2 ) 不空芸術菩薩論の地平 〜絵空事とは

a ) 絵空事と表現



 一日一画として続けている表現行為は、6Fサイズのスケッチブックを使用し、当初はクーピーペンシルと呼ばれるクレヨンで描き、コラージュを経て近年はラシャ紙、色画用紙による重ね貼りを繰り返しています。私は持続するこの「表現行為=表現経験」を「絵空事」と呼んでいますが、6Fとして蓄積されていく作品群も「絵空事」と呼びます。
 ではなぜ「絵空事」と名付けたか。

 「絵空事」/ 絵に描いた餅などという言葉を引くまでもなく、絵は戯れにすぎない。とはいうものの人々はそんなはかない絵空事という戯れに真善美聖愛などという諸価値を担わせてきた。 翻って考えてみれば世間の巷にある諸価値というものも、それは人々の都合により戯れに何かに担わされたとりあえずの役柄でしかないのかもしれない。そこで絵空事の軽やかさを引き受けて諸価値の実相を見定めることができるのなら、何ものかを価値で鎧わなければいられない人々の営為を明らかにし、あるいは欲望でがんじがらめになった価値の抜き差しならない苦悩を解消する道を拓くことができるかもしれないと思われてくる。
 「絵実物」/ これは <絵空事> の対概念として造語したもので、たとえば存在論としていえば、「絵を空事」ととらえる絵空事の関係主義に対して、「絵を実物」と見なす実体主義ということになる。
 つまり「絵を空事」ととらえる存在論的な関係主義を私の表現生活の存在理由として標榜するということになります。

 ここで「絵空事」の話を進める前に、まず初めに「表現行為」「表現経験」「表現体験」についてちょっと触れておきたいと思います。これが私のいう「絵空事」における一番重要なキーワードということになります。

 そこで「行為と経験」について端的に申し上げるなら、たとえばあなたが何かに触るという「行為」、それに伴う何らかの感覚的「経験」 ( 堅い、柔らかい、熱い、冷たいとか ) があるということ。さらに突然何かがあなたに当るという「経験」、そこで何だと身構える「行為」をする。あるいはもっと身近なことでいえば、自分の身体を手で触る行為は、暖かいとか冷たいとかの経験を享受し、さらに触られたところには自身の手の感触が経験として残ります。あるいはまた、知らないうちに蚊に刺され痒いと感じる経験が掻くという行為を誘発すれば、痒みが癒やされて快感という経験を獲得します。そんな一瞬にして一連の体験を「行為=経験」「経験=行為」の形として分析的に見ていくことになります。
 そして、ここではそもそもの大命題である「自分とは何か」「いかに生きるべきか」について何らかの回答を求めていくときに、その主役である「私」の「表現」という営みに照準を合わせて「行為と経験」の連鎖の関係を足がかりにして考察していこうという段取りです。

 ではまず「表現」について「広辞苑 第五版」を見ると
『 ひょう‐げん【表現】 ヘウ‥
心的状態・過程または性格・志向・意味など総じて精神的・主体的なものを、外面的・感性的形象として表すこと。また、この客観的・感性的形象そのもの、すなわち表情・身振り・動作・言語・手跡・作品など。表出。「作者の意図がよく―されている」「―力」 』となっています。

 この「表現」の主体である「私」の立ち位置を明確にするために「私」を「表現者」と言い換え、その「表現の現場性」さらには「表現の現場報告性」という状況において「行為」「経験」「体験」について考察していくことになります。この件について詳しくは、次の章「不空芸術菩薩論 の展開 / 宗教性」において「私の存在構造」を足がかりにして、「私」が「表現者」であるという自覚はいかにして生まれるのかという問題として考察していくことになりますが、ここではすでに無意識、無自覚のまま日常的営為としてある精神的で主体的な表出を積極的に自身の問題として捉え返す「対自化」という方法論を視野に入れつつ、「表現」に関わる「行為」「経験」「体験」の概略について見ておきたいと思います。

 では「行為」について「国語辞典」によれば
 『こうい(かうゐ)【行為】
① 個人がある意志目的を持って意識的にするおこない。行動。ふるまい。しわざ。所為。
② 〘哲〙 自由な意志に基づいて選択され,実行された身体的動作で道徳的評価の対象となるもの。
③ 法律上の効果を発生させる原因となる,人の自発的な意思活動。』

 「Wikipedia」によれば
 『行為(こうい)とは、人が意志(意思)に基づいてする動作。
[哲学上の行為]
日常用語はともかくとして、哲学では人の行為と行動とは厳しく区別しなければならない。たとえば同一の走行という行動を、逃走と追跡というふたつの行為に区別するのはその行動者の自覚的な内的意図による(今道友信)。』

 次に「広辞苑 第五版」も見ておきましょう。
 『こう‐い【行為】 カウヰ
(1)おこない。しわざ。広義では、人間のあらゆる動作を指し、狭義では、明らかな目的観念または動機を有し、思慮・選択・決心を経て意識的に行われる意志的動作で、善悪の判断の対象となるもの。
(2)権利の得喪・変更など法律上の効果発生の原因となる意思活動。作為と不作為とに分けられる。 』

 ここでこれらの辞書を踏まえて「行為」の概略をいえば、個人が意思目的を持ってする所為であり、行動者の自覚的な内的意思によりその意味が問われることになります。したがって「表現行為」とは表現者が主体的に自覚的な能動的意思を持って行う表現活動ということになります。

 次に「経験」について「国語辞典」をみれば
 『けいけん【経験】
 (名)スル
① 直接触れたり,見たり,実際にやってみたりすること。また,そのようにして得た知識や技術。「はじめての―」「この痛さは―しなければわからない」「―を積む」「―が浅い」
② 実験。「蒸気の力を―する器具を製せしが」〈西国立志編正直〉
③ 〘哲〙理念思考や想像記憶によってではなく,感覚や知覚によって直接に与えられ体験されるものごと。』

「Wikipedia」によれば
 『経験(けいけん、英: experience)とは、
• 実際に見たり、聞いたり、行ったりすること。
• 外的現実や内的現実との直接的な接触。
• 「認識」としてはまだ組織化されていない、事実の直接的な把握。
• 何事かに直接(触れたり)ぶつかることで、何らかの意味でその人の「自己」(人間性)を豊かにすること。
• 何事かに直接触れたりぶつかることで、そこから技能や知識を得ること。
• (哲学用語)感覚や知覚によって直接的に与えられるもの。感覚・知覚から始まって、道徳的行為や知的活動までを含む体験のうち、自覚されたもの。
[概要]
経験とは、実際に見たり、聞いたり、行ったりすることである。
[観念・認識との関係]
そもそも観念や認識がどのように得られるのか、ということについて長い議論の歴史がある。プラトンは、想起(アナムネーシス)なのだ、とした。 生得観念がある、とする説もあった。 17~18世紀の経験論では、「認識の源泉はもっぱら経験だ」「一切の観念は感覚的経験から生じる」などと考え、生得観念を否定した(が、現代では、それほど単純なものではない、とされている。)。
[知識との関係]
(本などで文字・文章を読んでも得ることができず)経験によってのみ得られる知識を経験知と言う。 人間が現実世界で生きて行くためには経験知が非常に重要なので、部屋に籠って本ばかり読んでいるのではなく、幼いうちから外の世界に出て、さまざまな経験をする(経験を積む)ことが望ましいとされている。
経験によって見出した法則を「経験則」と言う。
[神経科学]
20世紀の神経科学的に、「経験」に関連することを言えば、感覚器が刺激されると、感覚器の発する信号が神経を伝わり脊髄、あるいは小脳・大脳などに伝わり様々な反応が起きることは理解されるようになっている。』

