1 ) 絵空事の動機 


a) なぜ絵を描き続けるのか


 

 誰に頼まれたわけでもなく1976年(昭和51年) 以来40年に及び一日一画を描き続けている動機とは一体何なのでしょうか。それは絵を描かずにはいられない欲求があるということ。この欲求があればいかなる条件であれ、いかなる方法であっても、表現行為が成立するのです。
 ではこの欲求とはどこから生まれてきて、どこへ向かっていくのでしょうか。と、有り体に問いをたてつつも、私自身はこの欲求には取り立てて動機というものを詮索する必要は無いと思います。なぜならここでいう欲求とは、闇雲な衝動という自身が自覚することのない正体不明の欲求であっても何ら不都合はないからです。そんな衝動に遭遇すれば、誰もが自己を主張する表現者の地平に躍り出ているのです。後は思う存分に爆発するだけのことです。
 そんな表現者の地平に立つことの出来る欲求に巡り会えるものは幸せだという傍観者的立場に安住する人々のご意見もあるかと思いますが、それはすべての人々に平等に与えられた条件なのです。取り立てて誰かにのみ与えられた特権というわけではないのです。
 誰もが今さら口にすることのないいたって日常的な営為に、いかなる反省 、というよりは対自化といった方が適切か、つまりは自己認識、自覚の杭を、とりとめのない茫漠とした心、あるいはその反対に千々に乱れて錯乱した心に、激情をもって打ち込むことができるかというその姿勢にかかっているのです。要は「俺たちゃ、このままでいいのだろうか」とでもいうような反省力の喚起です。
 言い換えるならば、いま自身が抱える激情の根拠、正体が明らかならば「いいか、おまえたち、俺はおまえたちにこれだけは言っておくことがある」というその姿勢があなたを表現者として立たせるのです。
 そしてあなたが立ち上がったその地平がいかなる物語によって語られようとしているかによって、あなたは芸術家であったり、政治家であったり、宗教者であったり、実業家であったり、革命家であったり、犯罪者であったりするのです。もっとも人々に何と呼ばれようと本人が気にしなければそれだけのことです。

 さて、私の話に戻ります。私の場合この表現の欲求とは何であったのか。端的に申し上げるならば、 青年期の鬱屈した欲求不満の中で「俺が、俺が」に固執しつつ挙げ句の果てに「何で俺だけが」と闇雲な自我の泥沼でもがきながら、かろうじて「それじゃ俺はどうしたいのか」と <私> を家族、世間に対して相対化することができたときに、自ずと語らなければならない問題を手に入れたということです。気がつけばそれが「自分とは何か」「いかに生きるべきか」という倫理学的な大命題に遭遇することだったというかなり大げさな話になるのです。
 もう少し現実に即して言うならば、この時期の鬱々とした苦悩の中で自分を発見し苦悩克服の方法論を模索しようとしても、あまりの無知と無能無学の現前で、自身を語る言葉すらないことに愕然としたのです。その時に言葉のない私は無意識のうちに絵を描いていたのです。
 まさに絵筆は短刀になりキャンバスに突き立てられていたのです。その時「お絵かき」がマインドコントロールとして平常心を垣間見せてくれたのです。絵を描き進むことにより心がほぐれ、言葉を拾い集めることが出来たといえます。
 「俺って何なんだ」「一体俺はいま何をすればいいんだ」
 何はともあれ私にとって唯一の幸運は、闇雲に握った凶器が絵筆であったと言うことです。 
 ところで、未だに絵を描き続ける欲求が私の中からフツフツとして湧き上がってくるとすれば、それはこの狂気こそがその正体だといえるかも知れません。つまり私は未だ危ないやつなのです。それとも幸か不幸かその狂気も積年の脳天気な生活の中でもはや他のものに変化してしまっているといえるかもしれない。でも、そもそも絵を描き始めたときの目的を顧みれば「絵を描かなくていい自分になれれば、俺は真人間になれたということだ」といっていたのですから、いま確信を持っていえることはまだまだ真人間にはなっていないということでしょう。とはいうものの「真人間」とやらの定義は保留にしたままで。
 そんなわけで真人間たりえぬ表現者は、芸術家を標榜する必要も無く、ただ生活苦をまとい寝る時間も惜しんで懺悔録と称する一日一画に没頭してきましたが、そんな私にも芸術家としての血脈を辿ることができる出来事がありました。それは1964年の高校生の頃に岡本太郎さんとの邂逅があったということ、その時に太郎さんが与えてくれた課題に、ほとんど無意識のうちに回答することで生き続けてきてしまったということです。後に表現者として自立して以来38年を超える表現生活の中で、いつのまにか太郎さんの言葉を思い返してみれば私の生活がその回答としての姿を持つことになったということです。
 太郎さんの課題とは、
 第一に「誰かの真似をしてはいけない〜無垢な子供のようであれ」と「 無作為に表現し続けること」。
 第二に「君はもっともっと描け」と「闇雲な爆発状態を持続せよ」と言い、
 第三に「画材にこだわることはない〜描くものなんか何でもいい」いうわけで「技術技巧の超越」の三つでありました。

