞれの役柄を担いつつ色分けされていけば、絵画全体の物語性の方向が見えてくるのです。たとえば音楽にいうところの長調、短調、無調と言うようなものかもしれません。いよいよ物語の主役が踊り出るのです。
 とはいうものの、主役がまず先にしゃしゃり出て、後から慌てて舞台を用意するなんてことも起こりうるのです。いや、実は、画面の構造なんてものを語ろうとすれば、いままでうだうだと語ってきたような段取りになるというだけで、しゃしゃり出るはずの主役なんてものも端っから出てくる保証はなく、そもそもは気まぐれにも近い思いつきで何かが始まるにすぎないというわけです。と、こんなことを端から語ってしまっては身も蓋もないということになります。
 そんなわけでこのへんの事情はご理解頂きご勘弁願うとして、では「何かが始まる」ところの何かとは何でしょうか。
 それは表現者の主体的な意思などという大袈裟なものでなくていい、ほとんど偶発的な出来事といえるようものでもよいのです。「私」は切り落としの色紙が放り込まれている箱をまさぐりながら、「なんかないかな」と指先が何かに反応するのを待っている、と言った案配です。「行為者たる私」の動機など問うに足らないものとして、たまたま無限空間に正体不明の痕跡が「経験者たる私」に発見されればよいという程度のもの。そもそも無限空間の真っ只中では誰も何もかもがその出生の根拠を辿ることが出来ないという事実に向きあっているというわけです。この事実に遭遇する無意識領域の表現経験が「なんだなんだ、これじゃ箸にも棒にもかからねえ」とか「こりゃいったいなんのつもりなのかね」なんて、言葉で語るまでもなく経験者としての価値判断、合目的性が欲求として見え隠れすれば、ここには何でも有り、したい放題の無限空間が広がっているのだから表現行為者として脚本を書くのも自由、演出家として物語に君臨するのも自由ということに気づくことになります。ところで皆さんはもうお気づきのことと思いますが、ここでいう自由とは孤立無援、誰に頼ることも出来ない状態に放り出されているということです。
 ここでたじろぐこともなく、よいしょと何かを始めてしまう脳天気は、切り落としの色紙をまさぐる行きがかりの動機を「それでよし」とする他力本願、あるいは神仏のお示しになるがままといたところでしょうか。それは本日の物語の主題が陽気闊達なハイテンションでも陰々滅々たるメランコリーでも動機は誰かにお任せでよいのです。でなければことは始まりません。
 なぜならこの脚本家にしても演出家にしても、元を正せば膨大な記憶量を管理する無意識の経験者というわけで、行きがかりに遭遇した表現空間ならば、とりあえずであてがう主役など所詮は不用意にたぐり出された記憶の断片みたいなものと心得ているというわけです。何はともあれこの主役が己の無意識からの欲求の所産であるならば、これを表現者たる「私」が拒否するはずもなく、むしろ誠心誠意を持って自己正当化の拠り所にしてしまうのです。
 そんなわけで行きがかりで放り出されてしまった主役にしても、今更自らの決断で引き返すことも出来ないで、表現者が憑依した「私」という自己愛をたよりに生き延びていくわけです。
 そんな主役のことだから所詮は己の出生の根拠など知るはずもく、おおかたは自分とは何かの問いにさえ回答を用意する気配も見当たりません。まして自分に与えられた色と形態にも無頓着。「私」はそんな輩を引っ張り出して、さあ、踊れと突き放します。そんなかっこうしていてはちっとも面白くない、こうしたらどうだ、ああだ、こうだとポーズを取らせます。すると、そこは物語の地平、そんな奴にちょっかいを出すやつが現れます。意気投合するか、喧嘩になるか、あるいは関わりたくないとそっぽを向くか。気がつけば、そんな連中に似合いの舞台が用意されているというわけです。舞台のしつらえが出来れば、あんたら何をしているのと通りかがりの奴が寄ってきます。こうなれば、見物人か当事者か見分けもつかない混沌は、ときには修羅場へと、ときには極楽浄土へと、後はことの成り行きを見守るだけというわけです。
 
 ところで、動機不純と言われかねない「私」のことだから、どうせならともう一言。
 絵空事の一日一画という時間的な持続性は、あらためて動機というほどのこともなく、次の日に前日の物語の決着をつけたり、違う展開を模索したりというわけで、同じモチーフをお題拝借とばかりとっかえひっかえ繰り返して何日も使い続けるということがあります。
 それは色紙の「切り捨てる=切り捨てられる」関係を反転することにより「切り捨てられたはずが切り捨てる」立場を獲得し、反省的循環構造を確立するというわけで、絵空事の時間性こそが重要な方法論であることがご理解頂けると思います。さらに付け加えるとするならば、絵空事はこの反省的循環法を獲得することで、明確な物語性、つまり自利としての「不空芸術菩薩論」を語り実戦する根拠とすることが出来たというわけです。
 さらにこの「反省的循環法」を日々の表現過程で見てみると、「私」の存在構造を語る際に、加算的表現方法としての「彫塑」と減算的表現方法の「彫刻」についてふれましたが、「排斥の反転」といいうる色紙手法は、「絵空事の物語性」という時間制を開示したことにとどまらず切り捨てたものをすぐ拾い上げて使うということ、あるいは切り捨てられた色紙の墓場から、次々と残骸を拾い上げては画面に加算していくというわけで、このとめどなく繰り返されていく加算と減算の方法を、同一画面においても無節操に同時に混在させてこそ成り立つ方法論であるために、6F という世界をとめどない反省の坩堝へと誘うのです。