 さらに「広辞苑 第五版」によれば
 『けい‐けん【経験】(experience)
 (1)人間が外界との相互作用の過程を意識化し自分のものとすること。人間のあらゆる個人的・社会的実践を含むが、人間が外界を変革するとともに自己自身を変化させる活動が基本的なもの。
 (ア)外的あるいは内的な現実との直接的接触。
 (イ)認識として未だ組織化されていない、事実の直接的把握。
 (ウ)何事かに直接ぶつかる場合、それが何らかの意味で自己を豊かにするという意味を含むこと。「得がたい―」
 (エ)何事かに直接にぶつかり、そこから技能・知識を得ること。「―を積む」
 (2)〔哲〕感覚・知覚から始まって、道徳的行為や知的活動までを含む体験の自覚されたもの。』

 これらを踏まえて「経験」について考えてみると、外的現実や内的現実に対する感覚と知覚による直接的な接触であり、事実の直接的な把握として体験されるものということになります。言い換えるならば「体験の自覚」ということですが、この「体験の自覚」という営みがここでは「経験」の重要な要素になります。
 したがってここで取り上げる「表現経験」とは、日常的な感覚と知覚による「経験」とは異なり、すでに表現者によって主体的に発動された「表現行為」に対する「経験」ということになります。つまり「表現行為」を直接的に把握する体験ということです。その意味においては、「表現行為」の「事件性」に対して「表現経験」は「事件報告性」としての位置づけになります。言い換えるならば、「事件の現場」で当事者として「表現行為」していることは、「事件の現場報告」をする報告者としての「表現経験」によってはじめて自身の行為であることを自覚することができるということになります。
 それでは次に「日常的な経験」の場面において、自身の「主体的」「能動的」な「表現行為」を前提としないで表出する「表現経験」について考えてみます。それは普段の日常的生活において誰もが遭遇する「表現経験」を視野に入れて語ることになります。
 まず思い浮かぶのは「 ( 芸術を) 鑑賞」「 ( 趣味の) 観賞」という言葉ではないでしょうか。ここで体験者は何を「鑑賞・観賞」するにしてもそのおおよその目的は、生活を豊かなものにするために「至福の感動」を体感したいということのように思われます。人々の前に作品として提示された誰かの「表現行為」、あるいは観劇、演奏会など特定の表現者の「表現行為」の現場に遭遇することによって得られる「表現経験」ということになります。
 ここでは「鑑賞者・観賞者」は、自らが「主体的な表現者」であるという自覚を持つこともなく「鑑賞・観賞」というお膳立てによって、「表現現場の協働参画者」としてすでに「表現者」の仲間入りを果たしていることになります。
 そもそもは「鑑賞者」「観賞者」にも「表現者」という自覚が不可欠といえますが、誰かの「表現行為」を鑑賞・観賞するという自覚が前提にされていれば、それだけで「表現経験」は成立するのです。
 さらにより日常的な現場で遭遇する様々な事象に思わず「はっ」とする感動があるように、日々の生活は驚きに満ちた発見の現場でもあります。この驚きが「表現経験」として認定されるためには、その体験者が「驚きの感動」に言葉を与え、自身に対してまたは誰かに対してそれを語り起こさなければなりません。感動を与えてくれた対象のすばらしさを、あるいは感動している自身の喜びを「表現」しなければなりません。これが出来たときに「表現経験」を自覚しつつ同時に「表現行為者」として立ち上がった自身に目覚めるのです。
 ところで、ここでは「言葉」から語り起こしましたが、「言語以前」に「驚きの感動」による対自化、あるいは「驚きによる自己発見」というピュアな「表現経験」があれば、言葉を必要としない感覚、知覚のみで対他的に表現できるピュアな「表現行為」も視野に入れておかなければなりません。

 つまり日常性に埋没し続ける「経験」の真っ只中で、ささやかなる感動の現場において「表現の意図」があるかどうかということ、それが「ありきたりの日常性」と「表現世界」との分かれ目になります。

 ここでは「表現者」「無自覚な表現者」あるいは「鑑賞者・観賞者」の「受動的」な感覚と知覚によって直接的に把握される「表現経験」を「事件性」として措定し、さらに「事件報告」という意味を持った「表現行為」を成立させたことになります。「表現経験者」が「表現行為者」へと、さらにより日常的な現場においても「日常的経験者」が「表現行為者」へと変身する現場を垣間見たことになります。

 さらに「体験」について「国語辞典」を見ると 
 『たいけん【体験】
(名)スル
① 実際に自分の身をもって経験すること。また,その経験。「―談」「苦い―」「―してみないとわからない」
② 〘哲〙〔ドイツ Erlebnis 〕個々人のうちで直接に感得される経験。知性的な一般化を経ていない点で経験よりも人格的個性的な意味をもつ。』

 というわけで、「体験」とは、直接的な経験であるが知性的な一般化を経ていないため当事者の人格的個性的な意味を持つものとされます。
 これを踏まえて「絵空事」では、「表現の現場」において「表現行為」と「表現経験」を個別的に意味づけすることなく「表現性」を包括的に語ろうとするときに、表現者の個性、特質を際立たせるために「表現体験」という言い方をすることがあります。

 ここで繰り返しになりますが、私の表現生活における反省的実践論として言いうることは、「表現行為は経験としてしか語れず、表現経験は行為としてしか体得しえぬ」という体験的知見であると言うことです。
 自身の表現生活を反省的実践として言葉に置き換えようと思ったときに探り当てたキーワードが「表現行為」「表現経験」であったということです。
 これを確認しつつもう少し説明的に語るならば、「表現行為はその経験的認識によって行為性を自覚し、表現経験はその行為的体験によって経験性を認識することになる」ということになります。

 

 


b ) 「自己存立の基本原理を<愛>と見定める」

 

 不空芸術菩薩論においては「私」の存在構造を解き明かすためにも「問いつづける自分とは何か」について語らなければならないのです。
 ここで遅まきながら「私」「自分」「自己」「自身」についてのとりあえずの定義をしておきたいと思います。ここで私が使用する「即自」という概念は、廣松 渉が対自の下層に無意識としてある主体性について語っていたものを、そのまま借用しています。

 「私」
 ヒトが声として発するものが言葉として他者と共有されていくときには、すでに「私」が措定されていたと考えます。人類の出生を見るときに、ヒトが群れとして生存したことからすれば言葉以前に「即自」としての「私といえる存在」の位置は確保され、「対自」として他者に対して存在していたことになります。発展的に「私」は「対他的な対自」として「公」に対峙することになります。

 「自分」
 「私」が言語によって社会の中に位置づけられたときに、「即自としての私」が何かを対象として「対他」を意識したときに「自分」が措定されると考えます。端的にいえば「即自としての私」が「対自化」されて「自分」になるのですが、そもそもはごく日常的で自然な営みといえます。

 「自己」
 あらゆる場面においてすでに存在する「対自」が、「対他的」「反照的」「反省的」に「対自化」されることによって成立する主体。それは「自分」の客体化によって「同一性」「統一性」を語りうる立場といえます。