 この部分を Web/コヤ美術館/絵空事以前/岡本太郎との邂逅 から引用しておきます。

 昭和39年 (1964年) 11月。私は不本意なまま正体不明の自責の念に呪われた高校3年、すでに家業を継ぐべき状況で営業兼販売員としての生活は確保するものの、将来に確たるビジョンがあるわけではなく、鬱屈した家庭環境の抑圧された自意識という真っ赤な欲望に翻弄されていた。
 それ故にこの時期は、悶々として書き殴る絵画を生きざるをえないことが、己のおぞましき欲望と苦悩の所産であることを知っていたのだから、そんな作品は己の惨めな心を人前にさらけ出すことに他ならないというわけで、人目をはばかり隠し続けるものになっていた。
 にもかかわらず私の心の痛みに無頓着で脳天気な父親は、自分が呪われた作品とも知らないで、その作品のいくつかが知人を介して岡本太郎に紹介されることを喜んでいた。私にしてみれば、表現者としての動機は棚上げにされて作品の出来不出来を評価されてなんになるのだという程度の乗り気のない出会い。
 さて、我々が南青山のアトリエに到着したときは、予想外の交通事情もあり予定の時間をかなり遅れてしまっていた。太郎先生は昼食の時間になっていたが、知人の取りなしでわざわざ時間を割いて頂くことになった。独創的なアトリエですき焼きの香りが漂う中、横目に以前どこかの展覧会で遭遇している岡本太郎の前屈みの蝋人形に取り付かれそうになりながら、庭では「座ることを拒否する椅子」にありきたりの命名でガーコと呼ばれるカラスが鎖に繋がれていて、それでも何か野性的な威厳を持って立ちこちらを警戒しているなかで、持参した大小数点の絵を並べ太郎先生のお目通しと相成った。
 そこで私の安易な岡本太郎への思惑は、その芸術への真摯な情熱の前で挫折した。何と太郎先生は一瞬にしてテレビに出ているときと同じ超越的表現者へと変貌し、正に爆発せんばかりに芸術的気力を全身から顔面へと凝縮し狂気を秘めた眼差しで私の卑屈な心の一枚一枚に「ウウッム、ウウッム」と唸りながら対峙した。
 「おっちゃん、それはやり過ぎと違いまっか」と身を引いた私をよそに、一通りの謁見が終わった後で、一枚の大きなクレパス画を指さして、「これが一番いい。これはどこも、誰の真似もしていない。これは君の絵だ」、さらに「絵は真似をしちゃダメだ。だから、無垢な子供の絵が一番いい」とこれはすでにどこかのテレビで太郎先生から聞いたことのある名台詞。正に「君はガキだからいい」というご託宣を頂いたわけだけど、「だからといって俺の苦悩が救済されるわけじゃない」と知り尽くしている私は「それでどうする、それでどうする」と自分に問いかけるしかなかったのだ。
 ところで、ここにいう太郎先生の最初の一撃は如何なる意味を持つのか。私自身、無頓着ではあったけれど、実は表現行為が芸術へと踏み出す最初の関門がここにあるといえる。つまりそれが「芸術におけるオリジナリティ」。極論するならばオリジナリティ無くして芸術が語れるのかという問題。つまりは「この仕事は俺にしかできないはずだ」という自負心、あるいは「俺の言い方で言わずにいられない」必然的な切迫感、さらに不器用にも「自分でやるしかない」「俺はこのやりかたでしかできない」といいつつそのやり方を貫けるという闇雲な情熱、そんなものを無意識の表現者であるときにすでに持っているかどうかということ。これを太郎先生は評価の第一義に置いていた。