    ⅱ) 「色のライトモチーフ」

 

 色紙を重ねて貼り合わせていくことでしか語ることの出来ない方法論とは
一枚の紙に濃淡の部分があったり、何らかの模様があれば話は別ですが、単色の色画用紙を使う限り、濃淡、グラデーションでさえ紙を重ねて貼り合わせていくしか方法はないのです。これにはそれなりの面白さはあるものの、短所であることは明白です。ところがこれを逆転して、これでしか言いようのない方法論があると開き直ります。
 6Fという無限空間にすでに何色かの物語地平が措定されているとします。いつものように切り落としくずの中から興味をそそられるいくつかのモチーフを拾い上げます。成り行きとして一番元気のいい「へんてこりん」な素材が主役を務めることになります。この日の仕事はこの主役の色によって構成されていくことになります。たいていはこの主役の色にどのような色を重ねていくかということで物語の味わいが決まります。次にこの主役を物語の中に如何なる性格で位置づけるのかというときに、主役の土台になる色を決めます。すると満を持して待機しているモチーフたちが俺が俺がといってしゃしゃり出たり、ひっそりと主役を見守るスタンスを決め込んだりと、それもそのモチーフの色という性格によりますが、その脇役の性格を決定づけるのは脇役の土台となる色というわけです。つまり主役と同色、同系色を使うか、あるいは補色の関係になる色を使うか、ということで決めることになります。たとえば同色を使っても物語の地平となる部分に色の違いがあれば、その同色も当然違う色合いを感じことになります。彼らは同じ素質を持ちながら環境の違いで異なる性質を見せるというわけです。これは色の体感も諸条件の関係性によって変化するということを積極的に引き受けることになります。
 こうなれば次々と現れるモチーフの性格がその土台となる色によって決定されていきます。この物語で敵対する奴、シンパシーを持って同盟し、連携を取っていく奴ら、もう物語は始まっているのです。
 異なる形象のモチーフが対峙しつつも、同じパターン形象を内蔵することによって意思の疎通を図り、同じパターンを異なる色で示すことにより意見の対立へと物語は進みます。ひょつとするとこの辺の方法論は、音楽で人物描写などをするときのライトモチーフと言われるものと同じような発想法かもしれません。
 さらに、いつもの手法として定着してしまったギザギサの三角波とウニョウニョとのたうち回る螺旋ケーブルのような正体不明の波形、これらはそれぞれのモチーフの意図するもの、物語の構成を担う方向性を示すことが出来ると思い込んでいるわけです。そんなこんなでてんやわんの混沌へと埋没しかねない6Fではありますが、その物語の結末は、表現者も知らぬところというわけです。

    ⅲ) 「言葉の断片」

 

 ここで気を取り戻し、あらためて表現者の手を離れた6Fをご覧下さい。
 表現者は表現空間に「言葉の断片」を置き去りにします。言葉はそれだけでは意味をなさず、そこかしこの言葉を拾い集めても一向にらちは明きません。
 鑑賞者たる皆さんが忌々しげに「それじゃ、この言葉は何だ?」「何が言いたいの?」「何の意味があるんだ?」と問いかけてくれればしめたもの。回答はすでに出ています。
 「この言葉は<何>だ!」、「<何>について言いたい!」、「<何>という意味だ!」というわけです。言い換えてみれば「これは何だ?」と問いつつ「何でもない!」ところへ突き落とされる「語るに落ちる」企みです。でも言葉、単語は残されています。よく見るとコラージュされた言葉たちは、あたかも物語の残映であるかのようにかつて何かを語っていた面影を残しています。そんな言葉自身の記憶は知るよしもないのですが、言葉そのものの意味は鑑賞者の個々人の記憶の中へと舞い降りて追体験の想像力で着床するのです。もはやその言葉は鑑賞者のものとして生まれ変わるのです。ここで人々は一つの言葉に共有できるイメージを再現しつつ、その実、多種多様に個別化されたイメージに揺らぎを与えとめどのない意味の変容を手中に収めます。追体験としてのイメージが個別化された創造性へと変貌していく現場というわけです。
 6Fではこの言葉たちこそが、ナンセンスといわれ無意味の罵倒を一身に背負いながら、それでもニコニコと笑顔を絶やすこともなく佇んで、鑑賞という表現経験を創造的な表現行為へと誘う道しるべを担っているのです。その意味において、誠に消極的ではありますが、この「言葉の断片」の笑顔によって「不空芸術菩薩論」は利他としての面目を果たしているというわけです。