 「自身」
 「対他的対自化」された主体。たとえば表現活動における「自分自身」とは、本人が無意識、無自覚であっても「表現行為=経験」「表現経験=行為」を循環する反省力として内包する立場。

 では、不空芸術菩薩論において「自分」「私」とは一体何なのでしょうか。

 たとえば「私はAである」とします。さらに「私はBであるかも知れない」
 と同時に「私はCでもあり得るのだ」ということになるかも知れません。
 「私」とは様々な重層的関係の中で様々な人々と様々な関係を同時に持ち様々な役柄を担わされてもいるということです。
 これを数学的に書けば 私=A=B=C ところが 私=A を 私=私 あるいは A=A と表記してしまうと、数学的には何の問題も無いのに現実のこととしては無理が生ずるのです。なぜなら「私」とはこの全宇宙における唯一無二の存在であるからです。いまここにいる「私」とは「自分といいうる私」ひとりだけだからです。少なくとも「私」という個体が複数なければイコールで結ぶことは出来ません。
 つまり「私」=「自分といいうる私」としかいいようのない「私」を書き換えるならば A=A' ということになります。これを肯定的に言い換えてみると「私とは私以外の何かを引き受けることによって私たりうる」ことになり、さらに否定的に言い換えてみるならば、「私とは私以外の何かによって私であるにすぎない」ということになります。

 とりあえずの「私」を A としてその数値を 10 としてみます。すると「自分といいうる私」A' の「自分」が 10 より小さい 9 ~1 であるときには、 9+1 、8+2、7+3、~によって 10 にしなければなりません。逆に A' の「自分」が 10 より大きい 11、 12、 13、~であるときには、 11–1、12–2、13–3、~としていかなければ 10 にはなりません。
 ここで 改めて A' の中を見たときに 9、8、7、~、そして 11、12、13、~、に当たる数値を「私といいうる先験的な主体」とすれば、加算、減算されていく 1、2、3、~、は「自分といいうる経験的な属性」ということができます。これを前出の肯定的言い方でいうと
 「私という先験的な主体は経験的な自分という属性を加算されることによって私たりうる」ことになり、否定的言い方でいうと
 「私という先験的な主体は経験的な自分という属性を減算されて私であるにすぎない」ことになります。

 これを表現行為の技法に当てはめて考えてみると、1 にすぎない先験的素材には 9 を足し、 2 ならば 8 を足し、 10である素材に自足していれば 0 を加算していく発想が「彫塑 (作られたものが塑像)」であり、表現者が終了を宣言するまでは到達地点は延長され加算は無限に繰り返されるのです。それに対して 10 である先験的素材に自足していれば 0 を引き、11 ならば 1 を引き、 19 ならば 9 を引き、そのまま納得できるまでを減算していく発想が「彫刻 (作られたものが彫像)」ということになります。
 発想、技法は違っても目的は「想像したものを形にする」ということで同じです。言い換えるならば加算の方法も減算の方法も、表現の目的を肯定的にいえば「私があるべき姿として想像した自分になる」ということになり、加算も減算も表現の目的を否定的にいえ「私が想像した自分にはなりたくない」ということになります。
 多分「私」という「自分の在り方」は常に「私」という輪郭がぼやけて膨張したり縮小し続けているものなのかもしれません。「私」の存在の重層性からすれば「先験的な主体」は過剰なものを抱えつつ同時に欠落感を払拭できない状況にあり、「経験的な属性」も何かを加算しつつ減算していく状況に追い込まれていくことになります。
 「私」という実体視された存在と「私の物語」といいうる情報、記憶がずれてほころびながら、同時に補完し合いながら持続していく「私」を、「同一性」によって論証しようとすれば様々な無理が生ずることになります。変わらないものとして確信するものが変わり続けるものによってしか捉えることが出来ないことを知り、変わり続ける「私」に変わらぬものを見つけ出そうとしてもその根拠がないことになってしまいます。
 でもわれわれは「私は私である」といいうる何かを語らないわけにはいかないのです。ではその方法とはどのようなものでしょうか。
 それはいたって常識的な方法論です。つまり、移動するもののの動きを捉えるためには定点観測が必要であり、自らが移動しながら自身の動きを正確に知るためには、自己の外にいくつかの定点を設定しなければならないということです。この定点を見つけ出せばよいのです。
 たぶんわれわれは、「何かによって私たりうる」のであり、「何かによってしか私たりえない」のですから、その定点としての何かを探し出せばよいということになります。ただしここで注意しなければならないのは、この定点もまた移動し続けているということです。つまりここにいう定点観測とは観測者との位置関係を測ることにすぎないのです。これが恒常不変のものなどないという世の定めなのです。
 ここであらためて「私は私である (自己同一性) 」と言いきる根拠、またはちょっと腰が引けて「私は何かである」と言える根拠、つまりは「自己存立の根拠」とは一体何なのでしょうか。
 そもそも自己存立とは自己同一性の確立によってなされるということが出来ますが、その逆に自己同一性の確立こそが自己存立を保証すると言うことも出来ると思います。それを踏まえ、ここでこの自己同一的情況を様々な形で保証するものを私は <愛> と定義することにしました。

  では、なんでここで <愛> が登場しなければならないのか、と考えてみます。つまり「自己同一性における愛」の問題です。
 まず初めに「愛」の基礎知識です。

 「愛」について「広辞苑」(第二版補訂版) をみてみましょう。
『 ①或るものにひきつけられ、それを慕い、あるいはいつくしみ、かわいがる気持。
②とくに男女間の相手を慕う気持。
③愛玩すること
④愛撫すること。
⑤キリスト教で、神が人類に幸福を与えること。他の人間を兄弟と思ってかわいがること。→アガペー。
⑥仏教では、師や目上を敬い、真理を尊ぶ感情は清らかな愛で、これを万人に及ぼすことが理想である。自己と自分の所有とにこだわるのがけがれた愛で、迷いの根本原因になる。
⑦愛蘭(アイルランド)の略。』

「Wikipedia」が引用する「広辞苑」では
『 • 親兄弟のいつくしみあう心。ひろく、人間や生物への思いやり。
• 男女間の愛情。恋愛。
• 大切にすること。かわいがること。めでること。
• 〔キリスト教〕 神が、全ての人間をあまねく限りなく いつくしんでいること。アガペー。
• 〔仏教〕 渇愛、愛着(あいじゃく)、愛欲。「十二因縁」の説明では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的に見られる。』とあります。