 しかも太郎先生の持論によれば、このオリジナリティとは如何なる作為を労することも無く、無垢な子供のように根拠を問うまでも無い表現欲求に、従順に無作為に突き動かされて表現することよって獲得できるという段取りなのだ。まさに小賢しさの無い天然のガキでなければならない。とはいえ、はたしてそんな無垢のガキは存在するのか。事実、オリジナリティの発芽を評価された私はガキの頃から目先の効いた小賢しいませたガキではあったのだ。ハハハ。
 ま、無駄口は置いといて、ここにいう「小賢しさの無い天然のガキ」とは、まずは表現技術の未熟さと、それ故に技術の制約を受けない自由度の広さが、稚拙な思い込みをそのまま直截な表現意欲に転化することができる状況として了解されてしまう程度のことかもしれない。
 さて、言葉のない青年に太郎先生は、「君はもっと描かなければいけない。もっともっと描きなさい。描けたら持って来なさい」と、当時の私には到底理解しえぬ訓戒を頂いたのだ。
 それはガキで居続けるために画家のように上手にならないための特別な絵画技術の習熟という摩訶不思議を意図していたのか、あるいはまだ芽が出たばかりのオリジナリティを確固たるものにするための絵画的人格形成の修行ということだったのか。そもそもマインドコントロールにすぎない苦悩者の青年は、画家になるための修行を希望しているわけではなかったのだから。
 それはさておき、太郎先生は画風の違う鉛筆画を指し「君がこちらの絵に進みたいと思うのなら、僕が教えるよりはもっといい先生がいるから紹介してもいいけれど、でも僕はこっちの方がいいと思うけどね」と先ほどのガキの絵を評価してくれた。言い換えるならば、この程度の私の能力でも絵描きとしての自立に可能性を見てくれていたということとして感謝するに留まるのだ。
 さらに、「絵を描くのに画材なんて何でもいいんだよ、君の家はスポーツ用品店なのだから、油絵の具を溶くのなら店にある亜麻仁油でいいんだ。スポーツオイルだって何だっていい。描くことが大切なんだ」と技術技巧の超越によるピュアな芸術的欲求の重要性を語り、ガキ的表現者の裏付けとなる太郎的芸術論の骨格を示された。
 「いま、僕はあまり描かなくなったけど、君はまだまだもっと描かなきゃダメだ。描けたらまた来なさい」と、もはや絵画表現に留まらない太郎的芸術論の実践のために不可欠の要因である持続的表現行為を示された。つまり正体不明の青年に闇雲な爆発的表現行為の持続が喚起され、正に弟子を取らない太郎先生に弟子入りを許されたようなものだったけれど、私は不幸にして絵描きになることに人生の展望が見えるほど脳天気な青年ではなかったのだ。
 現に、岡本太郎さんに紹介されることを喜んでいた父親が、そのくせ心の中で「おまえ、絵描きなんかで飯が食っていけるほど世間は甘くないぞ」と言っている声が聞こえていたような気がしていたのだから。
 さて、帰路についたとき紹介者の知人が「いや、僕は驚いたよ。あの口の悪い先生が、君のことを褒めていたからねえ。気に入らなければ口もきいてくれない先生が、また来なさいとまで言ってくれたんだから、いやあ、君はすごいよ」と手放しの絶賛ではあったけれど、その後、太郎先生のアトリエへ伺ったことはなかった。
 今更いうまでもないが、それからも私に絵を描く時間が保障された生活があったわけではなかったし、青年期特有の社会との軋轢が、鬱屈した肉親相克をさらに先鋭化させていき、兄弟が差し違えて浴びる返り血でかろうじて絵が描ける程度の時期を過ごしていたにすぎないのだから...
 