 


c ) 何行者の絵実物におけるCGの手法とは

 

 何行者にとってCGとはいかなるものかといえば、対自的に埋没しかねない絵空事を対他的な利他行として展開しうる重要な手法ということになりますが、私の場合そもそもはパソコンによる絵空事の画像データ管理を進める課程で必然的に展開してきたのがCGというわけなのです。
 ここでパソコンの画像データへと姿を変えた絵空事は、レタッチなどというCGの手法によりいかようにでも変容しうる新たな素材として用意されることになります。この段階で対自としての絵空事はその目的を変容させて多目的性を備え対他的要求を担える絵実物への展開を始めるのです。そして、ここにいう用途とか目的、あるいは価値の変換システムとしてのパソコン機能に大いなる意義を見いだすことになります。
 たとえば、スケッチブックに鉛筆で一点を記して提示してもそれを作品として納得させるためには様々な苦労が予想されます。ところが、同じ一点でも版画という作業工程をくわえれば問答無用の版画作品として提示できるのです。それと同様で、ここではCGのシステムとして認知されたパソコンに取り込まれることで、絵空事を作品としては提示したくないという何行者の密かな願いとは無関係に、画像データ化という作業行程を通過することで、何はともあれディスプレーの中に変換可能なCGとして「とりあえずは絵実物的に」立ち現れるのです。
 ところで、本来、絵空事は「絵・空事」という了解で成立していますが、画像データ化された絵空事もまたパソコンという仮想空間における「絵・空事」にすぎないといえるのです。しかしパソコンによって無限に近い汎用性の画像データに変換されることにより、自己目的的な「表現行為=経験」の絵空事は否応なしに他目的的な「表現経験=行為」の場へと引きずり出されてしまうのです。その意味においても絵空事は「絵実物的な何か」へと変換されているというわけです。
 ところで、パソコン本来の機能を考えてみると、絵空事を絵実物に変換させるということとは逆に、世界を満たすアナログ情報をデジタル化することの方がそもそもの役割であることに気づくのです。CGのみならず、ワープロにしてもいわゆるビジネスソフトにしてもゲームにしても、ごく普通にパソコンを使用するということがデジタルの世界に足を踏み込むことであり、情報管理という領域を覗けば正にアナログ情報のデジタル管理であることに気づくことになります。

 とすれば、あらためてその出生をたどるまでもなくアナログ情報によってこそ育まれたのが絵実物であるという言い方が理解されると思います。

 そこで改めて「アナログ情報=絵実物」をデジタルへ変換するシステムとしてのパソコンをみてみると、「<0-1>神」による世界の再構築を目指すものであるということが出来るのです。この神の下ではすべてのものがデジタル信号という同じ身分で支配され管理されてしまうのです。したがってパソコンという世界でこの神の洗礼を受けたものは、「<0-1>神」による世界制覇という野望実現のため<0-1>で流れる血をたぎらせた宣教師となってアナログ界に旅立つ定めといえるのです。たとえ異次元からの侵入者である宣教師ももはや見かけはアナログ人と同じなのだから、アナログ界はデジタル宣教師を識別できずデジタル化による世界制覇の陰謀を阻止し得ないことになります。アナログ人はこの宣教師に洗脳されてアナログの血を抜き取られ、次々とデジタルの血に入れ替えられてしまうのです。ここでは見かけは絵実物にすぎないがその素性は「絵・空事」である侵入者が大手を振って闊歩することになり、パソコンはデジタルによる世界の再構築に成功するというわけです。