「Wikipedia」には、
『 [日本語の「愛」の意味の変遷]として
日本の古語においては、「かなし」という音に「愛」の文字を当て、「愛(かな)し」とも書き、相手をいとおしい、かわいい、と思う気持ち、守りたい思いを抱くさま、を意味した。
近代に入り、西洋での語義、すなわち英語の「love」やフランス語の「amour」などの語義が導入された。その際に、「1. キリスト教の愛の概念、2.ギリシア的な愛の概念、3. ロマン主義小説の恋愛至上主義での愛の概念」などの異なる概念が同時に流れ込み、現在の多用な用法が作られてきた。
[古代ギリシャ・キリスト教での愛]として
新約聖書においては「神は愛です」(ヨハネの手紙一 4:8, 16)に代表されるように、神の本質が愛であり、特にイエス・キリストを通して愛が示されている。「アガペー」及び「フィーリア」は聖書に用いられているが、「エロス」は用いられていない。
イエスは言った「されど我ら汝らに告ぐ、汝らの敵を愛し、汝らを迫害する人のために祈れ」(マタイ 5:44)と。ここに自分を中傷し敵対する相手であれ、神の子供として、また、罪を贖われた者として、隣人とみなして赦し合うべきであるという、人類愛の宣言がある。
パウロは対神徳として信仰、希望、愛を掲げたが、「そのうち最も大いなるは愛なり」(1コリント 13:13)と言い、「山を移すほどの大いなる信仰ありとも、愛なくば数うるに足らず」(同13:2)、「愛を追い求めよ」(同14:1)としるし、すべての徳とキリスト教における愛の優位性を確立した。また彼は、神の永続的な無償の愛を恩寵charis(ロマ 1:5、ほか)と呼び、これはのちにgratiaとラテン語訳されて、キリスト教神学の原理的概念として重んぜられたのである。
西欧の伝統、キリスト教の信仰においては、愛は非常に大きなテーマである。キリスト教においては、「神は愛である」としばしば表現される。また、「無条件の愛」もたびたび言及されている。』とあります。

 「愛」における記述の一般常識はこの辺りと見定めて話を進めていきます。
 神を万物の存在の根拠にするという一神教の世界観なら、先験的に存在し、なおかつ絶対的な他者である神とそれに対峙する人とを結ぶ絆とは、つまりあらゆる存在が実体的な関係において他者を自らの中に取り入れるには、共通の精神世界を想定しなければならないといえます。
 日常的な人と人との心模様、個人と社会との軋轢、つまり喜び、悲しみ、充足、欠落、希望、挫折、など様々な人間的営為を個人の問題として納得、拒否するにしても、あるいは社会の問題として糾弾し、了解するにしても、そんな事態の真っ只中で生きざるを得ない自己を見つめる、対自化する営みは自己を映し出す厳粛にして包容力にあふれた鏡としての他者を必要とします。そんな鏡として必然的に要請されたものとしての神は、ありとあらゆるすべてのものを祝福し許容する優しさと同時に正反対の絶望的な拒絶をかざして人々の頭上に屹立することになります。そしてこの神と人を結ぶ回路が <愛> というわけです。
 ここで精神世界は想念の実体化を前提にする霊的世界観を形成することになり、自己と他者を関係づける濃密なエッセンス、あるいはその世界に大気のように充満するものとしての「愛」が用意されることになります。
 この実体的な世界観においては、自己同一性を保証するものとしての「愛」が不可欠の要素ということになります。これは日本の本来的な多神教的世界観とは異質のものといえますが、明治以降の西欧化による常識・文化・制度の変遷において西欧的「愛」という概念が曖昧なまま言葉の居場所を確保するようになったという事実は認めざるを得ません。言い換えるならば日本語の「愛」という言葉は、未だ正体不明な部分を内包しつつ当たり前のような顔付きで、人々の心の中に君臨していると考えます。
 つまり、我々が日常的に存在論、認識論を語る地平とは、無意識のうちに生まれ生き続けている世俗的な実体的世界観を前提にしているといえますが、ここで自己の発見を語るには、すでに大気のようにありながら我々を自己として立ち止まらせるときに姿を現す「愛」こそを、その実体観を保証するものとしての身分を認めつつ、「自己と他者」を語るための大前提にしなければならないというわけです。
 そこでいまここで自己同一性を語る認識論においてあらためて「愛」を自己存立の基本原理として措定したいというわけです。 
 ここで「愛による自己実現」という問題が提起されたことになります。
 「愛による自己実現」を目指す様々な営みとは、実現したい愛、あるいは獲得できるかも知れない愛の姿を目的、目標という先付けの担保として提示し切磋琢磨することでもあるし、または「私は何かである私から逃れたい」という「愛による拘束、自縛」からの逃避を企てることもあるでしょうが、この場合「愛による拘束」を抵当として差し押さえるならば、債務者に成り下がった者には地獄の責め苦がつきまとい、債権者は <愛> を貪る特権を手に入れることが出来るという算段なのです。
 つまりは私が私であるためのことごとくの営為に何らかの原理を見定めようとするならば、ここではとりあえずそれを<愛> と名付けるということになります。そして前出の観測定点としての「何か」とは、「私」がこの <愛> によって関わる特定の「何か」「誰か」ということになります。言い換えるならば「自己同一性」を語るための観測定点を発見する手段が <愛> というわけです。
 ここで <愛> について私の古い「絵空事」のデータを検索してみましたら、1988.8.23 に次のような記述がありました。

 『 <愛>を拠所としてあるいは<愛>に固執することによって、あらゆるものの平安と平和を願うとしても、それはわれわれに言わせるならば、そもそも誰かが何かを拠所とするという営みこそが<愛>であり、さらに何かに固執する欲望こそが<愛>であるのだから、いかに美辞麗句に飾られた人類愛も郷土愛も夫婦愛も親子の愛もさらに恋愛までも、それらがことごとく<愛>であるかぎりは、より暴力的な上位の<愛>に支配され凌辱される哀しみを克服することが出来ない。言い換えるならば美しき母子愛などは、美しき人類滅亡の動機そのものに他ならないということなのだ。
 たぶんこの<愛>の矛盾とは、人間の人間たらんとする<自己愛>という欲望を悍しきものと決め付けていながら<人間的欲望への反省>のみを<愛>と言い立てるご都合主義の矛盾そのものの姿といえる。
 しかし、多くのヒトビトの血と涙の闘争によって勝ち取りつつ失うものでしかない<平和>を、永劫不滅の楽園などと誤認することがなければ、より個人的なささやかなる<愛>こそは、抽象的な権力や象徴にすぎない欲望を肉化させる<愛の亡霊>に対抗しうる<反省力>にはなりうるのだ。
 無論そんなささやかる<愛>もそれが<力>である以上は、それを快く思わぬ第三者にとっては<単なる暴力>に過ぎないということを忘れてはならない。
 つまり<愛>は必ずより<暴力的な愛>によって滅ぼされるが、そんな<愛の焦土>は再び滅ぼされるために<ささやかなる愛>によって再建されてしまうということなのだ。だから多くの楽観主義者たちが言うように<平和への願い>が人類の英知だとしても、無言にして善良なるヒトビトの反省以前的な<善意>なるものは、所詮人間の人間たる本能である<愛>に根差していると見定めなければならないのだから、そんな人間の本能こそがそもそも<人類滅亡の動機>他ならないというわけなのだ。
 もはやわれわれは<克服しえぬ本能を超えるものこそが英知である>などという惚けた理想主義を捨て、より多くのヒトビトがそうであるように<なまじの英知などでは克服しえぬがゆえに本能である地平>に踏み止どまりつつ、しかし<全知全能の愛>などという陳腐なスローガンだけは早々に下ろし、今更<本能>だとか<英知>にこだわることもなく、ただ謙虚に<愛によって語ることもない地平>を志向してもよいのではないだろうか。』

 この一文を引用しました企みとは、< 愛によって語ることもない地平> を志向するために < 愛 > についての考察を深めたいということになります。
 何行者のそもそもの出自は仏教になりますが、この仏教にいう自己存立の根本的な情況認識に「一切皆苦」というのがあります。つまりこの立場に立つならば「根本原理としての<愛>」こそが「一切皆苦」と見なされる自己存立の原因・動機ということになります。したがってここでもし苦悩克服を志すならばこの<愛>と何らかの折り合いをつけなければならないのです。
 ではいかなる方法によってその折り合いを見つけ出すのか。