 繰り返しになるけれど、いま翻って考えてみるならば、約50年前、なまじな画家になるために美大に入り芸術的技能者としてトレーニングを受けた者とは無縁の、正に無垢な表現者として立ち上がったばかりの青年期に岡本太郎に受けた訓戒とは、第一に「人の真似をするな」というオリジナリティの確立、第二が「君はもっともっと描け」と無作為に爆発的に表現し続けることであり、第三は「描くものなんか何でもいい」という技術技巧の超越であったといえる。
 しかしその後、ザワザワとした心の居所が見つからない私は、表現者としては10数年もの停滞期に留まり、「心が疲れたら旅に出ます」を口癖の鬱屈した苦悩者のままそこそこの社会人として彷徨し続けることになる。
 ようやくこの苦悩者の閉塞状況に爆発的気力を温存する手立てを獲得させてくれたのは仏教であった。そしてキーワードは「因縁解脱」。この古色蒼然たる仏教的変身論に心の騒ぐものを感じ、その可能性に魅せられたのだ。当初、出家という手段を考えたが、ご縁を頂いたのが在家の仏教団体であり、どうしても譲れない大前提が絵を描くことを因縁解脱の方法論にしたいということであったために、宗教生活を出家という形で規定されては絵を描く時間の確保ができないと判断して出家は諦めた。
 そこで出家と同様に捨てられるものはすべて捨てる覚悟で「心の旅に出る」決断がかたまり、生活のスタイルは正に宗教的隠遁者と言った様相であるが、己を爆発させる道は他にはないと確信し、勝手ながら「何行者」などと名乗る仏教的表現者に目覚めて一人生きる道を踏み出すことになった。
 太郎先生の言う「爆発的表現者」などそう脳天気に生きられるものではないけれど、それを今更ながら無謀にも貫徹しようという端緒とは、「自分とは何か」「いかに生きるべきか」という青年期の熱病といえる青臭い哲学的大命題を引き受けてしまったということだった。
 そんな「爆発的表現者」を引き受けて1976年以来表現生活に入ってからすでに39年経過しているが、この「絵空事」ワールドの中でいう koya noriyoshi とは、いつまでも、そう死ぬまでは確実に続く「生きがたき表現者」としての試行錯誤なくしては、もはや生きられぬ生き方のことであるのだから、今更ながらに思うことは、岡本太郎との邂逅が、「いまの自分を生きる」を語る「言葉と意味」を暗示していたというわけなのだ。
 しかも、ここで取り上げられるキーワードは「何だ」。岡本太郎は否定的な「なんだ、これは!」で人々のひんしゅくを買うほどの驚きを仕掛けることで自らを奮い立たせ、爆発的な感動と表現力を喚起し続けてきたが、奇しくも私は、己に「自分とは何だ」と問いつづけ、問いつづける自己を引き受けることにより肯定的な「何だ?=何だ!」に踏み留まり「何って何!?」の持続的な表現力を獲得することになった。つまり言葉で岡本太郎を引き受ければ「なんでもねえょ、これは(私は) !」と人々と自身に対して開き直りうそぶくことにより、「何だ」を宙づりにして正体不明の爆発的な表現力の持続を企てることなる。
 思い起こせばテレビの画面に降臨された太郎先生は、「売れなくても構わない」「好かれなくても良い」「認められなくても良い」「成功しなくても良い」と、芸術の世俗的価値におもねることのない崇高な芸術至上主義を提唱しつつ、自らはマスコミにおける芸術的トリックスターを演じ続けたが、ここで私が太郎先生に用意できる回答は、未だ孤立無援、無名の表現者ということ、ハハハ。
 未だ誰にも似ていないガキのままで、技術技巧は職業画家を超越したままに幼稚園で使うクーピーペンシルだったり、コラージュが昂じて色紙に埋没したままで、何はともあれ闇雲な爆発状態で一日一画を続けている有様なのだから、たぶん岡本太郎的「爆発的表現者」の精神を遺伝子のように受け継いでいるだけの脳天気はひょっとすると私だけかもしれない。
 もはや長生きがめでたいとは言い切れぬこの時代に、後ろ指さされながらそれでも「爆発的表現者」を生きられるというのなら、それはそれでめでたしというところか。
 ショウエネ、ショウエネと呪文を唱えながら、エコエコと蛙のように鳴きながら、
 出来れば蛙程度の擬態で「なんでもねえょ」と姿をくらましながら、ハハハ。

 

2014

 


b ) 何行者 koya noriyoshi の出自

 

 とりあえず何行者の出自とは、1992年の夏、15年に及ぶ浅間高原での隠遁生活を切り上げ、町に出てあたかもフツーのオジサンと呼ばれる顔で何行者を生きることになった事情について語ることになります。