 パソコンは絵実物で構成されるアナログ界をことごとく「デジタルデータ=絵空事」に変換しつつ、同時にこの「デジタルデータ=絵空事」を「絵実物もどき」へと変換して送り返すのです。
 実はここに何行者がパソコンへとのめり込む根拠があるわけで、何行者としては絵実物世界とは所詮「絵実物もどき」の誤解の上に成立している幻想にすぎないとうそぶいているのですから、このパソコンの存在こそが何的世界の具現化として吹聴したいところなのです。
 いずれにせよ、ひとたびパソコンによって絵実物へと変身を遂げた絵空事は、このままプリントアウトされようと、グラフィックソフトでさらに変身に磨きをかけようとも十全たる絵実物性を獲得してはばからないのです。
 さて、話はちょっと横道へそれてしまったけれど、絵空事の画像データベースを作るのならば、画像はスケッチブック6Fとしての絵空事に限りなく近いものが要求されるのです。しかしこの作業は私の個人的な要求によるもので、何ら金銭的な見返りを期待できるものではないため、自ずと投資できる金額にも限界があります。正直に言えば日常的には限界ばかりが覆い被さっているのです、ハハハ。
 そんなわけで、多少の不満はあるとしても、何はともあれパソコンの画像データになった絵空事は、入力したデジタルカメラの性能によって画質は決定されてしまいます。そんな状況をふまえて、ここで新たに表現され生み出される絵実物は与えられた画像によってこその発想であり、創造ということになります。したがって、与えられた画像の粒子が粗ければ、それはそういうものとして引き受けて表現せざるをえないということになります。
 すると、画像の荒さはそれなりにそういうマチエールとして了解できるものへと変貌します。それは表現者自身のひいき目だといえないこともないが、そこは芸術的表現世界の常として、表現者がそういうものですと提示してしまえばそれですむ問題になってしまうのです。
 当然ながら、見る人がそれじゃダメだと言うならばそれまでのことですが、そこでそれを引っ込めてしまうかそのままでいいと判断するかは表現者次第。とはいうもののいやだというヒトはどうせ見向きもしないのですから、自ずと答えは出てしまう… ハハハ。

 

 


d )「<何>の錬金術」はさらに「<何>の循環法」へ
 ~戯れへの誘い



   
 「循環」するということ、それは表現活動がスケッチブックの6Fというサイズに「絵空事」として毎日続けられていくということ。そしてこの「反省的循環」こそが日々のしがらみを戯れへと誘うのです。
 ここでは循環する「絵空事」の1987年の一部と、1997年の一部を取り出して合成し、1999年に新たなる「絵実物」として循環させようという画集「<何>の循環法」の企みについて話を進めたいと思います。


 とりあえず1987年の仕事を「引用の戯れ」と位置づけるのです。87年といえば世間はまだバブルの真っ只中で、これに則していえば「引用の戯れ」とは増殖する表現意欲のバブルということになるでしょうか…

 ある日、スケッチブック6Fは雑誌から写真を引用する、翌日、引用された残りの写真を引用する。さらに後日、引用が繰り返されて「正体不明になった写真」あるいは「雑誌のページそのもの」をも引用する。この営みは引用する表現意欲が反転して引用されていくことになり、引用が繰り返されるたびに表現意欲は自らの抜け殻を表現し続けることになります。
 つまり、引用は引用されなかったものを引用して反省的に循環することになり引用をとめどない戯れへと誘うのです。すると、表現意欲だけはよく分かったが、何をいいたいのか分からないといわれかねない事態となり、言えば言うほど言いたいことが言えないことと区別がつかなくなる。正に表現意欲のみのバブルというわけです。

 しかし、ここで腰を据えてよく見定めてみると、語り続ける表現意欲が語りたいものを隠そうとする企て、さらに、隠された何かあるいは抜け殻によって明らかにされる表現意欲の正体が透けて見えてくるのです。それはそもそも6Fが絵空事と呼ばれた「初めから隠されていた<何か>」が意味するものでありつつ暗示するものだということです。もはやここではその<何か>について語ることはしないが、あえて言い換えるならば、「饒舌なる戯言」が語りうるものについての考察ということになるのです。

 (と言ってみても、所詮は「引用」が「饒舌なる戯言」なのだから「引用しつづける」ことこそが考察の実践にほかならず、「引用」は戯れへと循環する、ハハハ)

 つぎの1997年を「切り捨ての戯れ」と位置づけます。すでに世間のバブルは崩壊し、巷には大不況の風が吹き荒れているのです。それをふまえていうならば「切り捨ての戯れ」で崩壊する表現意欲のバブルというところか…

 ある日、6Fは色紙を切り抜いて使う、翌日、切り抜かれた色紙を再び切り抜く、さらに後日、残りの色紙を切り抜く。ここでいう「切り抜く」とは「切り捨てる」ということと背中合わせ。言い換えるならば「切り捨てなければ切り抜けない」作業によって6Fは語り続けられていくのです。したがって「切り抜き」を循環させれば切り捨てた表現意欲が切り捨てられて、 表現意欲は切り捨てる欲望に切り捨てられるというわけです。
 つまり、ここでも「切り捨て」は切り抜かれたものを切り捨てて反省的に循環することになり戯れへと誘う。すると今度は「切り捨てなければ切り抜けない何か」を語るまでもなく、「切り捨てる」ことがすでにその何かを語っていると言われ、その何かが何であるかを語らないつもりでいても、語らないことがすべてを語っている事態となります。もはや過剰な表現意欲は崩壊し何も語らないことになってしまうのです。
 と、ここまで「語らないこと」を語ってしまえば何がいいたいのか明らかになってきます。つまり沈黙を続けることが意思表示になってしまう矛盾、あるいは、黙秘することが事件の当事者であることを物語ってしまう矛盾のように、語られないことによって「語るべき何か」が明らかになる戯れを仕掛けるのです。それは、すでに表現意欲が崩壊した後に表現意欲だけでは < 何 ( 回答としての何か ) > も語れないと言わせて < 何 ( 問いかけとしての何か ) > しか語らない企みとして、「沈黙ゆえの饒舌」が語らないで済ませたものの考察ということになるのです。