 

 


c ) <私たりうる私> <私たりえぬ私> <とりあえずの私> 


 

 では自己同一性を <愛> でひもとくために <私たりうる私> の諸相として見ていきたいと思います。
 まず <愛> の諸相とは、 <私たりうる私> <私たりえぬ私> <とりあえずの私> という三つのパターンをいいます。

 ここで本題に入る前に、序説としてやはり古い「絵空事」データの 1988.11.12 を引用したいと思います。
 『 そもそも自己同一性への欲求を<愛>と見定めるならば、ありとあらゆる人間的営為は<愛の諸相>としてこそ説明がつくと言うものなのだ。
 それは常に「満たされない何か」を抱えてしか<私>でありつづけることのできぬ<私>が、たとえば理想によって妄想によって、いやいやありとあらゆる理念、想念、希望、あるいは絶望においてさえ、そんな「何か」を取り込むことによってしか<私たりうる私>でありつづけることができないという事実によって納得がいくというものなのだ。
 言い換えるならば<私>とは何を取り込んでも<私たりえぬ私>へと横滑りしてしまう体質なのだ。つまり<私の諸相>は「<私たりえぬ私>たりうる私」あるいは「私たりうる<私たりえぬ私>」こそが常態といえるわけで、<私>への反省を敬遠したり回避していないかぎり<私たりうる私>あるいは自己同一性に安住しつづけるということは困難なことなのだ。したがって、なし崩しに<私たりえぬ私>へと横滑りしてしまう<私>を<私たりうる私>として思い込む自己欺瞞に目をつぶらない勇気があるならば、われわれは常に<とりあえずの私>にすぎない<私>を快適に生きることができるのだ。
 ところが、そんな自己欺瞞を見過ごすこともできないけれど、かといってそれにまつわる不安不信をそのまま放置しておくことも出来ぬヒトビトが、それでも自己同一性を最善とする妄想を捨て切れないときには、しばしばこの「何かを取り込む欲求」を「信ずる」という営みにすり替えて、より<確固たる私>という幻想のために<愛の増幅、増強>を繰り返して排他的な「愛による武装」を続けることになる。その意味からすれば、「信ずる」という営為は<愛の暴力的諸相>としてこそ説明がつくといえるのだ。』
 このあたりが < 私 > における < 愛の諸相 > を語り起こそうとする地平ということになります。

 はじめに<私たりうる私>においては、正に自己同一性を充足するものとしての<愛>が取り上げられます。
 ここでは自己同一的に「ある」「ありつづける」ものをいうことになりますが、無自覚・無知・無頓着に「ある」ものも含まれることになります。さらに「ありたい」と希求する自己同一性の先付けまでも含みます。この自己同一性を根拠とする様々な意識とそこから派生する意志・感情までを<愛>と名付ける (「私たりうる私」の変容として「私たりうる<私たりえぬ私>」という入れ子式の構造も成立します) のです。
 つまり、<私>はその何かを「愛する(=愛されている)」情況に「ある」ことによって<私たりうる>ことになります。ここでいう「愛の情況」とは、即自的な「愛する行為」と同時に成立する対自的な「愛されている経験」の状態にあり、さらに対他的な「愛するための行動」と同時に成立する対自的な「愛されている体験」の状態にあるという営みをいいます。

 つぎに <私たりえぬ私> においては、自己同一性から不足・欠落するものとしての <愛> を取り上げます。
 上記と同じ構制で語るならば、ここでは自己同一的では「ない」「ないまま」のものをいい、同様に無自覚・無知・無頓着に「ない」ものも含まれます。さらに現状回避としてこのままでは「いたくない」「ありたくない」ためにここから「なくなりたい」「 逃れたい 」と希求する自己同一性を担保 にした <愛> の浪費 、それはむしろ不成就性の愛を抵当に取られたといわざるをえない「 自己逃避・自己懐疑」なども含まれます (「私たりえぬ私」の変容としての「 <私たりうる私> たりえぬ私」を含む) 。
 つまり <私> はその何かを「愛する ( = に愛される ) 」情況では「ない」ので <私たりえない> のです。ここにいう「愛の情況」とは即自的な「愛する行為」が対自的な「愛される経験」を成立させず、対他的な「愛するための行動」が対自的な「愛されている体験」として返されてこないという不成就的な愛の営みをいいます。
 ところで <愛> とは自己存立の根拠であるため自ずと「自己肯定の原理」であると考えなければなりません。したがって <私たりえぬ私> を肯定的に言い換えるならば、自己不同一的 ( 自己疎外・自己不信・自己喪失など ) に「ある」「ありつづける」ものと、「ありたい」ものが含まれます。
 したがって <私> はその何かを「愛せない ( 愛されない ) 」情況に「ある」から <私たりえない> のです。ここにいう「愛の情況」とは対他的に「愛せない行為」が対自的な「愛されない経験」を招き、対自的= 対他的な「愛せないための行動」が「愛されないための体験」という必然的結末を迎える営みをいいます。 ( ここでは「私たりうる私」の変容としての「 <私たりえぬ私> たりうる私」を含む ) 。

 さらに <とりあえずの私> においては、自己同一性と自己不同一性のどちらに対しても判断中止した <愛> が取り上げられます。
 <愛> の自己肯定性をふまえていうならば、自己同一的でありつつ同時に自己不同一的に「ある/ない」「ありつづける/ないまま」「ありたい/ありたくない」という自己矛盾の真っ只中に「ある」ものをいうことになります。
 (「とりあえずの <私たりうる私> 」=「とりあえずの <私たりえぬ私> 」)。
 つまりここでは、 <私> はその愛が如何なるものであるかを見定める ( その何かによって見定められる ) 情況によって <私たりうる> のです。ここにいう「愛の情況」とは、何事も確信に至るほどの確固たるものがあるわけではないが、<とりあえず> 対自的に「愛を見定める行為」がかろうじて対他的に「愛によって見定められる経験」であるにすぎず、対他的な「愛を見定めるための行動」もまたかろうじて対自的に「愛よって見定められるための体験」であるかもしれないと推測される程度の営みをいいます。
 そもそも <愛> とは「信ずる心」の動機ですが、「信ずる心」そのものを <愛> ということもできるのです。したがって <愛> に対する判断中止である「見定める」ことは、「信ずる」以前の「不信」「非信」に踏みとどまることといえます。
 では、「見定めること ( 行為/経験・行動/体験 ) 」とはいかなるものでしょうか。
 ここでもわれわれの前に立ちふさがるのは、「肯定原理としての <愛> 」であり「すでに生まれ生きつづけている」という絶対的な事実、すなわち「 <愛> の現実」なのです。したがって、われわれの「見定めること」における選択肢は限られています。この <愛> をいかにして引き受けるのかということにつきるのです。では「見定める」という反省的眼差しはいかにして生きられるのか。
 もはやわれわれに残された回答とは「この <愛> を消極的に引き受けて積極的に ( 対自として ) 解放 = ( 対他として ) 開放しつつ生きる」ことしかないということになります。
 つまりこれが因縁解脱へ向かう修行ということになります。と同時にこれこそが到達点としての因縁解脱的生き方そのものといえるのです。言い換えるならば、因縁解脱とは到達したら一件落着の境地としてあるわけではなく、日々その様に生き続けなければ解脱から脱落してしまう瀬戸際の境地であるはずなのです。なぜなら因縁解脱したからといって、未だ解脱者も生き続けている以上、「私」は新たなる因縁にもみくちゃにされて生きざるをえないのが人としての社会的存立構造だからというわけです。
 ここで一言、解脱者もまた因縁に取り込まれてしまうのならば、苦労して解脱することはないというのが一般的な常識人の考え方といえます。
 ところが仏教では、因縁生起とい考え方による「縁起の法」があり、( 大辞泉/「因縁」仏語。物事が生じる直接の力である因と、それを助ける間接の条件である縁。すべての物事はこの二つの働きによって起こると説く) 過去の原因が現在の結果であり現在を原因とするものが未来に結果をもたらすというわけで、過去からの苦悩を現在救済したのだから未来はさらに至福の時が待っているというわけです。言い換えるならば、過去から背負っている苦悩は放っておいてはひどくなるばかりですよということになります。
 事実、苦悩克服もまた苦悩でしかないという修行の自己矛盾は認めざるを得ないけれど、世俗的な苦痛を修行という「聖なる痛み」に転換しうることがそもそも救済でもあるといえるのです。そしてこの「聖なる痛み」に保証されてこそ「救済の法悦」を体得できるわけですが、だからと言って身体的な苦痛に拘泥していてはいつまでも「心身一如」の清浄観には到達できないはずなのです。