 この隠遁生活は、かつて北原ミレイが歌っていた「捨てるものがあるうちはいい」というメッセージだけを横取りし、捨てきれないものをたぐり寄せては、何故に捨てきれないかと思念して、気がつけばあまりに清浄なる高原の霊気に身を晒しているうちに、いつの間にかお荷物がなくなっているという戯けた生活ぶりでありました。そんな脳天気な生活は「風の<私>小説 / 冬の何景」(1985) に記したところであり、またある時期は、私の手記「反省の何景 / おんぶに・だっこに・かたぐるま」(1988.06) で語ったように、老父との最後の一年を高原の小さな山小屋で、斑惚けという心の闇と向きあう共生の旅として過ごしたことでもありました。つづいて、東京の実家で寝たきりだった母を弔うまでの日々を「 <私> という不徳」(1989.03) という懺悔録として記録するような生活でもありました。
 しかし総じていうならば、この隠遁生活は自ら摘出しうる最良の苦悩を表現者として語り起こすことができる至福の日々であったということになります。そんな事情を、知人との対話として反芻してみましょう。
 
 「このご時世は、あなたのような働き盛りの人が、そうやって隠遁生活なんていって、のんきに生活できるような世の中になったということでしょうかね」と言われても、隠遁生活者というものはいつの時代でもどんな世の中にでも存在するものですとは言わないで、

 「はい、皆さまのおかげです」

 「それでこんな生活は長いんですか……」

 「ええ、ここへ来て十五年になりますが……、でも父親の歳まで生きるつもりなら、私の脳天気な人生はようやく半分生きた程度ですから、まだまだです」

 「ほほう、するとあなたのおとう様という方も同じように生きられた方なんですか」

 「ま、脳天気と言ってみれば、そう大きな違いはないでしょう。もっとも親父、お袋は明治の生まれ、祖父に至っては江戸の人というわけで、時代も環境もまるで違いますので、どんなものでしょうか。しかし、私の青春のその大部分が父親の背負う亡霊をいかに超克するかということに費やされていたことを思えば、いろいろと複雑な思いはありますが、ま、総じて生涯を自分勝手に生きるという点ではそう大きな違いはないでしょう」

 「そうですか、確かに父親の超克とは男にとって生涯の問題ですね。それにしても、あなたにそのような優雅な生き方を選ばせたおとう様との確執とは、まことに好運としか言いようがありませんね」

 「そういうことになりますかね。父親としては息子のことなぞ理解できぬままボケてしまいましたけど、ま、その後、ボケて迷ったまま現れるということもないようですから、私のアフターケアが有効だったということになりますでしょうかね」

 「アフターケアといいますと……」

 「簡単に言えば仏教で言うところの追善供養というわけです」

 「ほほう、ということはおとう様も、あなたの今の生き方を納得されて成仏されたということですな」

 「言い換えれば、息子に並外れた隠遁生活を強いるほどに深かった自分の業の深さみたいなものを、それなりに懺悔しえたということじゃないですか、どうでしょうか……」

 「ハハハ、それはなかなか辛辣な言い方ですね」

 「そうなりますかね。しかし、超俗的に優雅に生きるとは、人畜無害ではあるにしても無味乾燥な枯淡の境地を生きるばかりの人生の定年退職者というわけじゃありませんから、自由奔放に言うべきことは言い、受けるべき批判は大いに受けなければならんと思います。ただ、私などを批判しようと叱責しようと、それによって私が失うものを持たぬものと見抜かれておりますので、誰も、そんな実のない努力はしないということです」

 「それじゃ、単に無視されているに過ぎないじゃないですか。まして、あなたが何をしても反響のない表現ということになってしまいますから、それじゃ空しくて何ごともできなくなってしまうんじゃないですか」

 「ふむ、確かに、それは私の表現における重要な問題です。ただここで見落としてならないことは、その<空しさ>がどこにあるかということです。私の場合、今あなたが言われたように評価のない表現に特別な空しさを感じることはないのです。むしろ芸術家としてヒトビトの欲望の中で自己愛と欲求不満にまみれて己の発育不全を生きることをいさぎよしとしない、つまりそんな女々しい生き方こそが私にとっては<空しい>と感じられたということです。そういう意味において、<空しくなく生きる>ということは私の大命題でもあります」

 「確かに、芸術家のみならず、あなたの言われる欲望と欲求不満、そこで自己愛を抱えて生きることが様々な発育不全を引きずってしか生きえないというのが、正に世俗の生き方というわけでしょうから、その世俗を捨ててしまえば確かに<空しさ>の対象はまるで反転してしまうということもあるでしょうね。しかし、世俗的な血みどろ汗みどろの中で漏らす<空しさ>の吐息を背負ってこそ芸術が芸術たりうる土壌が保証されるんじゃないんですか。そんな空しさ哀しさ痛みを捨ててしまっては、つまり、あなたの立場に立ってしまったら、もはや芸術は語れなくなってしまう、そう思うんですがねえ」