 (と黙っていても、所詮は「切り捨て」が「沈黙ゆえの饒舌」なのだから「切り捨てつづける」ことこそが考察の実践にほかならず、「切り捨て」の戯れへと循環する、ハハハ)

 

 さらに1999年は「共存=混在の戯れ」と位置づけます。世間ではバブルの清算期に入ったものの未だ大不況を抜け出せる気配はない。様々の欲望が錯綜して共存、混在する現在こそ、87年と97年の合成を試みるには絶好の時かもしれないと思われるのです。何はともあれ、ここで10年の戯れの隔たりは共存し混在する。10年の隔たりがすでに戯れにすぎなくて、隔たるものが共存しあるいは混在するものが隔たりを抱えているのです。

 といいつつ何行者たるオジサンが自戒を込めて語るならば、まことに不本意ながら、世を忍ぶ仮の姿で労災適用の怪我をして、約3ヶ月ほどのモラトリアム生活を送ることとなったのです。これは思わず世を忍びすぎて仕事に追われ、Macによる絵空事の画像データ入力もままならないオジサンの断末魔の叫びが、幸か不幸か労災適用の有給休暇として実現したということに他ならないといえます。この降って湧いた僥倖は、しばしばナースに「いつも優雅でいいわね、好きな音楽を聴いて、好きなことをして…」といわれるものとして、かつての高原における15年間の隠遁生活を条件付きながら再現するものとなったのです、ハハハ。
 そんなモラトリアムの生活は天下無敵、不死身 ( を標榜する、ハハハ ) の何行者にはふさわしくないのですが、今もっとも何行者らしい生活を保証するものとして生きられて、勢い反省を循環させれば、ことごとくが語り散らかされたまま放置された表現意欲のバブルが摘出されて、これを清算すべく「共存=混在の戯れ」を語る場が用意されることとなったのです。

 

 では、99年の絵実物的手法とは…
 

「引用する欲望=引用される欲望」と「切り捨てる欲望=切り抜く欲望」」あるいは「切り捨てられる欲望=切り抜かれる欲望」が合成されて、表現意欲は相殺されて無力化したり、あるいは相乗効果によって増大する。この欲望の揺らぎを循環させて戯れへと誘うのです。
 何行者は「循環する戯れ」というまるでお役ご免の人工衛星のようなとめどない表現生活に埋没し、時を進めているのか退行しているのかも定かでない迷走の真っ只中で、ただひたすら循環することに精進していれば、いずれは宇宙の藻屑になり果てる人工衛星の定めが、思わず宇宙的生命の循環に目覚め、かろうじてこれでいいのだと「生命」そのものを了解することが出来るかもしれないと夢想しつつ、いつの間にかそれを確信することになるのです。そんな戯けた戯言の戯れが何行者の行者たる所以でありますが、すでに語ったはずの「饒舌なる戯言」を語り「沈黙ゆえの饒舌」に沈黙しつつ考察することがとりもなおさず生きつづけることであるように、絵空事のみならず絵実物においてもまた「循環する戯れ」を生きることが信条というわけなのです。

 ここで目指す「循環の戯れ」とは、かつてどこかで遭遇しているような何か、と同時に、これから遭遇するはずの何かであるような、そしてその遭遇がいまここに新たなる感動の時として拓かれていることを願いつつ、循環する何かに目覚めつつそんな何かを循環させる事件の現場に立ち会う事になります。

 はたして絵実物において何行者が循環させた戯れが、あなたに「何の循環」を喚起しうるのでしょうか… あなたにとっての<何>とは何か…

 