 

 


d ) ビニール・パッケージ論


 

 「絵空事」という概念を取り入れることにより、私が < 6F > という表現の現場をどのように考え、何を語ろうとしているのかを明らかにすることが出来ると思いました。それは懺悔録として闇雲に吐き出し続けてきた自己愛が、いつの間にか < 6F > という現場で重い鎧を脱ぎ捨て、軽快なフットワークで未知の何かに遭遇できるという期待を持ち始めた頃のことです。
 ここで私は < 6F > に一つの問題提起をしました。
 1983年2月5日「ガム・テープを貼った < 6F > 」、同2月6日「透明テープを貼った < 6F > 」、同2月7日「文字の上に貼った透明テープ」。
 ガム・テープを貼られた < 6F > では表現者の「不透明な企み」が明るみになり、それを見る人々はそこに「隠された何か」が捏造されていく事態に遭遇します。
 続いて、透明テープが貼られた < 6F > では、表現者の「不透明な企み」が企みの意図を喪失し、何のためにそんなことをしたのと言われる事態となり、透明テープはそれを貼ることのみが目的であったという自己目的的な一元的構造の純粋体験といいうるものに埋没しているのが明らかになります。
 さらに文字の上に透明テープを貼ることにより、透明テープの「被覆性」と「透明性」により、表現者の「不透明な企み」の一端は垣間見えるものの、その意図さえ再び隠しかねない何かの企みを感じさせるのです。言い換えるならば、透明テープを貼るという不節操で破廉恥な企みは、人々のさまざまな臆断を退けて「見ること(語ること)」の反照性によって表現行為と表現経験の関係を取り結ぶことになります。つまりわれわれはあらゆる事象に「透明テープを貼って < 見せる・語らせる > 」ことができれば、ヒトビトの欲望と手垢にまみれて放置された事件報告を、ことごとくピカピカの事件として蘇生させることができるという思惑です。
 ここでは、この「透明テープを貼って < 見る・語る > 」ことによって、「行為と経験」があるいは「事件と事件報告」がそれぞれに連係を持ちつつ、さらに相互に依存し補完し合う関係が可能になります。それは < 透明テープ > が < 不透明テープ > と同様に < 被覆性 > を持ちながら、さらに < 不透明テープ > にはない < 透視性 > を備えているという両義性によって保証されていることが分かります。
 つまり < 透明テープ > は、 < 不透明テープの不可視性 > によってこそ言いえた「 < 作品 > もどきの < 6F > 」(絵実物) という「作品性の偽造」を、「テープを貼る」ことのみで十分な < 被覆性 > にすり替えてヒトビトに提示し、さらに < 透明テープの可視 (透視) 性 > によって「 < 作品 > たりえぬ < 6F > 」(絵空事) という「虚偽の作品性」を自ら露呈し、 < 6F > とは所詮「戯れの記号」にすぎないことを明らかにして見せたということになります。
 したがって「 < 透視テープ > を貼る」ことの意義をより肯定的に言い換えるならば、それは < 作品=絵実物 > と思念されているものをとめどなく < テクスト=絵空事 > へと「掠め取る」作業であり、同時に < テクスト=絵空事 > をあたかも < 作品=絵実物 > であるかのように思念させる「偽造」作業でもあることになります。
 これを「 < テクスト=絵空事 > 論的作業」として整理すれば、「 < 透視テープ > を貼る」ことは「 < 作品=絵実物 > 性の掠奪と偽造」を担うといえるのです。
 
 繰り返しになりますが、私が仕掛けた問題は「テープを貼る」という表現行為が「何でテープを貼ったんだ」とそれを読み解き、解説しようとする表現経験を発動し、それによって「価値・意味の掠奪と偽造」の両義的事件が喚起され、さらにそれを事件報告へと発展させるという企みです。それはそもそも何の根拠もないと言いうる絵空事的な何かを人々の都合で何か価値や意味を捏造して絵実物的な何かにしてしまう「欲望 = 自己愛」を明らかにしたいという事になります。この立場を取ることにより、この先に「変身の理論」への足がかりが見えてきます。

 これを改めて「ビニールパッケージ」として見ていきたいと思います
 まず、日常生活においては無頓着になっている < 絵実物 > 的欲望を、スーパーマーケットでは見事なまでに「商品」という形にして見せてくれていることに気づきます。ここでは「 < 透明テープ > を貼る」ことが、正に < ビニール・パッケージ > という方法として < 商品価値 > に深くかかわっているのです。
 そもそもスーパーマーケットにおける < ビニール・パッケージ > は、核家族化した消費者には大きすぎたり多すぎたりする食品を分割細分化する手段であったり、調理する手間を省きたい消費者の欲求を満たしながら、同時に店員のいない売り場での衛生的な商品管理を円滑にしているわけで、この密閉方式による細分化・成型化が、 < 使用価値 > の分散による新たなる < 商品価値 > の < 偽造・捏造 > に他ならないとすれば、それは正に < 商品価値 > が < 使用価値 > という剰余を孕んで自己増殖する特異な体質を < 記号意味 > と < 記号表現 > との戯れとして見せてくれているといえます。
 しかも < ビニール・パッケージ > の < 透明性・可視性 > と < 被覆性・不可触性 > は、直に触れることの出来ない食品・商品から中の見えないビニ本に至るまで、それらは表面を見て撫で回すだけで決して中に踏み込むことの出来ない構造になっているために、消費者は < 使用価値 > の有効性を調べ確かめる手だてを掠奪されてしまうが、それゆえに < 商品 > は、自らの < 価値 > を包装し封印することによって自在に < 商品価値 > を増殖させることが出来るということになります。