 「正におっしゃるとおりです。私にとっては、そもそも芸術なるものが<空しさ>の元凶のひとつでもあったということです。ここで一言つけ加えるならば、私が日常的に抱える苦悩的諸問題に芸術はなんら回答を用意しえないという、当たり前といえば当たり前すぎる挫折です。当時まだ十代の青年であった私にとっては、親兄弟の欲望が発育不全を絡めて錯綜する肉親相克とか、家業の経営不振という問題を背負わされていて、脳天気に絵さえ描いていれば食っていけるという情況にはなかったということです。

 改めていうまでもなく、私が絵を描くという表現行為に携わっていたのは、結局のところ自己救済の方法論であったに過ぎないというわけですから、それにもかかわらず欲求不満の中で絵も描けない芸術家などというものをやっていたんじゃ生涯救われないと思った。いやむしろそんな一日が生きられない、明日が生きられない情況だったというわけです。

 ここから後に空しくなく芸術的手段を救済論として模索する道が開かれた、それが<不空芸術菩薩論>というわけです」

 「ふむ、すると自己救済という問題がいま言われた<不空芸術菩薩論>になったとしましょう。ということは、先ほどの<空しさ>とも関わることですが、菩薩論を標榜するからには世俗と勝義を結ぶところに救済論を展開することになるわけですから、当然、自己救済と他者救済をどういう関係で成立させるのかということが語られなければならないわけですね。これが宗教的な救済論であるうちは、仏という無償の慈悲を背負ってのことですから他者救済とは使命であり生きがいたりうるわけですが、芸術の他者性が<空しい>と言われたあなたの場合、どのようにして芸術的手法としての他者救済を克服し実践されたのですか」

 「いまご指摘頂いたその問題が私の<不空芸術菩薩論>を成立させる一番重要な問題ということです。

 確かに、自利利他を同時に成立させる接点にこそ菩薩行というものはあるわけですから、自己救済行としてする芸術的手法はそのまま他者救済行として成立しうる可能性が拓かれています。ここで菩薩行の他者救済という側面を強調すれば、密教の護符を芸術的手法として提示するという方法があります。早い話がヒトビトの願望成就に見合った護符を宗教的儀式の中で、しかも芸術的手法を用いてお授けするというわけです。現に商売繁盛のお札である七福神に異国趣味の芸術的価値を見い出すこともできるでしょうし、もっと直截に宗教性強めた仏画なんかは護符そのものともいえます。あるいは禅僧の自己確認といいうる墨跡なんかも、そこに宗教性を付与することも芸術性を付与することも可能です。
 しかも、この利他行としての芸術的手法は、それによってヒトが救われたか否かということは<空しさ>の評価の対象にはなりえません。それは大金を払って護符を頂いてもそのご利益がなかったからといって寺に怒鳴り込むヒトがいないということによって納得できるところです。それは頂いた護符の霊的救済力を十全に享受しえないヒトビト自身にも己の業の深さを悔いる気持ちがどこかにあるからかもしれません。

 まして利他行で提示される<作品>に救済力を付与する方に不備があるとしても、それは救済者としての行者の力量不足に還元されてしまう問題であり、常に修行という努力精進が要求されて<空しさ>などの入り込む余地はありません。というわけでここはどこから叩いても<不空 (空しくない)>という充足感で満たされているのです」

 「ふむ、それで、あなたの場合は、どのような形でその利他行をされたのですか」

 「私の絵の場合は、利他行としての可能性を拓くということで充分でした。たとえば何がなんでも、私の絵によって救済されたいという苦悩者に遭遇しなかったということでもありますが、私の方もたとえばこの絵で商売繁盛させるぞとかいう具体的な接点がありませんでした。言い換えるならば、利他行をそれとして提示する舞台装置を積極的に用意しなかったということです。ですから、その点に関しては至って消極的に絵を見たヒトが救済論として享受することを拒否しないという程度のことです。それを怠慢としてご批判されるならそれはまったくその通りかも知れません。