 「反省的循環」としての「何の循環法」とは、すでに述べたように「引用の戯れ」と「切り捨ての戯れ」という技法によって表現されつづけていくのです。

 そして「戯れ」こそが、何行者 koya noriyoshi の情況認識に基づく「現在の救済」であることは、すでに語ってきたところであります。

 ここでは手がきで始まった「絵空事」が次第にコラージュに移行し、さらに「引用する=引用される」ことから「切り抜く=切り捨てる」という徹底したコラージュの技法に至るその動機について語っておきたいと思います。
 すでに述べてきたことですが、「絵空事」とは、何行者を標榜する私が、不空芸術菩薩論という仏教的表現生活の修行として一日一画の懺悔録を吐き出しつづけるという発想で始められたものです。
 そもそも仏教者の修行生活というものは因縁解脱を目指して生きられるものであり、さらに成仏を願い究極においては涅槃にはいることこそが最大の目的として営まれるわけです。その第一歩として、三宝 ( 仏・法・僧 ) に「帰依」し、次に一切の諸仏諸尊、特にご本尊に「懺悔」してお力添えを頂き、さらに最勝無上の法縁を頂いて行法を成就するまで初志貫徹を誓うという「結縁」によって初めて成り立つものなのです。
 私の場合はここにいう懺悔の方法として「絵空事」を始めたわけです。仏教にいう懺悔とは、「はたして我はいずこより来たりしものか」などと気取ってみても、所詮は始まりの分からない ( 本不生といわれる ) 「私」が身・口・意という三つの原因によって貪り、傲り、怒り、愚痴るという厄を生じて苦労していると認識して、これを反省して苦労のない快適生活を目指し正しく生きようということになります。つまり懺悔とは猿でもできる反省のポーズではなく、「反省的生活」のことなのです。そして「反省の眼差し」は身・口・意という三つの原因によって生まれ変わり死に変わってきた正体不明の「私」にまで遡及し、貪ることのない、傲ることのない、怒ることのない、愚痴ることのない「私」の正当性を究極の目的に照らして反省的に獲得するのです。無論ここにいう「反省の眼差し」とは仏教者であるならば常に因縁解脱から成仏へと向けられていなければなりません。

 さて、何はともあれ私の場合は「反省的生活」が懺悔録としての「絵空事」によって生きられることになります。無我夢中で吐き出すものがあるうちはいいのですが、そのうちに表現者としての血が反省的立場にとどまることに満足できず芸術的にうずいたりする現場に遭遇することになりますが、そのたびに厳密なる反省者の立場に立ち返り、初めのうちは知らんぷりを決め込んだり他人事のような顔で自らの表現意欲をやり過ごしていても、いずれは反省の至らなさだけでは解決しない表現意欲の昂揚にたじろぐことになります。それは厳密なる反省者になる努力をすればするほど回避し得ぬ大問題になってしまうのです。
 たとえばブタサンの絵を描こうと思う。すると馬を描いたり、犬を描いたり、キリンサンを描いたり、コオロギを描いたりしたのではダメ。たとえ表現者のいうブタサンが様々な事情 ( たとえばイヌではないブタサンを語らなければならないためにあえてイヌのご登場を願うという場合も含めて ) によりたまたまイヌやロースハムにしか見えなくても、表現者の発想の段階ではブタサン以外のものはすべて切り捨てられていることになるのです。つまり「表現という営みは表現しようとすること以外は一切表現しなくていい」という約束によって成り立っているのです。これは具象としてのブタサンやキリンサンのみならず、抽象的な問題についても言えることで、言い換えるならばあらゆる「表現の宿命」でもあるのです。

 繰り返すならば「表現の宿命」である取捨選択の方法論とは、とりもなおさず「切り捨て」の方法論なのです。

 すると、未生以前の「私」にまで反省の眼差しを送ろうという懺悔録は、日常的に見過ごしてしまったり無意識に重ねられてきた悪因悪業を一つ一つ「拾い上げ」「汲み上げて」、これを反省的に克服していこうという営みであるのだから、「表現の宿命」である「切り捨て」の方法とは相容れないものであることが理解されるのです。

 つまり「絵空事」が絵を描くという営みである限り、厳密なる反省を心がけるたびに昂揚する表現意欲を解放する場が得られなくなるというわけで、いずれは懺悔録として挫折するのは必定ということになります。「絵なんぞ描いとったんじゃ救われないぞ」という大問題なのです。
 ここで、すでに言いたいことはお見通しというところかもしれませんが、あえて言わせていただくならば、「どうせ切り捨てざるを得ない絵空事ならば、切り捨てごめんで生き延びる道を見つけだせばいい」というわけなのです。
 そうです、ここで、徹底して「切り捨てる=切り抜く」あるいは「切り捨てられる=切り抜かれる」ことこそが方法論といえるコラージュへと辿り着くのです。もはや、「絵空事」はこの方法論なくしては生き延びられないところまで追い詰められていたということなのです、ハハハ。
 と、脳天気に笑ってしのいでみれば、一時の冷や汗もとうに乾き、「絵なんぞ描いとったんじゃ救われないぞ」という大問題には様々の解決法があることに気づくのです。この件は、いずれ再び「絵空事」が手がきに戻ることがあるかもしれないということでご了解いただき、その解決方法についてはまたいつか、乞うご期待。(1999年)

 

 その後、<何>行者は新たなる解決法を模索することもないままに、激動する世界の地滑り的混迷に抗うこともなくひたすら自転車操業といいうる「絵空事」の循環するコラージュに踏み留まっています。

 

 

 


 e ) 絵空事の過剰なる流動性と渦巻き
   ~あるいは岡本太郎の火焔型縄文式土器


 