 ここでわれわれは、この < ビニール・パッケージ > を仏教的救済論にまで援用して語ることが出来ると確信しました。
 救済論を仏教者として「生きつづける」ということは、日々の反省を < 懴悔 > へとスライドさせ己の中にヒトビトと通底する「苦悩の根拠」を < 煩悩 > として掘り起こすことで始まります。この < 懺悔 > という視座の心構えが < ビニール・パッケージ > 的構造の反省システムであることに気づきます。
 ここでは苦悩・苦痛を < 煩悩 > という非実体的なものにすり替えて仏教的意味を < 偽造 > し、さらにそれを < 仏の知慧 > あるいは < 般若空観 > という意味・価値の変換システムにより、所詮は非実体的な意味にすぎない < 煩悩 > を解脱・無力化して、そもそもの苦悩・苦痛の実体的な負荷を < 掠奪 > する作業であるということが出来ます。
 つまり、苦痛を < 懺悔 > で < ビニール・パッケージ > すれば痛みは残っても辛さは解消できるということになります。まして苦悩という精神的な負荷はその非実体的性格により、苦悩克服の効果はより大きなものを期待できます。
 すでに生まれ生きつづけていることが逃れがたき < 一切皆苦 > である「日常」を、 < 懺悔 > で < ビニール・パッケージ > しつづけることこそが仏道修行であり「救済の現在形」であるはずだということが出来ます。
 ここに、懺悔録としての < 6F > の存在理由を見ることになります。

 

 「ビニール・パッケージ論」についての詳細は「ことばの何景」( Web「コヤ美術館/ 4-1」 )をご覧ください。

 

 


e ) 絵空事と仏教


 

 「絵空事」の本題に入る前に、基礎知識に時間を取り過ぎてしまいました。早々に話を元に戻します。
 「絵空事」の存在論的側面から話を進めていきます。ではあらためて関係主義的な表現生活とは、どのような企みなのでしょうか。

 まずここで私が取り上げるのが仏教的修行生活者の発想ということになります。そもそも闇雲な自己主張のみでは「不成就性の欲求不満者」に埋没するばかりであった私は、社会の変換の前にまず自己変革を実現しなくては快適な未来はないという思いがありました。そんな時にたまたま仏教にいう因縁解脱という修行に遭遇しました。当初、因縁解脱というイメージは己の欲望を切り刻んでいく惨めな方法論かと思っていましたが、どうやら目的を限定した合理主義と考えれば誠に理想的な生活法であることに気づきました。
 仏教者に修行の究極的目標を語らせるならば、究竟における成仏のために因縁解脱の行に入るということになります。修行者すべてが究竟の成仏を願っているかどうかは別の問題として、敷かれたレールは解脱、成仏、涅槃へと向かっているはずです。

 では因縁解脱とはどのような問題を提起しているのでしょうか。
 因縁解脱という発想における究竟の目的に照らした自己の変革、変身とは、簡潔にその概要を申し上げるならば、まず始めに自己否定的な立場による自己無化への脱自的な超越的投企というものが要請されることになります ( しかし、この禅宗的な自己否定的発想も密教に至っては厳密なる自己認定がなされた段階で自己肯定的発想へと変換されることがあり得るのです ) 。
 自己投企のための日常的な生活を明確に否定し続ける方法論とは、単にその様に思っているということのみならず日常生活によって体現されていかなければなりません。その意味において「自己無化」とは、この現場へ提起した自らの問題の決着を「とりあえず不問に付し」投企した先の判断基準に身をゆだねることといえます。これで発想の転換による実践が可能になるのです。
 哲学的な概念としての「自己無化」がイメージ先行で正体不明になるまえに一言申し上げるならば、表現者が提起した問題に対する表現者の立場表明として語られることになります。「自己無化」という呪文を唱えたら無臭無色の透明人間に成れるというわけではありません。
 ここでは、自己否定的な日常生活を「表現行為 = 表現経験」ということで体得していくことになります。自己否定という問題は、 反省的に対自化される自己と同時に否定される自己を必要とするわけで、表現行為という自己主張がことごとく否定的対象としての自己を表現経験として露呈させることになり、表現行為という脱自的超越的行為は、当然ながら自己無化という否定性の表現経験として機能することになるのです。
 ここでは仏教者が自己の理念の実現のために表現手段を活用する事態となり、私にとってはこの段階において、初めて自分の絵画的表現行為を芸術的問題として対自化する明確なる視座を獲得し、同時に宗教的問題をも芸術的に考察しうる地平を拓くことができたのです。しかしそれは、芸術家が仏教をモチーフとして表現行為を続けるのではなく、あくまでも仏教的地平に踏み入ったという意味において立場の逆転が起こり、仏教者が芸術的手段を活用することに他ならず、それは、ここに提示される表現行為が仏教者としての共同主観的な問題である仏教的理念の他者実現、つまり他者救済の手段として意図されていくことにもなり、教団宗派に限定されることのない釈尊的世界観の実践そのものとして、芸術の伝達と享受の構造が自己救済と他者救済の同時成立の契機として位置づけられるわけです。