 しかし、これは私の宗教観あるいは救済論に関わる問題ですので、いまのところ変更の予定はありまん。ただ一言申し上げるならば、救済論における他者救済とは、所詮ひとつの契機に過ぎず結局は救済されたい苦悩者個人の自己救済に還元されてしまう問題であるという認識です。まして混沌として多様化した価値観が混在している現状において、信ずるもののみが救われるような宗教に未来は見ていないということです」
 「おおっと、それはどういうことですか。それではあなたの言われる<不空芸術菩薩論>はどうなってしまうんですか」

 「ま、そういう可能性もあるという程度のこととして納得して下さい」

 「そ、そんなあ……、それじゃ無責任じゃないですか」

 「そうですか、そんなに驚くほどのことじゃないでしょう。これは責任論じゃなくて方法論の問題ですからその可能性を拓くことにも意義があります。宗教論でやるならこれでどうぞというわけです。だいいち私が<不空芸術菩薩論>の中にどっぷりと浸かっていたら、いまのこの平安は保証されないんじゃないですか、そう思いませんか」

 「そ、そうですか……。それは<不空芸術菩薩論>がもたらした成果じゃなかったんですか」

 「ハハハ、そのご指摘は外れていません。確かに <行> というものはヒトの生き方に関わる総合的なものでなければ行たりえないということですから、積徳の菩薩行は現在の私の基礎体力というようなものですね。しかし、それがすべてで世界を語り人類の未来が語れるとは思えません。
 こういう言い方はどうでしょうか、多種多様な価値観の中ですでに生まれ生きつづけているわれわれは、それぞれの地縁血縁を無視しては人格たりえないのですから、そこで個別的に育まれた関係の中で反省者たりうる基礎体力を養うしかなく、それを踏まえて初めてより広い世界について語らざるをえない。ここでは自己の依ってたつ主義主張を他者に押しつけるのではなく、いかに世界に対し反省者たりうるかを語るにとどまるのです」

 「そうすると、あなたの場合、その世界的な反省者に至る一貫した理念というものはどうなっているんですか」

 「まず、一番基本になる問題は<自分とは何か><いかに生きるべきか>に尽きるのです。この当たり前すぎる問題が基本であることが重要です。あらゆるヒトビトにとって自明である問題提起こそが多様性に対応しうる可能性を拓くからです。

 そして取り急ぎ私の基本理念を語るならば、それは<反省者の論理>ということになります。

 いつのまにか生まれ生きつづけてしまっている<私>が、<私>については無明無知であるからこそ「何?」「なぜ?」「どうして?」をとめどなく問いかけ続けてきたのですから、<問うこと>によって始められた<私>とは、どのようにしたら<問いつづけられるのか>に回答することでかろうじて<私>であることこそが最もふさわしいというわけです。」

 「し、しかしなあ、あなたのような隠遁生活者はいいとしても、いま言われたようなことを世俗的に実践するにはいったいどうしたらいいんですかねえ。なかなか具体的なイメージというものがつかめませんねえ」

 「そうですか、でしたら先ほどの<不空芸術菩薩論>の菩薩論的構造をご自分の中に組み入れて、すでに無意識のままに生まれ生き続けている自己を<表現者>として捉え返すというのはどうですか。方法としては日常的営為をことごとく表現行為と表現経験の関係で意識化し、その目的を<ある表現者>といいうる<私>の無意識へと還元するところへ設定するというわけです。
 そこでは<私たりうる私>として生きられていたものが、ことごとく無力化されて<私たりえぬ私>として立ち現れ、自己否定をしつづける自己を<とりあえずの私>として引き受けることになります。ここで、なあんだそんなことか、どんな苦悩だか知らないが何だって<とりあえず>ですんでしまうのなら何でもありだ、なんてうそぶくのも結構です。そこでわれわれとしては、だったらあなたもその<とりあえず>でやってごらんなさいと言うにとどめておきましょう。
 これは内輪の話ですが、この<とりあえず>でさえ積極的に引き受けることの難しさと労力は並大抵ではないということです。だいたい<とりあえず>がただの責任逃れでしかないなんて思っていられるうちは救済もないということです」

 「ふむ、<とりあえず>ですか……」

 「ええ、そこで私は<とりあえず>山を降りるつもりです」

 「ええっ、隠遁者をやめるんですか」

 「そう、もはや隠遁生活とは言えないかも知れませんが、<何行者>としての方法はいろいろあります」

 「で、今度は何をなさるんですか」

 「無論、言葉遊びで言うなら<何って何!?>をするわけです」

 

 


 

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