 6Fによる絵空事が岡本太郎に芸術的正当性を仮託するならば、やはり岡本太郎の芸術的発見とされる火焔型縄文式土器についても触れておかなければなりません。岡本太郎が縄文土器に芸術性を発見し、そのエネルギー観を民族の根源的なパワーだと賞賛していたことが、またしても私の表現活動にただならぬ影を落としているのです。
 それは私の6Fによる表現活動が1990年代の後半から次第に過剰な色彩による流動性と渦巻きが顕著になっていくという事態について語ることになります。
 太郎さんが感動し自己の再発見であった火焔土器に見られる無垢な表現欲求が、太郎さんのいう民族的な特性であるのかどうかは、私には判断する材料がありません。ましてそれが美術史の中にどれほど顕著に表れている形状の類似性であるのか、また同時に他の地域に対して、あるいは同時代性においてどれほどの特異性を持っているのかも分かりません。
 そもそも表現者が自己の無垢な表現欲求を民族的な特性に整合性を求めて歴史を遡り、自分に都合の良いものを拾い上げそれで表現者としての正当性を確保しようということはそれほど珍しいことではありません。ですから、ここでは火焔土器に見る原初的な表現欲求について正当性を主張するのか、あるいはまたは形状的な類似性をその根拠にするのか、方法は様々あるといえます。無論その両取りもあります。
 そうしてみると私の場合、露骨に両取りも可能という状況といえますが、だからといって私自身が縄文的人格の再来などと思うつもりもないし、まして民族的特性の権化などというつもりもないのです。

 ところで、人類がとりあえずここまで生き延びてきたという事実を踏まえ表現者が自己の存在理由を問うときに、持続される命の流動性は表現欲求の源泉であり、停滞なき流動もないとすれば、停滞という混沌もまた表見欲求の源泉といえるのです。言い換えるならば表現欲求において流動性と停滞性に無縁の表現者はいないということになります。ここでいう停滞とは、流動するものが渦巻きになって飲み込まれ停滞するという状況であり、自然現象に見られる渦巻きを想定しています。しかし渦巻きには、中心に回転するものがあるときにその一点からの拡散という相反する流動性を内包している場合もあります。
 いずれにしても表現者が自己の表現欲求を時間性と地域性の中に位置づけようとするならば、結局のところ誰が語っても無垢な生命観の躍動性に行き着くのではないでしょうか。あとは地域の特性について自身がもっとも納得できる根拠を人々に対してどれだけ説得力を持って語ることが出来るかということになります。
 ですから、岡本太郎が火焔土器に自己の根源的な表現欲求を発見したとしても、第三者が岡本太郎の作品から火焔土器の内包する表現欲求をどれほど関知できるか、そして太郎作品と火焔土器との関係に如何なる流動的類似性を発見しうるのかという問いは別のものとして残ります。 
 つまり、6Fにおける極彩色の流動紋と渦巻きは太郎さんの言説に正当性を確保しつつも、太郎的芸術論に拘束されてしまうわけでもありません。まして太郎作品と6Fとの間にどれほどの形状的類似性があるかは不明です。

 私見を言わせて頂くならば、岡本太郎の作品には岡本太郎という人物の肉感がないということを常に感じていました。テレビの中では唯一無二の芸術的トリックスターというキャラクターは存在するのですが、作品の中に四苦八苦、喜怒哀楽にまみれて日常生活を疾走する太郎という人物の質感がないのです。煩雑な日常的現象に対する事実確認の観念的傾向がもたらすディテールの曖昧な抽象性、言い換えるならいたって稚拙で短絡的な記号性で語られる陳腐な社会批判はあるのですが、それもキャラクターのポーズにすぎないのです。「これはなんだ」と言ってみても、「それでどうした」と問い返してみればどれほどのことでもないという失速感、そんなものに巻き込まれたくないという警戒心、それが 6Fと太郎作品との距離感です。
 でも私のいう「何論」からすれば、万国博における「太陽の塔」に至る岡本太郎の大風呂敷は、「それは何だ」と問いかける人々に「何でもねえよ」と切り返せる「天才芸術家岡本太郎」というメディア的キャラクターによって完結しているのです。どういうことかといえば、メディア的キャラクターという巨大な存在理由は岡本太郎の仕事をすべて正当化できる力を持っていますが、それゆえ個々の作品に向きあってみたら「なんてことは無い」というマイナスのインパクトが大きくなるのです。ですから、岡本太郎とはメディア的存在理由を不可欠の条件とする表現者なのです。
 テレビの中で特異のキャラクターを天下無敵で演じられる育ちの良さ、ええかっこしいの無邪気な面白さ、後にも先にもこれくらい楽しいテレビ的人物は存在しないのではないかと思えるほどの独創性、それが太郎作品においては、その表層の部分がそのままスライドし、能書きだけの脳天気な深みのないぺらぺらな作品で終わってしまう。太郎的キャラクターのどれを一つ取っただけでも十分に説得力のある作品になり得る素材であるにもかかわらず、そのすべてをつぎ込んで消化不良になってしまうという自家中毒のようなものです。この特異なキャラクターを持つ岡本太郎こそは、私のいう「絵空事」を象徴する表現者であり、私の敬愛する師であるといえるのです。
 しかし、太郎さんの存在は奇跡のようなものですが、我々無名の表現者は人々にその存在を理解して貰うためには作品が伝えうる自己の質感を無視することは出来ません。作品を通しておぼろげにでも表現者の顔が見えてこなければ「何でもない」ところへと語るに落ちられないのです。
 この意味において太郎さんを反面教師として、限られたわずかな資質をこれでもかこれでもかと使い込み、無様な表現者の生き様を露呈する、それが私の方法論といえるかも知れません。かつて私が高校生のときに太郎さんとの邂逅を果たしていましたが、そのときに「君の作品は火焔土器だ」と認定されていたのなら、それを踏まえて私の芸術論を語らなければならなかったかもしれません。しかしその当時、それから30年後の私が太郎さんに火焔土器が見えると言わしめるほどの芸術的資質が輝いていたわけでもありません。今となっては、私は太郎さんの火焔土器には触ってやけどしないようにと離れて傍観するのみです。