 ところで、愛の諸相として語られた 「私たりうる私」「私たりえぬ私」 「とりあえずの私」という問題構成を、存在論を踏まえた救済論としても見ておきたいと思います。
 仏教、特に密教においては、物事の成り立ちの根本というようなものを「本不生」という言葉で語っています。その意味するところは、様々詮索してみても結局のところ存在の根拠としては、実体として捉えられるようなものはないというところに辿り着きます。それゆえに現実世界の存立の根拠を語るためには、前出の関係性による「縁起の法」、さらにその救済論的展開のために「因縁生起」という考え方を取り入れているといえるといえます。
 そこでわれわれが日常的に様々な物事との関係で自分というものを了解、認識、確信しているような状態を「私たりうる私」と言い換えてみます。
 それに対して「私たりえぬ私」という状況とは、自己の存立の根拠に懐疑的な立場ですが、これを仏教的理想郷の知見 (勝義) からいうと「無記 (大辞泉/仏語 1.釈迦(しゃか)が、他の諸宗派からの形而上学的な質問に答えを与えなかったこと。2.三性(さんしょう)の一。善でも悪でもない中性的な性質。」という言葉で語ることができると思います。
 言い換えると「私たりえぬ私」であることを了解しつつ「私たりうる私」としての自己存立を確保している状況になります。
 したがって「因縁を解脱する」ということは世俗に対する勝義としての立場の反転が起こり入れ子式でいうと「 <私たりえぬ私> たりうる私 」と「私たりうる <私たりえぬ私> 」になります。逆に未だ世俗に留まる修行者の立場からすれば、目的未達成で「私たりえぬ私」でありつつも修行者として充足していれば「私たりうる私」というわけで、「 <私たりうる私> たりえぬ私」「私たりえぬ <私たりうる私> 」ということになります。因みに「私 <たりえぬ or たりうる> 私」における 「前者の私」は「属性としての私」、「後者の私」は「主体としての私」ということになり、どちらの私が「入れ子」になるかは「私」の置かれている状況とその目線の向きによって決定されることになります。
 ところでこの「無記」を密教でいうところの「清浄」という言葉に置き換えてみると、「清浄観」に目覚め体得することが「悟り」であると考えられます。「悟り」とは、「大辞泉」によれば「1) 物事の真の意味を知ること。理解。また、感づくこと。察知。2) 仏語。迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得すること。」とあるように迷妄を払い究極の真理を獲得することですから、生存に関わるあらゆる苦悩を仏教的知見による修行によって克服し到達する救済ということになります。
 たとえば医学的に克服しえぬ身体的苦悩もそれを仏教的知見によって了解し、かかる苦悩を全身全霊において引き受けることのできる自己の確立を救済とすることが「悟り」ということになります。
 つまり「悟り」を求める苦悩克服の修行者は目的に対して「私たりえぬ私」を不本意に生きつつ、「悟り」を体得した段階で目的的営為は止揚し「私たりうる私」へと埋没してしまいます。
 そうしますと、理想郷の勝義に対する世俗界においては、死活問題の真っ只中でいかようにも身の振り方のない苦悩者も、あるいは抱え込んだ苦痛は了解済みで苦悩とはそこそこ共存可能な生活者も、いずれも苦悩は克服されつつも現状において苦悩的条件に変化のない「私たりうる私」という自覚に埋没、安住していることになり、「無明 ( 「広辞苑 / 第五版」〔仏〕(梵語 avidy)真理に暗いこと。一切の迷妄・煩悩(ぼんのう)の根源。三惑の一。十二因縁の第一支。 」と変わらない状況でありながら「私たりえぬ私」として「悟り」を獲得していることになります。
 つまり、私という存在のみならず、何かがここに存在するということが、世の定めとして恒常不変でいつづけるとができずに「何かが何かに変わり続けようとする力」を回避できないまま横滑りし続けることであるとすれば、「悟り」であるはずの「私を解消した」境地としての「私たりえぬ私」への到達と、それを体得した解脱者としての「私たりうる私」状況は、生きて存在しているかぎり、どうしても「とりあえずの私」というところに留どまらざるをえないということになります。 
 言い換えるならば修行者の「悟り」という自覚体験は、「修行=行為者」が「解脱=経験者」としての反復 ( フィードバック) と、「修行=経験者」が「解脱=行為者」として反復されていくという重層的な反復状況により、「修行している私」と「解脱していく私」と「解脱した私」が同時に横滑りしながら共存していることになります。
 結局、「悟り」の境地のみならず、「本不生」とか「清浄観」というものは、すでに生まれ生き続けているという生存の事実を踏まえるならば「とりあえずの私」としてしか体得することが出来ないというわけです。
 そして密教が本来「無記」なるものを「清浄」という言葉に置き換えたところに、壮大なる宇宙観とその理論体系を単なる仏教哲学に終わらせることなく、神秘体験を取り込んだ宗教にしえた根拠があると考えるのです。
 つまり、「無記」とは所詮「言葉で語りえぬもの」ということになるはずなのですが、これを「清浄」という「言葉」に置き換えることによって、この「無記」は、「清浄」の対概念であるところの「不浄」という「言葉」を抱え込むことになります。つまり、「無記」は「不浄ではないもの」という意味を内包することになります。ところが、この「清浄」と「不浄」というもののかかわりこそが神聖さを標榜する神秘体験であり、あるいは霊的体験の領域であると考えるわけです。
 言い換えますと、単に「無記」であるだけでは宗教という概念をも超えてしまいますので、これを「清浄」という「言葉」に置き換えたところが、神秘体験をも包括しうる密教の宗教たる所以であるといえると思います。つまり、この神秘体験に踏み入ることによってこそ、霊的世界をも含めた救済論が拓かれることになります。ここに方法論としての加持祈祷が成立します。

 ここで余談になりますが、上記の身体があるために「とりあえずの解脱=成仏」でしかない条件とは逆に、身体が欠如しているために「とりあえずの解脱=成仏」でしかないという場合も考えられます。
 たとえば仏教に「追善供養」という言葉があります。それは死者には自ら成仏のために修行する身体が欠如して心身一如であるべき修行者の条件を満たすことができず、自力でより十全たる成仏に到達できないために、縁のある生存者が死者に成り代わって徳を積んで成仏を支えるという考え方です。ここでは死んでさえ「とりあえずの私」であることから逃れられないのです。
 さらに仏教的霊的世界観の救済論を前提にすれば、十全たる解脱者として身体性を解消することによって、精神性だけで成立する救済者としての霊魂を考えることができます。それは仏教的霊的救済論の証として、いつどこのどの時代においても人々の救済願望に見合った霊的想像力に感応して救済力を発動する仏として生き続けることになります。これは正に、涅槃寂静に入り二度と輪廻に回帰しない完全消滅の仏とは違い、「とりあえずの仏」としてはじめて人々の救済に手をさしのべることのできる位置を確保できたということができます。
 われわれは、勝義であれ世俗であれすでに生存しているものとしての条件を完全に解消しない限り、身体性に依存した存在であれ、精神性に依存して存在であれ、「とりあえず」という中途半端な状況で生き続けなければならないと言えるのです。

 と、かなり肩に力が入って <何>行者は仏教的出自にこだわっていますが、いまここで私が語り起こそうとしている問題は、宗教性を棚上げしても実践可能な救済の方法論が、ここにはあるということです。それは、仏教にいう幸福実現の未来世界が到来するとは思われず、ましてそれが全世界を包括しうる未来社会などとは到底思えないという状況を踏まえつつも、なおかつ仏教の可能性を語る段取りだからです。
 そもそも仏教には末法思想というものがあり、すでに釈尊の救済力の及ばない時代に入っているということも出来ますが、現在の混迷する世界にはたして人類に未来はあるのかと問いかけてみれば、我々のささやかなる智慧を拠り所とする限り安穏、平穏な和合の世界が拓かれているとは思えません。
 かつて人類には、釈尊、キリスト、ムハンマドをはじめ、数限りない偉人、聖人、救済者があまた綺羅星のごとく出現し、人々の苦悩に手取り足取りのご尽力を頂いたにもかかわらず、我々は人類存亡の危機に直面しているのです。この人類の体たらくを思えば、未来に如何なる救世主が降臨しようとも結果は推して知るべしです。つまり、神頼み、他人ませではもはや人類に安穏な未来はないといわざるを得ません。
 もしも我々が平穏の希望として、あるいは救済の光明として未来について何事かを語りそれを実現しうる可能性があるとすれば、それは個々人の止めどない日常的な営為のなかで、ささやかなる反省力に基づき「自己解放=開放」の実践によってかかるひとびとが協働していくしかないと思われます。
 ここで我々が提示しうるささやかすぎるほどの解決策など、どれほどの力にもなり得ないと思いますが、他に思い当たる方法はありません。
 万が一、この宇宙の異次元に無数に存在するであろう生命体が、この地球に到達しうる能力によって降臨することがあれば、彼らにとって地球征服などたいした問題とも思われません。でもいま地球に降臨できる能力があれば、彼らが我々に行使しうる有効な侵略とは、人類が自らの能力で地球の未来を拓けるように、われわれの脳みそに直接働きかけ異次元にまでも目の開かれた未来人へと人類の改造をすることが得策と思われます。多分それが宇宙全体を統括する叡智によっても許容される均衡と和合の了解点であろうと想像されるからです。でもこれが我々にとっての直接の事件であれば宇宙人による洗脳に他なりません。ただ我々の遺伝子に手を加えられ世代を超えて受け継がれる洗脳ならばもはや我々に抵抗の術はないのです。我々はめでたく宇宙の未来に貢献できる人類になるのです。
 とはいうものの、それは所詮おとぎ話です。我々はもはや誰の助けを期待することもなく、この暗黒の宇宙で絶望の未来を見定めて、それでも切ないほどの情熱を燃やしながらささやかすぎるほどの一歩を踏み出すのです。
 それはあなたも私もまるで地球救済のために立ち上がったヒーローのように、埋没する日常の中で孤独な戦いに挑むのです。
 これが「不空芸術菩薩論」として私が語り起こそうとする地平ということになります。

 


 

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