 では絵空事は、太郎作品にはない流動性と渦巻きを掲げ、いかにして皆さんにその表現欲求の無垢な姿を提示しうると考えているのでしょうか。かなり人ごとのように問いかけてみましたが、そんなにたいそうなものではありません。
 私の場合、すでにそうであったように、表現し続けてきたものによって語ることになります。
 私自身、近年、「どうしてこのパターンになっちまうんだ」と思わずにいられないほどの嫌悪感に苛まれ、うんざりもしつつ、それでも留まるところのない流動性と渦巻きにとらわれて、自身もう勘弁して欲しいと思わずにいられないほどに、人迷惑で煩わしい存在であることを自覚しつつ、マンネリ、想像的発想の衰退という批判を真摯に受け止めて、それでも日常的に生きるってことはそんなに発見的日々の連続なんかじゃないと開き直りつつ、何はともあれ表現欲求を満足させてしまう後ろめたさをどのように語るかということです。
 1976年に始まった「絵空事」は、当初持続することのプレッシャーに戦々恐々としていましたが、それも40年近くも持続してみるともはや止まらないのです。止まらなくなって一安心ですが、そんな個人的な一安心をこれ見よがしに人々の目にさらして欲しくはないという健全な社会的価値観を尊重しつつ、6F の持続性をいかに正当化しうるかということになります。
 そんな思いが日々重くなっていったときに、この混沌とした混迷の停滞期に、「絵空事 movie 」を手がけたことが絵空事の時間的持続性の中に自己の再発見があったということです。一日一画のスライドショーによる絵空事の提示は、人々に対しても説明不要といいうるほどに時間性の体現を開示し得たと思います。

 6Fの中を流れる「気」、それが1990年代の後半から次第に淀み、停滞しがちになり、あるいはそのまま何かを巻き込みながら渦となって、さらに移動を始めます。まるで熱帯の太平洋上で生まれた低気圧が、台風へと成長し日本列島に近づいてくるようではありますが、人騒がせな台風といわざるを得ない表現者も混沌の真っ只中なのです。
 渦となって内向する「気」は色彩という欲望を纏い、過剰なまでの流動性により圧縮凝縮されて変容し、今度はまるで火焔を伴いながら自己変容する臓器のようになって、時には引っ張り出された大腸小腸のように、あるいはぶよぶよの脳みそのように、ところ構わず拡散を始めるのです。拡散を始めた「気」は、止めどない転移を繰り返し、自己増殖する悪性の腫瘍のようにありとあらゆる欲望と情念を取り込みながら、それがなんであるかと問うこともままならない極彩色として不安、焦燥、嫌悪、不快を露わにして再び流動を始めるのです。この流動が生起させる波動、鼓動、脈動に乗り、ここで何かを問いかける自己に覚醒すれば、過剰に増殖するものは過剰ゆえに融合し、光の三原色が過剰融合によって色彩を失い無垢な輝きに回帰する奇跡に立ち会うことになるのです。
 そもそもは「おまえが癌だ」と非難され続けてきたであろう屈辱と自責の念を抱えつつも、6Fというアナログがデジタル論でスライドショーへと昇華することにより、過剰なるものがそのまま成仏論の法悦を体得するところへと誘うことが出来るというトリックを用意することが出来るのです。
 それは「絵空事 movie 」が奇しくも光だけの画面になって終了することがあるように、遭遇してみればあっけらかんとした物足りなさということになりますが、そこでまた何かが始まることを暗示し、何かは循環していくことになります。
 そして、デジタル成仏論による自己増殖は、愉悦の過剰であり、止めどなく清楚で快活な平安を保証するのです。
 これが無名を逆手に取った表現者の、「絵空事」という摩訶不思議が内包する表現欲求の可能性によって人々に開示することの出来る存在理由というわけです。

 

 

 

こや のりよし

 

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